「……柊たちも今は学校だか何だかだろうな。学生って身分も窮屈なもんだねぇ」
大きく伸びをして街へと繰り出そうとした道中、不意に視界に入ったのは恐らく学生であろう集団であった。
「だからさぁ、お茶だけでいいんだってば。君、京都から来たんだろ? 修学旅行生だったらいい店知ってるからさ」
「……ンだよ、起きた拍子から気分悪ぃ……ナンパか」
素知らぬ顔で真横を通り抜けようとして、取り巻かれている少女と目が合ってしまう。
白い髪に小さな背丈。凛とした眼差しだが、今は困惑に震えていた。水色のボーダーの入ったセーラー服を着込んでおり、一発でお上りさんだとばれてしまう装いだ。
災難だろうな、と一瞥を寄越したこちらに、少女はあっ、と声を出す。
「……あ、あのっ……!」
集団から手を伸ばし自分のコートを引っ掴む。思わぬ挙動にナンパ集団だけではない。自分も硬直していた。
まさか顔も知らぬ少女から助けを求められるとは思っても見ない。
「……何だァ? まさかそいつ、彼氏だとでも?」
こくこくと頷く少女に両兵はハァ? と声を上げていた。
「誰がてめぇなんざ……」
「おい、彼氏ィ! いいカッコしたいのは分かるが、その子、俺らに用があるんだよね? 寄越してくんね?」
「……あン?」
如何に自分に降って湧いた災難とは言え、ナンパ男に舐めた口を叩かれる筋合いはない。
凄味を利かせた両兵に相手集団はうろたえる。
「……べ、別にあんたの彼女じゃないだろ! どう見ても修学旅行生だぜ?」
「……確かに助ける義理はねぇかもしれんが、オレ相手にそういう口叩くヤツぁ、一番ムカつくんだよ。群れてじゃねぇと女も口説けねぇのか」
相手方が攻勢に入る前に、両兵は拳を見舞っていた。
その一撃の重さで一人が昏倒したのを嚆矢として、全員が逃げ腰になる。
「……そいつ引っ釣れて出直せ、マヌケ。オレはこれでも気は長ぇほうがじゃねぇんだよ。全員、救急車行きがご希望なら沿うてやるがな」
一睨みでナンパ男集団は三々五々に逃げ帰っていく。嘆息をついて身を翻そうとしたところで、ぎゅっと袖口を引っ張られた。
「……あの」
「ナンパかかりたくなきゃ、もうちょっとマシな格好しろ、お上り中学生。大体、何でここいらまで来たんだよ。中学生の行くとこなんざ、東京タワーか新宿だろ? 都心から離れるんじゃねぇっての。さぁ、さっさと行った行った。オレはこれでも、忙しい――」
歩み出そうとしたのを、少女は引き留める。
「ま、待ってください! ……金枝はその……お礼がしたいんです」
「お礼ィ? ンだよ、飯でも奢ってくれんのか?」
「ご、ご飯代くらい、ドーンと来いですよ! ……一応、お爺様たちから、その……結構もらって来たので」
薄い胸元を叩いた中学生の少女に両兵は呆れ返る。
「あのな……いくら落ちぶれたように見えたからって、中学生にたかるほどのクズじゃねぇんだよ。そういう態度してっと、また絡まれんぞ? 気ぃつけて里に帰れ、クソガキ」
「く……クソガキとは何ですか! 金枝は立派なレディですよ? 口の利き方には気を付けてください!」
「ほーぅ、どこをどう見てもオレにぁクソガキにしか見えんがな。ガキはガキで集まって動いてりゃいいんだ。ぽつんとこんなとこに来るからナンパなんぞされるんだってのが分からんのか? いいから回れ右をして、とっとと帰れっての」
しっしっ、と追い返す真似をするが、その段になって少女は拳をぎゅっと握り締め、面を伏せた。
まずい、泣かせたか、と思った直後には、虫の息のような声が返ってくる。
「……帰り道、分かんなくなったんですよ。それくらい察してください」
改めて拍子抜けして両兵は言いやる。
「えーっと……そこんとこ曲がって、んで、ズドーンと行ったところを左? いや、右だったか? 曲がればもう駅だ。で……緑色の電車に乗りゃ、すぐに東京駅につく。そうすりゃ他のガキとも合流できんだろ?」
