「……ナナ子より聞いたことがあります。この世には、知らないほうがいい真実もあると。たとえば、宇宙人が実は知らないところでひっそりと人類侵略に乗り出しているかもしれないだとか、私たちが歩く地下には地底人がいるかもしれないだとか……」
ナナ子らしいからかいだ。否定するわけでもないのだが、作木は当惑していた。
「それはその……僕らも本当かどうかは分からないところだね」
「その一個なのかもしれないことを、私は発見してしまったのです……。ひょっとしたら、今日この日より、世の中がひっくり返ってしまうかもしれません……」
それほどまでのことが自分の部屋で起こるだろうか。
作木は信じたわけでもなかったが、レイカルのするようにきょろきょろしてしまう。
「……まさか、新しい敵が……」
「いえ、それよりもっと恐ろしいかも……。知らない間に、と言うのが最も怖いのですね……。去年はなかったのに、今年はあるなんて……」
ごくり、と唾を飲み下す。ここまで迫真めいた声音なのだ。きっと、レイカルにとって恐ろしいことに違いない。
「それは……一体……」
「あれです! 創主様! ……うぅ、何てものを発見してしまったのでしょう……!」
レイカルが目を閉じて指差した方向にあったものに、作木は硬直してしまう。
それは、壁掛けのカレンダーであった。
立ち上がって検分するが、何の変哲もない。一応、持ち上げて確かめてみても何かが隠れていた痕跡もなければ、そんな余裕もない。
「れ、レイカル……? カレンダー、だよね?」
「気づかれないのですか……! 創主様! よくよくご覧ください! カレンダーの末尾です!」
「末尾……?」
そこではたと気づく。そうか、今年は――。
「うるう年か」
その言葉を聞いてもレイカルは恐ろしそうに身を震わせる。
「ああ……これがナナ子のよく言う、“お分かりいただけただろうか?”なんですね……! 何という恐怖! 一日いつの間にか多いなんて……!」
「いや、そのぉ……何て言うのかな。これは怪奇現象でも何でもないんだよ、レイカル。取り決めとでも言うか……」
「取り、決め……? 誰が取り決めたのですか?」
困惑顔のレイカルにそういえば、と作木は答えられなかった。
「そういえば……何でだろう?」
「簡単なことですわぁ……作木様」
いつの間にか後ろに佇んでいたラクレスにレイカルと共にひっと悲鳴を上げてしまう。
「……いつから?」
「ずぅっと……。作木様、解決方法をお教えいたしましょう」
「あ、それは助かるかも……。ラクレスは物知りだから知ってるんだよね?」
「いいえぇ……。こういうのは、分かる者に聞けばいいのです……」
「分かる者……って……」
「え? うるう年が何で今年なのか、ですって? えーっと……何でだっけ?」
振り返った小夜にナナ子はふふんと応じる。
「馬鹿ねー、小夜。スタイルばっかり育って、おつむのほうは相変わらずー?」
「う、うっさいわね! ……で、何でなの?」
問いかけられたナナ子は渋い顔を作っていた。
「……分かんない」
「ほらー! あんただって分かってないんじゃない!」
「しょーがないでしょー! まともに習ってこなかったんだもん!」
お互いにいきり立って机から立ち上がった二人を作木は諌める。
「まぁまぁ……。で、何でなのか、分かる? ヒヒイロ」
尋ねるとヒヒイロは額に手をやっていた。
「……創主が揃ってこれですか……」
「いや、本当に何で? 当たり前のように今までうるう年って過ごしてきたけれど……」
「よくよく考えたら分かんない制度よねー。何でなんだろ」
ぽりぽりとせんべいを頬張るナナ子は部屋の隅で小刻みに震えるレイカルへと視線をやっていた。
カリクムが卓上カレンダーを持ち出してレイカルをからかっている。
「ほれほれー! 今年は一日多いぞー。どうだ? 怖いだろー」
「うっ……! やめろぉー、カリクム! 私をうるう年で苦しめるなぁーっ!」
こちらもヒヒイロからしてみれば頭痛の種のようで、大きくため息をついていた。
