なんて、たわいない独り言も漏れてしまう。こうして留守を任せてもらえるのも普段、手伝いをしているからであろう。微笑んで、洗濯物を鼻歌混じりに取り込む。
流行歌に乗せてふんふんと洗濯物を取り込んだ軒先にいた影に、さつきは息を詰まらせていた。
「……ヴァネットさん……いつから?」
「……さっきからずっとだ。妙に浮き足立っているものだから声をかけなかったのだが」
さつきは真っ赤になって塞ぎ込んでしまう。そうでなくとも、メルJは苦手な部類の人間だ。アンヘルメンバーの中でも会話のない相手の一人でもある。
気まずげに洗濯物を居間に運ぼうとすると、足元がよろけた。
「ふわっ――!」
「大丈夫か?」
自分の体重を軽々と受け止めたメルJの身のこなしに、ああやはり、という思いを新たにする。
――この人は、ずっと戦ってきた人なんだ。
エルニィの最初の評価を当てにしているわけではないが、メルJならば研究施設から人機を奪い取ることなど造作もないだろう。それほどに洗練された双眸に何も言えなくなってしまう。
「……何か」
「いえっ、何でも……!」
居間に追いやった洗濯物を畳む準備をする。メルJはどうしてだか、軒先から離れようとしない。雨の庭を眺め、物々しい拳銃のメンテナンスをしている。
彼女からしてみれば、身についた所作なのであろうが、自分からしてみれば危なっかしい。傍らで凶器をいじられて平気な人間がこの日本にいるものか。
かといって、ここから離れて別の場所で洗濯物を畳めば、それは厄介だと思っている証明になる。
さつきは無用な衝突は避けたかった。
ゆえに、黙りこくって作業に没頭するのが正解だと判断する。
――こんなだから、私は臆病者……。
嘆息をつき、赤緒たちの衣類を畳んでいると、不意に声が投げられていた。
「……雨は、この国の雨空は妙に湿っているのだな。どうにも好かん」
そういえばメルJは日本に来て何だかんだでまだ日が浅いと聞いていたか。さつきは欧米の文化とはやはり違うのだろうかと推測する。
ずっと日本の旅館で育ってきた自分からしてみれば海外なんて夢のまた夢。縛られ続けるのだと思っていただけに、ここに来て人生の転機が訪れたことに驚嘆するばかりだ。
兄の幻想を追いかけ、まさか人機の操主として、兄のために尽くそうとするなんて思いも寄らなかった。一年前の自分に聞かせたらきっと驚いて目を回すに違いないと、そう思うと少しだけ可笑しい。
「……ヴァネットさんは、雨はお嫌いなんですか?」
まずは当たり障りのない会話から。そうすれば自ずと相手の境遇も見えてくるはずだ。無論、友次からある程度は聞かされていた。
メルJ――否、メシェイル・イ・ハーンの過去を。
しかしそれは単なる伝聞、情報だけだ。自分が問いただしたいのは、今のメルJであり、そして彼女自身が辿ってきた足跡であった。
メルJは雨空を仰いで口にする。
「私の原風景は、いつだって赤く染まった空と、そして焼けた地平ばかりであった。雨はそれを慰撫する存在だ。硝煙の臭いに、血の臭いも……」
思わぬ返しにさつきは困惑していた。島国でぬくぬくと育った自分とは違うのだ。メルJの過去は闘争の記憶。その傷跡を抉り出すような真似をしてしまった己の不明を恥じ入る。
「……その、すいません……」
「謝る必要性はない。その因果も、もう拭った。完全に、ではないがな。……小河原と、お前たちのお陰だ。その点では感謝している」
僅かに微笑んだメルJはまだ不器用であったが、その瞳は以前のような苛烈さばかりではないのは窺えた。
彼女は己の過去と決別し、兄であると言うJハーンを討った――。
それがどれほどまでに自分と正反対なのかを思い知る。自分は兄に焦がれたが、彼女は復讐の対象として肉親を見ていたのだ。