「そんな適当な道案内で辿りつけるわけないじゃないですか。まったく、常識を疑いますね」
やれやれ、と肩を竦める少女に両兵は反論しかけて、腹の虫がきゅう、と音を上げた。
それを見越して少女は薄ら笑いを浮かべる。
「お腹、空いてるんですか」
「……空いてねぇ」
「嘘はよくないですよ。大変遺憾ながら、金枝には奉仕の精神があります。つまり、困っている人は見過ごせない、というわけです」
「誰もてめぇなんぞに頼る気はねぇっての。放っておけ」
さっと少女がポシェットから取り出したのは、どう見ても高値の付く財布であった。うっ、と両兵の自制心が緩みかける。
そこから万札が何枚か引き出され、さらに腹の虫が弱々しく鳴いた。
「何でも奢れますよ!」
「……て、てめぇ。汚い真似を……」
「汚い? ええ、そうですか。金枝は暴漢より助けてくれた小汚い男の人に、ナンセンスにも施そうと言うのにそれを汚いと言いますか。では、ご飯のチャンスは没収ですね」
踵を返そうとした少女に、両兵は呼び止める。
「……おい、何てめぇ優位みたいな話に持ち込もうとしてんだ。大体、そっちは駅じゃねぇぞ」
「知ってますよ。試したんです」
不敵に笑う少女に振り回されっ放しながら、両兵は順当な落としどころを見つけ出そうとしていた。
「……ちょっと行ったところに、お好み焼き屋がある。そこまで出りゃ、いくら方向音痴でも都合がつく」
「ほう。なるほど。ご飯を奢られるのはプライドが邪魔するけれど、人助けの途中なら許される、と言う方便ですか。なかなかに冴えているじゃないですか」
「……何とでも言え。そっからなら馬鹿でも道は分かるし、オレでも道案内はできる。とっとと来い、中学生」
「……レディを名で呼ばないと、罰が当たりますよ」
不服そうにむくれる少女に両兵は手を払っていた。
「だってならもうちょいレディになってから出直しな。来ねぇと本当に置いてくぞ、中学生」
「……だから名前を呼べと……。まぁいいです。女の子の名前一つ呼べない、可哀想な方なんだと推測しますよ」
そう言いつつ、少女は自分の背中に追従する。
やれやれ、また面倒を抱えたか、と両兵はため息を漏らしていた。
「――んで、てめぇは何であんなところまで? フツー修学旅行って言ったら、もうちょい街の中心部の観光とかだろ。街外れに行くヤツがいるかよ」
お好み焼き屋に着くなり、少女は早速、豚玉を頼んでいた。しかも大盛りサイズだ。自分の財布には小銭しか入っていないと言うのに、太い奴だと感心する。
「知らないんですね。フィールドワークですよ、フィールドワーク。あ、可哀想な脳みその方には横文字は難しかったですか」
ふふん、と鼻を鳴らす少女に両兵はどんと机を叩く。
「濁してんじゃねぇっての。……要は道に迷ったんだろ?」
「いいえ、断じて違います。金枝は飛び抜けて優秀な生徒なので、凡庸な観光なんてものには縁がないのです。誰ですか、東京タワーだとか、テーマパークだとか……。そんな子供じみたところ、興味はありませんよ」
「……子供だろうが。ったく、お好み焼き食ったら道沿いにきっちり帰れよ。そんなに難しい地理じゃねぇはずだからな」
「おや、それはおかしいですね。難しい地理じゃないと言うのならばもっと適切な道案内ができたのでは?」
「……ケンカ売ってんのか、てめぇ……。まぁ、いい。オレも暇じゃねぇんでな。ガキの子守りに時間かけられねぇんだよ。飯食ったらとっとと出てけよ」
「それはご飯が来てから言ってくださいよ」
どんぶりいっぱいの豚玉が運び込まれると、少女はじぃっとどんぶりを凝視した。
「……どうした? 何か変なもんでも入ってたか?」
「いえ、その。何で平べったいお好み焼きがそのまま出てこないんですか? おかしいでしょう。……ははーん。さてはあなたは、この金枝が魅力的過ぎるから、何か適当な都合を付けてご飯に誘おうとしていたわけですね。なるほど、さっきのナンパ男たちと同じじゃないですか」