「あのですね……そもそもうるう年に関して習ってこなかったと言うのはまだ分かるのですが、もしこう聞かれたらどうするのですか。四年に一回しか回ってこない2月の29日の誕生日の人間はどうなるのか、などと……」
その問いに小夜は憮然と応じる。
「そっ、それくらいは知ってるわよ。確か28日か3月1日かを誕生日にするんでしょ? 私の小学校にもいたもの。うるう年生まれの子。まぁ、案の定、四年に一回しか誕生日来ないのかってからかわれていたけれどねー」
「小夜の話のバリエーションって限られているから、そういう男子には?」
促されて、小夜は自信満々に握り拳を振るう。
「当然っ! 鉄拳制裁よ!」
その答えを聞いてヒヒイロがより陰鬱に嘆息をつく。
「よもやここまでとは……。よいですか? そもそもうるう年とは太陽暦に暦を一致させるための苦肉の策なのです。大まかな決まりごととしては、4で割り切れる年はうるう年。しかしながら、100で割り切れる年は例年通りの365日。ですが例外もあり、400で割り切れる年は必ずうるう年となっております。これは世界的に出回っているグレゴリオ暦による判定の仕方ですね」
「へぇ……そうなんだ。考えたこともなかったなぁ……」
「なのでレイカルに言ってやるとすれば、四年に一回は必ず2月29日が来るので別におかしなことではない、とでも」
「そうだね……、レイカル……」
呼びかけようとして、カリクムの嫌がらせはさらにエスカレートしていた。
「ほぉーれ! 2月29日が来るぞぉー! 何でだか分からないが、今年は一日多いんだー!」
「や、やめてくれぇー! これ以上2月29日で私を苦しめないでくれぇーっ!」
見かねてか小夜がカリクムの首根っこを引っ掴む。
「やめなさいってば。誰だってワケ分かんないのは怖いんだからさ。あんたも大人げないわねぇ」
「さっ……! 小夜だって知らなかったくせに!」
「いーのよ! 知らなくったって生きていけるわい!」
今度は二人が睨み合いに入る。そんな中で、レイカルは涙目で問いかけていた。
「そ、創主様ぁ……! うるう年はどうすればいいのですかぁ! 一日多いなんて、私には納得できません!」
「いや、でもその……四年に一回は絶対来るんだし……」
「ではその年のその日に生まれた者は四年に一回しか年を取らぬと言うのですか!」
「いや、その問題は解決していて……」
こちらの思索を他所にレイカルは叫ぶ。
「何も解決してはおりません! 可哀想ではないですか! 私は……創主様に誕生日を祝ってもらったこともあります! ですが2月29日生まれの者は……それが四年に一回など……! それはとっても……かわいそうだーっ!」
まるで自分のことのように大泣きするレイカルに、作木は手を焼いていた。
自分がそうではないのだからいいではないか、と安易に言えないのはこれまでの経験からして明らかである。レイカルは誰かのために涙できる優しいオリハルコンだ。
だからこそ、変に理論じみて納得させるのではなく、きっちりとした理由と意味が必要であろう。
「……参ったな。制度上そうなっている、っていう話だから、これは感情論では難しそうなんだよね……」
「作木様。お耳を失礼……こうすればどうでしょう……」
ラクレスの不意の提案に作木は面食らう。
「えっ……でもそれは……」
「レイカルを納得させるのには、他者に感情移入するこの性格を理解しなければいけません」
「……そう言ってくれるってことは、レイカルのこと、ちょっとは分かってくれたと思っても?」
「勘違いなさらないでください。聞き分けのないオリハルコンなど無様なだけだと、言いたいだけなのです」
ぷいと視線は背けるが、その方法ならばレイカルも納得するだろう。
作木は屈み込んで、じゃあ、と提案した。
「2月29日が誕生日の人たちに向けて、できることをしないとね」
そこで不意に泣き止んだレイカルが小首を傾げる。
「できる……こと……?」
