「あっ、さつきちゃん? いやねー、この子ってば、本当に言うことを聞かないのよー」
「南に言われる筋合いはない」
むすっとしたルイにまさか喧嘩か、とさつきはこわごわと尋ねる。
「……あの、喧嘩は駄目ですよ……」
「いや、違うのよ、さつきちゃん。この子ってばねー、ちゃんとした学校に通うって言い出したもんだから、じゃあ勉強を追いつかなくっちゃね、って教科書を持ち出したら、逃げ出しちゃって……」
南の手にあったのは小学生向けの算数の教科書である。ルイはぷいっとそっぽを向いていた。
「……そもそも、南だって学がないじゃない。教えられる身にもなって欲しい」
「なっ――! さすがにあんたよかあるわよ、こらぁ!」
「どうだか。ね、さつき。南に学なんてあると思う?」
「あるわよね? 親としての威厳もたっぷりと!」
二人に問い詰められ、さつきは当惑する。どう答えればいいのだろうと迷っていると、ルイがほら、と言葉にしていた。
「やっぱり。南に教師なんて務まらないのよ」
「何ですってぇー! じゃあ答えてみなさいよ!」
「嫌よ。算数なんて絶対に見ないんだから」
「あの……私だったら少しはお教えできるかも……しれませんけれど……」
頬を掻きながら困惑して口にすると南がばっとこちらの手を握ってきた。
「本当に? いやー、助かるわ。さつきちゃんの言うことなら聞けるわよね? ルイ」
「……さつきが? 他人に教えられるくらいに頭がいいの?」
それは、と返事に窮してしまうが、南はこちらに教科書を差し出し、肩をぐっと掴む。
「じゃ、お願いね。私は政府の連中と話をつけないといけないし」
「あっ、南さん……」
遠ざかっていく背中にとんでもないことを背負い込んでしまった、と思いつつ、こちらをじっと凝視するルイへと振り向く。
「……算数なんて教えられるの? さつきに」
「い、一応、中学生なので……その程度には」
「ふぅん。じゃあ、この難題を解けるのかしら?」
ルイは教科書の一部を指差す。彼女が難題と指定したのは――三角形の面積の問題であった。
「えっと……これはここに書いてある通りに解けば、解けますよ。これなら、18平方メートルですね」
すぐに答えたものだからルイは瞠目し、次々と問題を吹っかけてくる。
「じゃあこれ。分数の掛け算と割り算。これは解けないでしょ?」
「えっと、分数の掛け算は、このまま掛けて……割り算はここをひっくり返せばすぐに解けますよ。……あれ、ルイさん?」
あまりにも手早く解いたためか、ルイは教科書を引っ手繰って屈み込み、呻っている。
「……あり得ない。さつきにできて私にできないなんて……」
「あのー……小学生レベルの算数で、もしかして躓いて?」
こちらの言葉にルイがばっと振り返り、肩へと手を置いて威圧の眼差しを送ってくる。
「……さつきのクセに、生意気よ……」
「わ、分かりましたからっ! ……でもそのー、習って来なかったんですか? 南米とかで……」
「教えられたのは操主としての勉強だけだもの。……でも青葉は、先生に習っていたわね。普段の勉学を疎かにしないように、とか言って……」
何度か伝え聞いたことはある、青葉と言う名前に、さつきは記憶を手繰る。
「……確か、お兄ちゃ……小河原さんと一緒に、モリビトに乗っていた方ですよね? 一緒に操主の勉強をしていたんですか?」
「そうよ。ただ……青葉は何でも一生懸命だったから。もしかしたら、分数の割り算とかも、簡単にできていたのかもしれない」
「あの……もしよかったら、勉強しませんか? 私に教えられることなら、教えますし……」
だがこれも、生意気だと言われてしまえばそこまでであったが、ルイはどことなく当惑した様子で頷いていた。
「……南に、分数の掛け算と三角形の面積が求められない間は、お菓子抜きって言われた……」
その言葉振りには肩透かしを食らった気分だ。
あれだけ追いかけっこに躍起になっていた二人がまさかただ単にお菓子云々を賭けていたとは。だが、これはある意味では好機かもしれないとさつきは考えていた。