どこまでも身を焦がす恩讐の炎。それを纏いながら、銀翼の人機を駆り、今の今まで孤独に戦ってきた。
その思いを推し量ることさえも傲慢で、自分はぎゅっとタオルを握り締める。
どう言葉を弄しても、メルJの心には届かないような気がしていた。
赤緒は、エルニィは、どうして対等に話せるのだろう。
エルニィは長年の誤解があったとしても、赤緒はメルJとの邂逅は敵同士であったはずだ。それなのに、今は家族同然である。
どうすれば、そんな風になれるのだろうと思いを馳せる。誰とでも仲良くなれるのが、赤緒の得意技なのだろうか。
あるいは彼女の……慈愛そのもののような柔らかな空気と、それと相反するような強い意志が醸し出す、強さと優しさに皆惹かれていくのかもしれない。
「よく謝るんだな、川本、だったか」
そういえば自分はメルJに名前すら呼ばれたことがない事実に気づく。どこかこちらとの距離感をはかりかねている様子のメルJに、さつきは微笑みかけていた。
「さつきでいいです。川本って呼ばれても、多分咄嗟に反応できないですし。……私って愚図だから」
「そう自分を卑下するものでもない。戦場ではそれが生き死にに直結する。できるだけ、自分を大きく見せてやるといい。その分だけ、応えてくれるものだ」
「応えて……。人機が、ですか?」
「まぁ、そうなるな。お前の人機は、《ナナツーライト》だったか」
軟弱な人機だと罵られそうで、さつきは身を強張らせる。しかし、放たれたのは意想外の言葉であった。
「いい人機だ。操主の想いに応じてくれる、優しい機体だな」
その評にさつきは面食らってしまう。メルJはその様子を見やり、自嘲していた。
「何だ、私が言う台詞ではなかったか?」
「いえ、でも……ヴァネットさんは強いですから」
「強いから、柔らかい言葉を発すると違和感でもあるか?」
「いえっ、そんな……!」
痛い沈黙が降り立つ。雨音が等間隔に沈黙を割り当てているようであった。さつきの側に三拍、メルJの側に三拍の静寂が流れた後に、彼女は拳銃を精査しながら声にする。
「……以前までの私ならば確かに、こういうことは言わなかっただろう。弱さを見せればそれだけで相手につけ込まれる。弱さは敵だ、飼い慣らされるな。銃口を向けた相手は愚か者だ。自分が銃を向けた時点で相手は死んだと思え……そう、何度も教え込まれてきた。私は、壊すだけしかできなかっただろう。……ここに、来なければな」
メルJもアンヘルに来て変わった。変われた人間のはずなのだ。過去と決別し、弱さも強さの一部なのだと思い知れた。
自分がこうして学んでいるように、きっと彼女も不器用でも前に進もうとしている。それは昨日までではない明日のはずであった。
誰だって昨日とは違う明日に焦がれているはずだ。
それはメルJとて例外ではないだろう。
「……アンヘルが、変えてくれましたか?」
「……まだ分からない。これは弱腰でも何でもなく……本当に分からないんだ。Jハーン……あいつをずっと追い続けていた。ずっと憎み続けていた。故郷を焼いた敵、復讐の矢として、自分は放たれるべきなのだと。だが、案外、復讐の先にあったのは虚しいだけだった。他人がよく訳知り顔に言う、復讐なんて意味がないって言うのを、身に染みて感じたよ。私はJハーンを討つ時、少しだけ安堵していたんだ。もう、この男の影に縛られずに済むって。そこにあったのは、大義でも、ましてや大上段に携えた正義の意志でもない。……ただの人間として、私はあの男から解放されたかった。八将陣を追い、兄を追い、そして戦い果てたこの身は、存外に脆かったということだ。笑えるだろう?」
