JINKI 101 笑顔の食卓を

「日本人って不自然。朝食の席に牛乳が絶対に出てくる」

 きっと南米のアンヘルではそのような慣習もなかったのだろう。赤緒は少しだけ困惑しつつ、牛乳の栄養に関して説いていた。

「牛乳は栄養の宝庫なんですよ? 朝に飲むと、身体の調子も整いますし、何よりも美味しいじゃないですか」

「……栄養の宝庫……」

 じーっとルイの視線が一点に注がれる。赤緒はその眼差しの赴く先が胸元に注目されているのを感じ取って、咄嗟に身を引いていた。

「……分かった。赤緒みたいにはならないかもしれないけれど、牛乳、飲んでみる」

「ルイさん……。分かってくださいましたか?」

「……ま、一部分だけ育っても別に嬉しくも何ともないけれど。飲まないよりかはいいと思うし」

 そう言ってコップに手を伸ばしかけたところで、さつきがこちらに気づいて声を投げる。

「あっ、ルイさんに赤緒さん。どうなさいました? ……牛乳、ですか? 私も朝は欠かさず飲んでいますよ」

 ぴく、っとルイの手が止まる。その瞳がさつきへと問い返していた。

「……さつきも飲んでいるの?」

「えっと……はい、まぁ。だって栄養の宝庫じゃないですか」

 同じことを言ったものだからルイの視線はすかさずさつきの胸元に飛び、やがて嘆息混じりの声が発せられる。

「……何だ、偶然じゃない」

 せっかくの興味が水の泡である。さつきは当惑の視線を投げていた。

「えっと……私、何かまずいことしちゃいましたか?」

「……いや、さつきちゃんは何も……。でもルイさん。好き嫌いはいけませんよ」

 フォローに回った赤緒にルイはふんと鼻を鳴らす。

「……説得力不足。赤緒とさつきじゃ相手にならないわ。これじゃ牛乳を飲む理由には足りないわね」

 赤緒は困惑して頬を掻く。アンヘルの食糧事情はほとんど自分と五郎とさつきで持っているようなものだが、好き嫌いはもしもの時に大敵である。

 ここは徹底的に矯正せねばならないだろう。

「じゃああの……みんなで好き嫌いをなくしましょうよ。それなら文句はないんじゃ……?」

 さつきの提案にルイはそっぽを向く。

「や、よ。何で私が。さつきだって嫌いなものくらいはあるでしょ?」

「私ですか……? いえ、旅館では好き嫌いは駄目だってハッキリ教えられてきたので……」

「模範的な答えね。つまんないの」

 どうやらルイに牛乳を飲ませるだけでも悪戦苦闘しそうだ。それなのにアンヘル全員の好き嫌いをなくすことなどできるのだろうか。

 前途多難な予感に赤緒はため息をついていた。

「あれ? ボク、これは食べないって言ったよね? おから……」

 食卓に一食品ずつ、それぞれの苦手な食べ物を置いたものだから、夕食の席はすぐさまブーイングに包まれていた。

「……私もこれは食わん。納豆など腐っているではないか」

「腐ってませんよ! しっかり栄養があるんですっ! ……皆さん、今日の夕飯は苦手と仰るものを用意しました。これを機に、苦手な食べ物はなくすべきですっ!」

 赤緒がきっぱりと言いやると、エルニィはおからを遠ざける。

「うへぇ……これ食べないって言ったじゃん。よく分かんないんだよね、これ。日本人はこんな正体不明なの何で好きなのかなぁ……」

 明らかに嫌悪感を浮かべるエルニィはまだ可愛いほうで、メルJは納豆などないものとして扱い、味噌汁を啜っている。

「もうっ! 皆さん、好き嫌いしていたらいざと言う時に大変ですよ! ここは皆さんの嫌いなものをなくさないと!」

「……そう言いつつ、赤緒だって見ないの置いてあるじゃん。何それ」

「……皆さんにだけ好き嫌いをなくせと押し付けるのは違うかなと思いまして。……その、特別に用意していただきました。ブルーチーズ、と言うらしいです」

「すっごい臭いだなぁ、それ。それこそ腐ってるんじゃないの?」

 エルニィの問いかけも仕方ない。自分もチーズは普段あまり口にしない上に、ブルーチーズの放つ臭気に箸も止まっていた。

「く、腐ってませんよ! こういうのも料理らしいです。……これは発酵食品と言って、食べ物を特別な状況下に置くことによって得られる栄養食で、一定の環境じゃないと食べられない希少なものなんですから!」