呆れ返った様子の少女に両兵はどんぶりをばっと手にしてかき混ぜる。
「……素直にお好み焼きの作り方知らねぇって言えよ、てめぇも。いいか? こうやってかき混ぜて、んで円形に成形して、鉄板の上で焼くんだよ。ンなことも知らねぇのか」
「知ってますよ。試しただけです」
つんと澄ました様子の少女にはとことん反省の二文字はないらしい。両兵は軽く二人前以上はある豚玉をひっくり返そうとして、少女がうずうずしているのを発見していた。
「……ひっくり返したいのか?」
「何を言いますか。この金枝がまさか、お好み焼きをひっくり返したことがないとでも?」
「いや、すげぇ見てっから……」
「きっちりひっくり返せるか観察してあげてるんですよ。感謝して欲しいほどです」
「……てめぇ。じゃあひっくり返してみろ。ほら、これも社会勉強だろ?」
「むっ……では……」
少女は危うい手つきでへらを手にし、そのままおっかなびっくりとひっくり返そうとする。どう見ても、その細腕では大盛りをひっくり返せるとは思えない。
両兵は業を煮やしてその手を取っていた。
「ああ、もうっ! こうやってひっくり返すんだ! 分かったか、クソガキ!」
レクチャーしたその時、少女の頬が真っ赤に染まる。何だ、と思ったその時にはばっと手を離されていた。
「けっ……けだものですね! 女の子の手を断りなく触るなんて、ヘンタイそのものです!」
「いや、ヘンタイって……。あのままじゃ永久に飯が食えんだろ……」
「知りません! 金枝はそんなけだものから料理なんていただきたくありませんから!」
「……そうかよ。じゃあオレが独占するぜ」
切り分け、自分のほうに寄せようとすると、少女が目に見えて残念そうに目を潤ませる。
引っ張ったり、遠ざけたりするたびに、その感情の振れ幅が大きかった。
「ああっ、チクショウ! 食いたいんだろ! さっさと食えっての!」
皿に盛りつけてやると、少女は憮然と声にする。
「勘違いをしないでくださいよ。金枝がお好み焼きごときで……懐柔されるとでもお思いですか」
「いいから食えッ! メンドーなヤツだな、てめぇも」
ため息をつくこちらを他所に少女はお好み焼きを頬張る。その瞬間、得も言われぬ達成感を浮かべてニマニマするのを両兵はぼそりと口にしていた。
「……馬鹿面……」
ハッと少女が我に返り、口元を拭ってわざとらしく咳払いする。
「コホン……。まぁ、悪くはないですね。東京の味とやらもそれなりのようです。……お好み焼きの味では、しかし関西が上ですよ」
「誰に対しての牽制だ、そりゃ。って言うかナンパ集団が言っていたように関西人なのか、てめぇ」
「ええ。生まれも育ちも生粋の京都人です」
えへん、と何故か誇らしげに言い放つ少女に両兵は、ふぅんと言いやる。
「関西人ってもっと口調がなまってるもんだと思ってたぜ。案外フツーなんだな」
「金枝はそこいらの関西人とは教育の質が違いますからね。京言葉で話すのですよ」
そう言っている間にも、少女は箸を止めない。すぐさまお好み焼き大盛りを平らげ、どこか雅な仕草で口元を拭う。
「……馬鹿面で方向音痴な上に大食いかよ。……ロクなもんじゃねぇな」
「聞こえてますよ。金枝は方向音痴ではありません。フィールドワークを嗜んでいたんです。まぁ、そんじゃそこいらの方々には理解しがたいかもしれませんが」
「そうかよ。オヤジー、勘定」
店主を呼び出すと少女がさっと財布を取り出そうとして、両兵はそれを制していた。
「やめろ、やめろ。……ったく、ガキが大金振り回すな。そのうち大人になってから損すんぞ、そのクセ」
両兵は心許ない財布から金を搾り出し、お好み焼き屋を後にする。
ちょうど表通りに面しており、ここからならばどれほどの方向音痴でも駅は目指せるはずだ。
「よぉーし、食ったしじゃあとっととガキは帰って……」
「……おかしい」
ぼそりと呟かれた声に両兵は耳を貸す。
直後、少女は捲し立てていた。