《ナナツーマイルド》と《ナナツーライト》は二機で一人前の機体。完璧な連携をマスターするのには、こうやってルイと普段から触れ合っておいたほうがいい。
「じゃあ……その、お勉強しましょうか、ルイさん」
「……さつきはどこまで分かっているの? 三角形の面積が何回やってもまるで分からない……」
「それは公式があるんですよ。もしかして……ルイさん、公式を分かってませんか?」
「馬鹿にしないで。公式くらいは分かってる。……ただ、何でこの公式を使うのかが、まるで分からない……」
確かに、深く考えたことはなかったが、何故公式を使用するのか。どうやら問題点は根深いらしい。さつきはどう説明すべきか、と悩んでいると、エルニィが鼻歌混じりにこちらを発見する。
「あっ、さつきじゃん! 今日の晩御飯は何ー?」
「立花さん。えっと、今日は生姜焼きで……じゃなくって……そうだ! ルイさん。ここに説明できる方がいらっしゃるじゃないですか!」
「えっ、何? さつき、急に……」
うろたえたエルニィに教科書を見せる。そうだ、エルニィはIQ300の天才。きっと納得できる理由を教えてくれるはずだ。
教科書を睨むなり、エルニィは胡乱そうな顔をする。
「こんなの簡単じゃん」
「ですよね……理由を教えていただければ」
「えーっ。こんなの、ドバーって公式を当てはめて、そんでグヘーってな具合で答えは18平方メートルでしょ? 何でもないじゃない」
思わぬ回答にさつきは面食らってしまう。ルイはどこか諦観を浮かべていた。
「……どうせ自称天才でしょ」
「むっ……! 何だよ、ルイ。やけにケンカ売るじゃんか」
「あの……っ! 喧嘩はやめてくださいよ……。でも、立花さん、公式が何でこうなっているのかを、その……教えていただきたかったんですけれど」
「公式なんて使わない使わないって! そんな誰かの手垢のついたものなんて美しくないよ。こんなの見たら分かるし」
はぁ、と生返事が漏れてしまう。なるほど、天才ならではの視点と言うわけだ。
「じゃあその……立花さんもルイさんには教えられないってことですよね……」
「えっ、ルイ、こんなの分かんないの? バッカだなー。見りゃ分かるじゃん」
明らかに下に見た発言に、ルイがカチンと来たのが伝わってくる。双方を宥めようとしてさつきは割って入っていた。
「ひ、人によっては様々ですから! ……じゃあその……私が教えます。ルイさんに責任を持って、小学校の算数を教え込みます!」
「威張って言うことじゃないなぁ」
エルニィはケラケラと笑うが、事は意外に深刻なのだ。
このままでは、ルイは学校に来ないかもしれない。せっかくの学習意欲の湧いた人間をわざわざ勉強から遠ざけるのは、真面目な自分の性格からしてみても考えられなかった。
「ルイさん! 今日の夕方までには絶対、解けるようになりましょうね!」
「……別にさつきの手助けなんて要らないけれど。猫の手のほうがマシ」
「言えてるー! さつきってば、ルイに教え込めるの? 結構深刻だよ?」
二人分の疑念を受け、若干涙目になりつつもさつきは声を張る。
「がっ、頑張りますから! じゃあ、まずは環境から行きましょう!」
居間へとルイを導き、そのまま机につかせる。ルイは鉛筆をくるくると回しながら欠伸を噛み殺していた。
「……で、まずはどこから?」
「えっと、どこから分かりませんか? 分からないところを重点的にやりましょう!」
「……そんなこと言っても、分かんないと言えば、ここから」
教科書のページの最初のほうまで遡り、ルイが指差したのは何と九九であった。まさか、そこまでとは思っていないさつきは頭を抱える。
「えっと……九九ですか?」
「……何で日本人ってみんな、よく分かんない覚え方するの? これ、一番意味不明。そもそも、9×1は“きゅうかけるいち”であって“くいち”ではないでしょう? 誰に聞いてもこう言うんだもの」
ナンセンスだとでも言うように肩を竦めるルイに、さつきは首をひねっていた。
