言い出せない本音は胸に仕舞い込むしかない。こんな事を言ったって「どうしようもない」し、「どうにもならない」のは分かっているからだ。
「いや、何でもない。サッカーチームのみんなは、いずれボクとは違う道を行くんだろうね」
「エル坊、サッカー選手になりたいのか?」
「まさか。ボクの身体能力じゃ、サッカー選手になれる確率は五千分の一。そんなの分が悪い賭けだろ?」
「だが、分の悪い賭けをしてみるのも悪くはないかもしれんぞ」
ああ、そうやって、いつだって祖父は前を向いている。それが今は憎々しいほどに。
「そうかな……。サッカーは楽しいよ。ボクも好き」
「サッカー選手は諦めるのか?」
路肩で立ち止まり、エルニィは祖父へと言葉を投げていた。
「そうじゃなくってさ。じーちゃん、分かってるくせに」
「人機に関しては言えんぞ」
頬をむくれさせる。いつだって、立花相指というこの男はそうであった。
自分が何を求めているのか、自分以上の頭脳で先回りする。だから、それが恨めしいと言っているのだ。
「ボクにも手伝わせてよ。ラ・グランサバナで戦っているんでしょ? 古代人機って奴と」
「ハッキングか。そういう腕だけは一人前だな」
ベネズエラ軍部にハッキングして分かったのは大きく二つ。
一つはアンヘルという組織が古代人機と呼称される存在と度重なる死闘を繰り広げている事。そしてもう一つは、人機という最新鋭の兵器に関する報告書であった。
「血塊炉も、モリビトとか言うのも、ボクだったらもっとうまく運用出来る。ねぇ、じーちゃん。ボクを軍のメカニックに推薦してよ。ボクならやれる」
「エル坊。お前さんは物分りがよ過ぎる。だから軍になんてやれんな」
祖父は鼻をほじりつつ歩み出す。その背中へとエルニィは不機嫌に続いた。
「……別に軍人になりたいわけじゃないんだ」
「では何になりたいんだ? サッカー選手が無理ならばもっと確率の高いものを選ぶか?」
「そりゃ、確率論で言えばボクの適性は研究者だ。メカニックだよ」
その言葉に祖父は大笑いを返した。
「エル坊がメカニックか。そうなった頃には人機とやらもどうなっておる事か」
「……バカにしてるの?」
「いんや。そうなれば面白いかもしれんなぁ」
「そう言ってはぐらかして。だって、じーちゃんは……」
何度も口にしかけてやはり、決定的な一言は言えない。祖父は鼻歌交じりに夕陽を望む。
「エル坊。出来ん事に挑戦してみろ。お前には意外な才能が隠れておるかもしれん」
「……サッカー選手になれって?」
「それもアリかもしれんな」
嘆息をつくと数人のチームメイトが駆け抜けていった。
「おい、エルニィ! 明日の試合、遅れるなよ!」
「お前が抜けたらエースはいないんだからなー!」
「分かってるよー!」
手を振り返しているのを、祖父は立ち止まって凝視していた。
「……何?」
「随分と打ち解けたようじゃないか。最初は氷みたいに冷たかったのに」
「最低限のコミュニケーション。それに、サッカーをやるのならチームプレイは欠かせない。それだけで勝率が五割も変わる」
祖父は呵呵大笑と笑う。
「エル坊の口からチームプレイと言う言葉が出るとは! 変わったのう、やはり……」
「笑わないでよ! それに……ボクだって負けるのはヤだし」
「負けず嫌いの性格がここに来て幸いしたか。何度かクイズを出したな。今日の命題はどうしてくれようか」
「……勘弁してよ、じーちゃん。だってじーちゃんの命題、解くのに一週間はかかっちゃうんだから」
「一週間かかってはいかんのか?」
「……今はまずいと思う」
それがどうしてなのかが口をついて出ようとして、やはりと唇を噛みしめた。
「しかしな、エル坊。この世はお前さんの解けんもので溢れておる。確かにIQ300の天才じゃよ。我が孫ながら末恐ろしいほどに。しかしな、何も天才だけが世界を回すわけじゃない」
「凡人のほうが多いんだから当然じゃないか」
「……それが分かるようになっただけ、マシじゃよ」
高層ビルの下階に入る。このビルの最上階が自分達の家だ。
覚えず、エルニィは祖父の袖を引いていた。
「……何をしておる?」
「じーちゃん。今日は家に帰るの、やめよう。ほら、下で久しぶりにおいしいものでも食べてさ! ぱぁーっと行こうよ!」
不自然に映ったかもしれない。それでも、今は――。
「そんな金はないのう……。一度家に戻らんと」
階段へと足を進めかけた祖父を、エルニィは遮っていた。
「行っちゃダメなんだ! じーちゃん! ……だって……」
言えない。そんな残酷な事、言えるものか。
しかし、祖父はいつものように微笑むのみであった。
「エル坊。退かんか。家に帰れん」
「今日は帰らなくってもいいんだって!」
「……それはどうしてだ?」
「……じーちゃんは、ずるいよ」
エルニィの頬を伝うのは熱いものであった。しゃくり上げたエルニィは頭を振る。
「答えは分かっているはずなのにさ……。どうしてイジワルするんだよ……」
「意地悪はした覚えがないが」
「今してるじゃん! 分かってるんでしょ? 帰ったら……!」