「おかしいじゃないですか! 何で金枝が奢られてるんですか? この流れなら普通、金枝が、ふっ……仕方ないですねぇ、奢って差し上げますよ。これも暴漢から庇ってくださった代金だと思えば……って言って! そうやって颯爽と奢るのが筋じゃないですか! 何でこんな感じになっちゃってるんです!」
「……うっせ……知らねぇよ、てめぇのシナリオなんざ。男が女にそうそう金を出させるもんでもねぇだろ。そこんところがガキなんだよ」
「子供じゃありません! ……罰として、金枝が無事に帰れるまで、同行してもらいますからね」
「はぁ? よく分からん理論を振り翳すんじゃねぇっての。大体、こっからなら馬鹿でも道は分かるって言うのに……」
「こういうところで職務放棄ですか。道に迷った憐れな少女に施しだけしておいて、やれ自己満足でそこまでとは。やれやれ、底が知れるというものです」
「お前……っ……! わぁったよ! 最後まで面倒看てやらぁ! ……ただし、オレの時間を使うんだ。理由くらいは話してもらうぜ」
「……だから、フィールドワークだと……」
「その嘘くせぇ言い分じゃ、どうせはぐれたんだろ。せっかくだ。こっからなら行けるところにでも行っとくか」
「行けるところ……? どこにです?」
「いいからついて来い。馬鹿でも分かる、シンプルな場所だ」
「うわぁっ……! すごい! 高いですね! 京都タワーとは全然違うんだ……」
感嘆の声を上げる少女に両兵は半ば気圧されていた。
「そこまでか……? まぁ、お上りさんらしいと言えばらしいが……」
「これを上るんですか? ……東京とは恐ろしいですね。こんな建造物があるとは……」
「常識外れもいいとこ過ぎんだろ……。いいからさっさとチケット取って昇るぞ」
チケットを二枚分買い、両兵はエレベーターに乗ったところで、そういえばと思い返す。
「オレもまともに来るのは初めてだな」
「えっ? あれだけ自信満々に言っておいて初めてなんですか? ……やはり馬鹿なのでは……」
「聞こえてっぞ。……ま、普段は守っている側だし、どうでもいいっちゃいいんだが」
「守っている……? あ、ははーん、そういうあれですか」
「そういうあれって何だよ」
「よくある話です。路頭に迷っておいて、それで自分は東京を守っているとか言う、誇大妄想に取り憑かれているんですね。現代病の一つです。やれやれ、先ほどにも増して憐憫の情が湧きました。ここまで可哀想な人とは会ったことがありませんよ」
「……うっせぇぞ、クソガキ。ほれ、着いたぞ」
口さがない少女であったが、都心を見渡せる東京タワーからの絶景にはさすがに声を出して感心していた。
「すごい! あれが富士山……。こんな絶景、見たことがありませんよ!」
「はしゃぐな、馬鹿。……にしても、案外遠くまで見えるもんだな。東京タワーってもっと地味なもんかと思ってたぜ」
都心の観光名所は伊達ではないか。手でひさしを作って眺めていると、不意に少女が含み笑いを漏らす。
「胸を張ってください。あなたは残念な身分にもかかわらず、こんなパーフェクト美少女である金枝と一緒に東京タワーに上ったんですよ。今日一日分くらいは、馬鹿にされないでしょう」
「……ったく、てめぇは。もうちょい背丈が高けりゃ、鉄拳制裁だぞ……」
「それは幸運ですね。男の身で女に手を上げずに済んでいるんですから。……あっ、これは、まさか……!」
少女が目に留めたのはガラス張りの床である。その上に佇み、おおーっ、と感激する。
「こんな高さ……お目にかかれませんよ!」
「あー、そうだな。こんな気の利いたもんがあるのか。へぇー」
見やっていると、ハッと少女は突然スカートを押さえた。
「……あなた、今、金枝のパンツを覗きましたね?」
「はぁ? 覗くか、アホ」
「嘘はいけませんよ! 正直に言えばまだ許してあげましょう。魔が差して金枝の縞パンを覗いたのだと。そう言えば、今ならばまだ温情があります」
「お前……自分で言っていて馬鹿だとは思わんのか……」