ある意味では言いがかりに等しいが、確かに言われてみれば疑問に思わなかったことばかり。三角形の面積の求め方も、分数の割り算も、九九も、日本人なら「こうあるべき」と規定された教え方しかできない。
しかし、ルイには日本の常識は通用しないのだ。
だがさつきには数学に長けたような頭脳もない。所詮は中学生レベルの授業しか教えて来られなかった自分には、「こうあるべき」以外の教え方はできない。
「えっと、その……」
「何だ、さつきじゃ話にならないじゃない。……これはもう一回、南と交渉をやり直すべきね。お菓子タイムを奪われるのは癪だもの」
「ま、待ってください! ……私が教えられるのはほんの一握りかもしれませんけれどでも……ルイさんと私は、二人で一人みたいなものですから! だから絶対に、教えてみせます!」
ここでルイに失望されるのは避けたかった。何よりも自分の力不足で、ルイに不都合をかけたくはない。
こちらの訴えかけに、ルイは致し方なしとでも言うように腰を下ろしていた。
「じゃあ、納得いくまで教えて。そうじゃないと頭に入らない」
ルイの眼差しにさつきは真正面から応じる。
「は、はい! 絶対にルイさんにはその……小学校の算数をクリアさせてみせますから!」
決心したさつきへとルイはふんと鼻を鳴らす。
「さつきに教えられるの? じゃあ、まず九九から。でもまぁ、日本人だものね。理由までは教えられないでしょ」
つんと澄ましたルイに反論できない。さつきも普通の学校教育しか受けていない以上、それ以上の数学的な領域には踏み込めないのだ。
「……せめて、立花さんがもうちょっと教えるのが上手ければ……」
「えっ、何? ボクのせい? やだなー、さつき。そもそもこのレベルなんて教えるってこと自体がナンセンスでしょ。ルイに算数を教えるの、頑張ってよね。ボクはこれを組むのに忙しい……」
エルニィは半田ごてを用いて巨大な筐体を組み上げていく。その背中にはさすがに小学生レベルの算数を教えてくれとは言えない。
どうするべきか、と思案していると、不意に銃声が劈いた。
ばっと軒先へと赴くと、標的を狙い澄ましたメルJが拳銃のメンテナンスをしている。
「ヴァネットさん……。境内で実弾は撃たないでくださいって、五郎さん言ってましたよ……」
「仕方ないだろう。たまには本物を撃ってやらなければ鈍る。拳銃とはそういうものだ」
ハッと、さつきはメルJへと教科書を携え尋ねていた。
「あの……ヴァネットさんはその……算数は得意ですか?」
「算数? そんなもの、問われるまでもないな」
そうだ、メルJはこの中でも大人、ならばきっと算数くらいはクリアしてくれているはず。
「じゃあヴァネットさん、三角形の面積は答えられますよね? ルイさんが理由を知りたがっていて……」
こちらの求めにメルJは硬直する。
「……ちょっと待て。三角形の面積? そんなもの、私は知らないぞ」
「えっ、でも教わってないんですか? 底辺×高さ÷2……」
「何だそれは。そもそもそんな単純な公式で三角形の形状が求められるものか」
思わぬ返答に面食らっているとエルニィがやれやれと声にする。
「メルJは直感タイプだから、変に理屈っぽい話は無理だよ、さつき。ある意味じゃボクと同じ、見りゃ分かるタイプでしょ?」
「えっ、でも……そうなんですか?」
こちらの問いかけにメルJは呻る。
「……日本式の算数はまるで分からん。そもそも何だ、九九とやらは。あれではわらべ歌ではないか」
まさか、九九からの人間が二人もいるとは想定できず、さつきは頭を抱える。その様子を憮然としてメルJは言葉を発していた。
「……何だ、さつき。その絶望的な表情は」
「ホントよ、さつきってば失礼なのね」
「……誰のせいで……。いえ、この際誰かのせいにするのはやめましょう……。ルイさん! ヴァネットさん!」
唐突に声を張ったせいだろう。二人してかしこまる。
「な、何だ?」
「……何」
「……まずは九九から。じゃないと晩御飯は抜きです」
こちらの要求に二人して抗議の声が上がる。