悲しげに笑ってみせたメルJにさつきは覚えず、と言った様子で立ち上がっていた。
「何だ。私と話すのが煩わしいのならば行くといい。どうせ、私のような血と硝煙に塗れた人間は、独りがお似合いだ。赤緒たちが帰ってくるまでにはまだ時間がある。私なんかの相手をしなくとも――」
メルJの呼吸が止まる。それを――抱いた腕で実感する。
どうしてなのだろう。
さつきはこの時、メルJを抱き留めていた。自分よりも背の高い女性を、後ろから優しく抱き締めるなんて思いも寄らない。
メルJも意外だったのだろう。言葉を失っているようであった。
「……何の真似だ」
わざと凄みを利かせた言葉を選んでいるのが分かる。そうだ、彼女の生き方は過酷だが、勝手に独りだと思い込んで、兄の幻想に雁字搦めになっているのは自分と同じではないか。
自分は兄に復讐しようなど、死んでも思わないだろう。それでも、肉親に対して思いを募らせるしかなかったメルJはきっと、寂しかったに違いない。
誰かにこうして欲しかったに、違いないのだ。
自分がこうして欲しいように。
「ヴァネットさん……。生きるのって、難しいですよね。私なんかが重ねたら迷惑かも知れませんけれど、私もぶきっちょで……。どうしたって、お兄ちゃんに会いたい。無理だって言われても、お兄ちゃんを……いつかは守れるようになりたい。そのために操主でいられるんです」
「……私とお前は違う……」
そうだ、違う。あまりにも違うはずだ。それでも、目指すものは同じでありたいではないか。
いつか――独りじゃなくっていいんだよと、誰かに言って欲しいはずだ。優しい生き方を模索しているはずなのだ。
メルJは拳銃を置き、抱いた腕へと手を回していた。
「……あたたかなにおいがするな、お前は」
「洗濯物のにおいですよ」
「いいや……あったかい……。懐かしいにおいがする」
メルJの過去がどこまで友次の言った通りなのかは不明だ。それでも、過去を踏み込めてそして今に至ったのならば、赴けるはず。未来へと、その足で。
そっと手を離すとどこか気恥ずかしかった。それはお互い様のようでメルJもはにかんで笑う。
「こうして、お前と笑える日が来るなんてな。一番に縁遠い相手だと思っていたが……」
「それは、私もです。ヴァネットさん、思ったよりもずっと……」
そこから先を継ごうとして、メルJに先回りされる。
「人間らしい、か? ……そうかもな、人間らしい、小さなことに悩んでいたのかもしれない。些事に悩むなんて馬鹿馬鹿しいのだと、どこかで判じていても、だ。私は強くなり切れていない。……だがそれでもいいのだと、教えてくれたのはお前たちだ。アンヘルという居場所が、私に第二の人生を歩ませてくれている。復讐と報復しか知らなかったこの愚かしい私に、もう一度生きろ、と……」
メルJは生まれ直したのだ。Jハーンを倒し、そして一人の女性として。
その背中を押してやれなくってどうすると言うのか。
「ヴァネットさん。私……小河原さん、お兄ちゃんのために戦っているのもあるんです。お兄ちゃんを守りたい。守れるだけの力が……欲しい」
「小河原か。奴もあれでどこか、達観している。何かを……拭い切れていないような感覚だ」
それは自分も似たように感じていた。両兵は何かに縛られている。自分たちよりももっと強く、もっと黒い何かに。
その呪縛から少しでも解き放ってあげるのが自分たち、アンヘルメンバーの役割なのかもしれない。
「ヴァネットさん。小河原さんは……とても強くて優しいですけれど……でも時々、とても怖くなるんです。このまま、どこかに行っちゃいそうで。遠くに……独りで歩いていきそうで……」
「それに関しては同意だな。小河原はあれで危なっかしい。お前を助けた時も、脇腹を鎌で割られていたからな」