呆れ返りつつ踵を返した両兵へと、少女は飛びつく。
「あっ! 待ってください! こんな高さの場所に置いて行くつもりですか! 人でなしですね!」
「不条理過ぎんだろ、その理屈。アホらしいからもう降りるっての。……ま、ガキにはお似合いの場所だったな」
「ま、待ってください! せめて、写真の一枚くらいは……」
両兵はため息混じりに身を翻し、少女のカメラを引っ手繰る。
「んじゃ、撮ってやる」
「いえ、その……。一緒でも、構いませんよ。お礼と言う奴です」
「お礼って……。ガキと一緒に写真撮ったって嬉しくも何ともねぇよ」
「いいですから! 写真、お願いします!」
観光客を呼び止め、少女は無理やり写真を撮らせる。
両兵は引きつった笑みのまま、少女と共に写真に収められていた。
「……こっから先行くと、東京駅に嫌でも着く。そうすりゃ、馬鹿でも帰れるからよ」
さすがに駅前まで送っておいて人でなし扱いはないはずだ。そう考えて駅まで送ったところで、少女は面を伏せて不服そうにしていた。
「……あの、その……」
「何だ? まだ文句でも言い足りねぇのか?」
「いえ、そういうわけじゃ……。ありがとうございます。あなたが居なければ、今頃金枝は大変不幸な目に遭っていたでしょう。一応は命の恩人です」
ぺこり、と頭を下げた少女に今度は両兵が毒気を抜かれる番であった。
「お、おお……。ンだよ、ちゃんと礼くらいは言えんのかよ……」
「ですが、金枝が居なければ、あなたもまた、不幸であったでしょうね。今日一日、無駄に過ごさずに済んだこと、感謝してもいいんですよ」
「……やっぱ馬鹿だな、てめぇ……」
これ以上相手をしても仕方あるまいと歩み出しかけて、駅前を大声が貫く。
「あのーっ! そういえば名前を聞いていませんでしたー! 名前を教えてくださいーっ!」
「あーっ、うっせぇ! ……小河原両兵だ」
片手を上げて名乗ると、少女は返答していた。
「小河原両兵……。あのーっ! 言っておきますがーっ! 金枝はあなたのことが嫌いですからーっ!」
その返事にはさすがに面食らって振り返る。
「はぁ? こんだけやってやったのに、嫌いとか往来で……!」
しかし、振り返ってみて気づいた。
少女はこれ以上のない、充足した笑みを浮かべていることに。
好き嫌いは、振り向かせるための方便か。
まったく、自分もツイてない。肩を落としつつ、両兵は少女と向き直って手を振っていた。
「……気ぃつけて帰れよ、中学生」
「……失敬な。金枝には金枝と言う立派な名前があるのですよ」
「じゃあ、カナエ。もうちょい大人になったら、もう一回だけ東京を案内してやるよ」
「分かりました。その時には小河原両兵にも、京都を案内してあげましょう」
「……呼び捨てかよ」
「いいじゃないですか。では、金枝はここまでで失礼します。また会えると……いいですね」
最後の最後には素直になるか。両兵はおう、と頷く。
「お互い、健康ならな」
「金枝は立派なレディになっているので。その時になったら小河原両兵はきっと、びっくりして求婚してきますよ。まぁ、金枝は心優しいので何名かの婚約者の一人として迎え入れはしましょう」
「……最後まで上から目線だな。どういう根拠があるんだ、それ」
きびっと敬礼し、舌を出したカナエという少女に、両兵は、ああ、と応じていた。
「そうだな。……何もかも忘れちまっていたら、そん時はよろしく頼むわ」
所詮は、一時ばかりの約束に過ぎないが、夕映えの山手線に乗り込んだカナエと言う少女のことを、少しは覚えておこう。
歩み出した両兵は、ふと腹の虫が鳴かないのに気づいていた。
「……あいつに付き合ってお好み焼きやら、ソフトクリームやら食ったせいか。ガキに付き合うとロクなことねぇな」
それでも、願っておこうか。
あの孤独な少女がいつの日にか、誰か頼れる背中を見つけられるようになることくらいは。
差し込み始める、この金色の黄昏へと――。