「なっ――! 横暴だぞ、さつき!」
「職権乱用よ、それ」
「それでもです! お二人とも、生きていく上で九九が要らないと思ってますね?」
「……それは、その通りだが……」
「何で日本人って歌いながら算数を覚えるの? 不自然」
生徒が二人に増えるとは思いも寄らない。だが、徹底的に教えなければこの先、二人ともやっていけなさそうであった。
「じゃあヴァネットさんもこっちに来て……二人ともせめて九九はマスターしましょう」
「……何で私が。九九なんて、日本人の風習だろう。……理解できん」
「郷に入らば郷に従えですよ。……トーキョーアンヘルは日本でやっていくんですから、お互いに頑張りましょう」
「……その理屈も、日本人の屁理屈だな」
「九九なんて、覚えたって何の意味が……」
さつきはやわな考え方では駄目だ、と鉢巻きを巻いて教鞭を振るう。
「いいですか! 今回ばっかりは私の言う通りにしてもらいます! 九九を覚えないと、本当にご飯はなしですよ!」
「……むぅ、何なんだ、こんなもの。覚えなくっても……」
「さつき、鬼教官……」
今回ばかりは鬼にもなろう。さつきは二人の生徒に向けて、小学生レベルの授業を開始していた。
「お茶が入りましたよー……ってあれ? 三人ともどうしたんですか? ぐったりして……」
赤緒は居間に入るなり机に突っ伏しているルイとメルJに、どこか疲れ切ってぜいぜいと息を切らしているさつきを発見していた。
それぞれにまるで激戦でも演じたかのような呼吸である。
「……一体何が……」
「……あ、赤緒……さつきは……案外鬼だな……」
「……もう無理……頭の中、数字だらけ……」
憔悴し切ったルイとメルJに対し、立ち上がったさつきが「鬼」の文字が書かれた鉢巻きを巻いてルイを教鞭で指す。
「九九は?」
「81!」
びくっと硬直したルイがまるで反射的な応答のように口にする。
次いでさつきはメルJを指していた。
「七八!」
「56!」
どうしてなのだか分からないが、背筋をぴんと伸ばしてさつきの声に応じる二人は、普段は見られない光景のようであった。
軒先でエルニィは笑いを堪えている。そっと歩み寄り、事の経緯を赤緒は尋ねていた。
「あのぉ……何があって?」
「いや、さつきは思ったよりも誰かに物を教える才能があるよ。あー、面白かった」
どこか満足した面持ちのエルニィに赤緒は首を傾げつつ、二人分の返答に笑顔になったさつきを目にしていた。
「……ではこれで……九九は完璧ですね!」
「……さ、さつき。これで夕飯は……」
「はい! きっちり美味しい生姜焼きを用意しますので! ……あ、でも忘れないように。明日は三角形の面積ですよ!」
びしっと言いやったさつきが台所に引き返していく。
その背中にメルJとルイは揃って項垂れていた。
「……あそこまで厳しいとはな。想定外だ……」
「……もう、数字いや……」
「……よく分からないですけれど……お二人にとっていいことなら……いいのかな……」
洗濯物を畳んでいると、境内で声が弾けていた。
「こらぁ! ルイ! あんた、またサボって!」
逃げ回るルイにさつきはどうしたのか、と慌てる。
「何があったんですか?」
「あ、さつきちゃん? ルイってば、日本の地図が覚えられないって言い出してさー」
「……日本人の気が知れないわ。四十七個も都道府県があって、その中によく分かんない都市があるなんて」
まさか、社会科まで絶望的だとは思っても見ない。
さつきはため息をついて、では、と教科書を受け取る。
「私が責任を持って……ルイさんに教えますから」
その挙動にルイはうっとうろたえる。
「……さつきの勉強……怖いからやだ……」
「ルイさん?」
微笑んださつきにルイはびくつく。
「……頑張ります」
「あら? やけに素直じゃない。これなら、勉強はさつきちゃんに任せようかしらね」
「はい! ルイさんの勉強は私がきっちり面倒を看ますので。……ね? ルイさん?」
逃げようとしている肩をむんずと引っ掴んだこちらに、ルイはかくりと項垂れていた。