「そっ、それを言うなら、ヴァネットさんとだって! 足を撃たれて……!」
そこまで言って、ハッと口を噤むとメルJはどこか、いたずらが成功したかのように笑うのであった。
一端の女性と言うよりも、ころころ笑うその様子はまるで――自分と年の頃の変わらない少女のようであった。
今まで相当無理をしてきたのだろう。
さつきは、そうだ、と手を叩く。
「ヴァネットさん。もし……小河原さんが来たら、ちょっといたずらしませんか?」
「いたずら? お前らしくないな、さつき。何を仕出かすつもりだ? まさか、立花のように派手なものを用意する気か?」
「いえっ、私とヴァネットさん、二人でやるささやかないたずらですよ。もしかしたらびっくりしちゃって気を失うかも」
少しだけ声が弾んでいた。普段いい子でいるだけに、少しだけ悪い子になってしまうのはどこか気持ちが昂揚する。
その言葉振りにメルJは興味深そうに相貌を振り向ける。
「ほう……面白いな。やってやろうじゃないか」
「では――」
「ったく、雨に降られるたぁ、オレもツイてねぇな。おっ、さつきとメルJじゃねぇか。他の連中、どこ行った?」
「皆さんはお留守です。お帰りなさい! お兄ちゃんっ!」
「おう、こいつぁ、チャンスかもな。さつきー、飯用意してくれ。黄坂に文句言われる前にずらかるわ」
うろたえずに応じた両兵が軒先に腰を下ろす。その隣で、メルJはずっと面を伏せていた。
あまりに異様に映ったのか、両兵が勘繰る。
「……どうした。何かあったンなら、言ってみろ」
「その……小河原……じゃなくって……その……。やっぱり言えるか! さつき、卑怯だぞ!」
思わぬやり取りに両兵は面食らう。さつきが台所から声にしていた。
「約束ですよー! 私は、お兄ちゃんっ! って言ったんですから!」
「……お前も来るな。馬鹿正直に……」
「……来ちゃ、まずかったのか?」
「いや、そういうわけでは……。ただ、さつきと賭けをしていて……。お前がもし、雨上がりに来たら、二人で言おうっていう……。おっ……お兄ちゃん、って……」
そこまで口にしてメルJは耳まで真っ赤になってさつきへと抗議する。
「やっぱり、これはお前に有利なだけじゃないか!」
両兵は放たれた言葉に目を丸くする。今、メルJは何と言ったのか。
「……オレが、お前の兄貴?」
「じっ、実年齢では無理なことは重々承知だ! だが……お前は私を、Jハーンの呪縛から解いてくれた。だから、特別な呼び方を……したいだけなんだ」
メルJなりのいつもの不器用さか。両兵はへっと笑みを浮かべてメルJの頭を撫でてやる。
「ったく……オレは何人の妹の兄貴なんだっつう……。いいぜ、好きなように呼べよ」
「じゃ、じゃあ一度だけ……お兄ちゃ――」
「ただいまー! 地鎮祭、終わりましたー! ……あれ? 小河原さんに、ヴァネットさん?」
メルJは帰宅した赤緒を目にするなり、紅潮して銃口を突きつけていた。
「おっ、お前はいっつも!」
「な、何なんですかぁー! 私、何かしました?」
「黙れっ! 撃ち抜いてやる!」
逃げ回る赤緒をメルJは執拗に追いかける。その様を眺めて笑いつつ、両兵はさつきから手渡された緑茶を呷っていた。
「連中も元気だよな。退屈はしねぇ」
「……でもヴァネットさん、思ったよりも素直な方なんですね」
雨の間に何かあったのだろう。メルJとさつきの間だけの約束が。それをわざわざ勘繰るまでもない。
「……しっかし、さつきはともかく、あいつの兄貴になンのか。ははっ……じゃあ簡単にゃ、死ねねぇな」
少なくとも、兄は妹の成長を見守る義務がある。
彼女らが絆を紡ぐまで、見守るだけの義務が――。