「さすがに……ちょっと大きかったんじゃない?」
作木の部屋に置かれたのはホールケーキである。それも特大級の、であった。レイカルと共にロウソクをセットしつつ、いえ、と応じる。
「だって、世界中の人たちを祝うんですから。ちょっと大きいくらいでいいですよ。……まぁ、その分、今月ピンチになっちゃいそうですけれど……」
はは、と苦笑する作木へと小夜は肘で突く。
「人がいいんだから。……でもそういうところが、作木君なのよね」
ナナ子が火を点け、誕生日を祝う準備は完全に整った形だ。
「えーっと、ではこれからレイカルのためにそのー……世界中の2月29日生まれの方を祝います。……何コレ……」
当惑する気持ちも分かるが、レイカルの心情を納得させるのはやはり理論を詰めるよりも行動しかないだろうと言う、ラクレスの提言のお陰だ。
「いえ、これでいいんです。レイカル、この大きなケーキなら、世界中の人……とまで言うと大げさかもだけれどでも……レイカルの願える人の幸せくらいは、願えそうかい?」
「はいっ! これなら2月29日生まれの者たちも、寂しくないと思います!」
大輪の笑顔を咲かせたレイカルに作木は微笑む。
「……ま、私としちゃ何でもない日にケーキが食べれていいかなー」
カリクムの意見にレイカルはびしっと指差す。
「あー! そういうところだぞ、カリクム! ……でも、いいのでしょうか? 私が代表して火を消しても……」
「いや、レイカルじゃないと、これは意味がないと思う。だって、レイカルは身も知らぬ2月29日生まれの誰かのために、泣けるんだから」
この世界の隅っこで誰かの涙を見るくらいなら、自分が代わりに悲しんでしまえる、レイカルの感受性を、この時ばかりは誇らしく思えた時はなかった。
人間である自分からしてみれば、何でもない、制度上の代物。
だが、彼女らは――オリハルコンは遥かなる悠久より、人と絆を紡いできた。
その中には、人の身では割り切れても、彼女らの身分では割り切れないことも多かったに違いない。
その肩代わりを、少しでもできるのなら、創主としてこれに勝る喜びはなかった。
「では、行きますよー……せーのっ!」
ロウソクの火を吹き消し、レイカルは祝う。
それは、どこか滑稽かもしれない。
顔も知らない誰か。何人いるかも分からない、別段困っていない誰かかもしれない。
――それでも、レイカルは少しばかり寄り添えるようになった。
自分のことだけで精一杯になりがちな人間よりも、彼女はずっと真っ直ぐだ。
だから、素直に祝おう。
四年に一回の祝祭を。
「ハッピーバースデー! 2月29日のみんな!」
両手を挙げて微笑んだレイカルに、作木も胸のうちに暖かなものが灯ったのを、しっかりと感じ取れた。
――一方で。
「うるう年ってことはさ。つまり俺がこうやって毎日打っている将棋でも、一日分、勝率が上がるってことなんだろ?」
「はてさて、それは分かりませぬ。言っておきますが、待ったは五分までですぞ」
呻る削里へとヒミコは呆れ顔で笑いかけていた。
「……あんたたち……うるう年だろうと普通だろうとやっていることは年中変わらないのね……」
「おっ、ヒミコも打っていくかい?」
「遠慮しとくわ。はい、これ」
差し出された書面に削里は眉をひそめる。
「……何だっけ、これ」
「忘れたの? 四年に一回は回ってくる竹内会の会報。今年、あんたの番じゃない」
「あー、忘れてた。そういや、俺にとってのうるう年はこれだったな……」
会報と睨み合いをしている最中、ヒヒイロが声にする。
「五分経ちましたが」
「あー、はいはい、分かったってば。参りました……。んでもって、俺は会報作りか。やれやれ、気楽な土産物屋の身分でいいんだけどね、俺は」
「年中そんな調子でしょ。ねぇ、ヒヒイロ」
「まぁ、たまには真次郎殿にも、よい頭の体操となるのでは?」
「……二人して散々言ってくれちゃって。うるう年ってのも、楽じゃないな」
そう言って削里は肩を竦めるのだった。