面を上げたこちらを祖父は真っ直ぐに見据えていた。
「……エル坊。何歩だ?」
そこまで分かっているのではないか。だったら、最初からもっと早くに手を打てばいいのに。
どうして、手遅れになってしまうのだろう。人間はどうして――そちらに行ってはいけないのだと分かっていても……。
「……じーちゃんの心拍数の限界はもう近いんだ。階段を上ったら三階に辿り着くまでには」
「死んでおる、か」
それが今日なのだと、エルニィには分かってしまっていた。否、とっくの昔からだ。
数式が見える視界の時から、祖父の死期はいつなのか、全てが明確に分かっていたはずなのに。
その日をいざ前にすると足が竦む。何も考えられなくなる。
祖父は顎に手を添えて考え込んでいる様子であった。
「しかし、ここで時間を潰しても死ぬのだろう?」
「それは……」
「エル坊、こいつが最後の命題だ」
祖父が白衣から取り出したのはメモ用紙であった。そこには数字とバツ印が書かれている。
これを用意したという事は、祖父自身も分かっていたはずだ。
今日何が起こるのか。今日何が終わるのかを。
「……行っちゃ嫌だ……」
「エル坊。お前さんは考え込むクチじゃからの。この命題を解くのに一週間では足りんかもなぁ」
「何だって、最後にそんな事を言うのさ!」
「帰らせてくれ。お前さんと生活してきた家で死にたい」
そう言われてしまえばこちらは拒む事なんて出来ないではないか。親にも捨てられた自分が、行き着いた場所だ。祖父の傍でずっと一緒だと思っていたのに。叶わないと分かっていても、それだけが寄る辺だったのに。
「……じーちゃんはイジワルだ」
「意地悪でも構わん。最後にただいまを言わせてくれ。エルニィ」
「……分かった。でも、こっちも言わせて欲しい。最後の最後まで、喋って。ボクにじーちゃんの声を聞かせてよ」
祖父は微笑み、自分の頭を撫でる。
一歩一歩、祖父の心拍数が弱くなっているのを感じる。数式の眼が消えても分かる。血流、脳波、何もかもが祖父の終わりを示しているのだと。
それでも、祖父は歯を食いしばり、最上階まで耐え抜こうとしているようであった。
「……お前さんがサッカーを始めた時はまだまだだったのう」
「……弾道予測と軌道計算と物理学が出来れば、簡単だと思っていたね」
「それが今や、数式にも頼らなくなった」
「じーちゃんが連れ出すからだよ」
呼吸が浅くなってきた。脈拍も乱れ始めている。
溢れ出る涙は止め処ない。思い出す度に胸がちくりと痛む。
「サッカーだけじゃない。友達だって要らんと、……生意気な事を抜かしておったわ」
「案外、必要なもんだね。覚えておくよ」
三階を超えた。理論上では祖父はもう死んでいてもおかしくはない。
それでも、祖父は言葉を投げ続ける。
「……人機に関しての話じゃが……ここで終わると分かっていても言えん。それだけはすまんな」
「……さっきのメモに答えはあるんでしょ?」
「ああ。答えは未来にある。無数の出会いが、恐らくはお前さんを待っておるじゃろう。それを拒むな。打ち勝て。そして、出会いに感謝するといい。その末にあるはず。未来とゆう名の答えが……」
「じーちゃん。家だ。玄関だよ。これで、帰れる」
だが帰ったところで。祖父は死ぬ。その現実だけは変えられない。
どうして曲げようのない現実に人は抗おうとするのだろう。そんな事をしても無駄だと、悟り切っていた頃の自分を思い返す。
醒め切った心。荒んだ他者への関心。無感情の冷血なる少女――。それが自分のはずだった。きっと、何年先になってもそうだろう。
そう、疑いさえも持たなかった自分を変えたのは祖父だ。
この世は美しい。まだ諦めるのは時期尚早だ。世界には価値がある。様々な価値が。それを見定めるのは自分自身の――心。
扉を開ける。ゴミ屋敷のように物が散乱した自分達の家。帰るべき場所。
祖父はフッと安堵したようであった。
「ただいま。エル坊」
「おかえり。じーちゃん」
祖父が虚脱する。その身体から完全に生命が消えたのを目にして、エルニィは口にしていた。
「五億分の人なんて言って、ゴメン……」
それだけではない。今まで言えなかった言葉が口をついて出る。
「数式で全てが見えるなんて嘘っぱちだ。じーちゃんの言う通りだったよ。サッカーも、チームメイトも、何もかも、やってみなければ分からなかった。そういうものが、この世界なんだね。だから……」
だから、斜陽の差し込むこの部屋でさえも、嘘っぱちでいて欲しい。こんな結末も、性質の悪い嘘なのだと、言ってくれれば。
しかしそれを教えてくれる人は、今は静かに押し黙るのみであった。
これから現れるのだろうか。自分に何か、感じた事のないものを教えてくれる人は。そういう出会いがあるのだろうか。
そんなものが、存在するとすればそれはきっと……。
エルニィは嗚咽を堪え、うんと頷く。
「それがあったら……この世界は捨てたもんじゃないね」
――津崎青葉と小河原両兵が訪れるまで一週間。
まだその時をエルニィは知らない。