「言う割には、全然箸が伸びていないけれど?」

 うっ、と赤緒は食卓で異様な臭いを放つブルーチーズを前に気圧されていた。こんなことを言うと罰が当たるかもしれないが、まるで人が食べるものだとは思えない。

「……これは外国では普通……なんですよね?」

「チーズの製造国ではなかったが、ブルーチーズは普通に見かけたがな」

 メルJの言葉に赤緒は覚悟を決めていた。箸にかけ、一気に頬張る。

 途端、口中に広がったクセのある味覚に声にならない悲鳴を上げていた。

 かと言って皆の手前で吐き出すわけにもいかず、ぐっと飲み込む。

 その様子におおっと歓声が上がった。

「……すごい、飲んだ……。どう?」

「……何て言うのか……舌の上にはずっと置きたくない味で……。何か、ずっと鼻にツーンと来ると言うか……」

「何だ、言いだしっぺの赤緒も克服できてないじゃん」

 それを言われるとどうしようもないのでしゅんとしてしまう。さつきがすかさずフォローの声を上げてくれていた。

「で、でも! 赤緒さんは食べてくださいましたから! 私も食べます……!」

「さつきのは……カンヅメ……?」

「えっと……私、缶詰食品ってあんまり食べたことなくって……他は何でも食べられるんですけれど、食べたことのないものをって言ったらこれが来て……。えーっと、何て読むんでしょう? しゅーるすとれ……」

 持ち上げて缶のプルタブを開けようとした矢先、メルJが制止の声を飛ばす。

「馬鹿……! それは……!」

 しかしその言葉が届く前に、さつきは缶を開けていた。

 途端、腐った卵のような強烈な臭気が夕食の席に瞬く間に充満していく。

「何これ……! ちょ、ちょっと窓……!」

 ゲホゲホと咳き込みながら全員が窓を全開にする。換気を充分に施してもそれでもまだ酷い臭いが持ち越されていた。

 メルJも咳き込みつつ指摘する。

「それはシュールストレミングと呼ばれる缶詰だ。……世界一臭い食べ物と言われている」

「えー……何でそんなもの……」

 呼吸さえも儘ならないので縁側に避難した全員が新鮮な空気を吸おうとして、またシュールストレミングの臭いに中てられると言う悪循環に駆られていた。

「もう! 赤緒もさつきも、晩御飯の席で何やってんのさ……。こんなのバイオテロじゃん」

「す、すいません……。私もさつきちゃんも、苦手な食べ物ってほとんどないので……」

「こ、こればっかりは用意したルイさんに言ってくださいよ……。私もこんなのだなんて思わなくって……」

「な――っ! ルイ!」

「知らない。他人の好き嫌いに介入するからでしょ。痛い目を見るって分かっているくせに」

 べ、と舌を出したルイは恐らく確信犯なのだろう。ガスマスクを用意していた。

「もう……晩御飯どころじゃないよ……。こんな臭いの中で夕飯なんてできないじゃんかぁ……」

「ひ、ひとまず缶詰を始末しないと……」

「……誰が?」

 全員が顔を見合わせる。その視線の先が自ずと自分に向いて赤緒はふるふると首を横に振っていた。

「む、無理ですっ! 無理……!」

「じゃあどうすんのさ。こんなの……平気な人なんて居るわけ――」

「おーっす、柊、夕飯食いに来てやったぞ……って何だこれ! おい、誰だ、晩メシの席に催涙弾なんて置きやがって……」

 咳き込む両兵にエルニィは光明を見たように指示していた。

「両兵! それ、諸悪の根源だから始末してよ!」

「始末だと……。このカンヅメか? ったく、もったいねぇな……」

 まさか、と全員が瞠目している前で、両兵はシュールストレミングを口の中に流し込む。

 思わぬ処理方法にエルニィが心配げに歩み寄っていた。

「り、両兵……? 何ともないの?」

「クセが強ぇな、このカンヅメ。でもま、食えねーほどじゃねぇだろ。……なんだお前ら。信じられないものを見たようなツラぁしやがって」

「よ、よかったー、両兵が馬鹿で……」

 安堵したエルニィに両兵は突っかかる。

「馬鹿とは何だ! 馬鹿とは!」

「うっ! まだ臭い……。両兵、できればあっち向いて喋ってくれるかな……」

「……ンだよ。せっかくメシ食いに来たってのに邪魔者扱いか?」

「いや、それどころかヒーローなんだけれど……。まぁ、いいや。危険物をまさか食べて処理できる人間が居るとは思わなかったし」

 臭いの大元であるシュールストレミングが両兵の胃袋に収まったお陰か、少しだけ空気の緩和された夕食に戻りかけて、全員が眉根を寄せる。

「……でもやっぱり、おからは要らないかな……」

「……私も納豆は食わんぞ」

「……牛乳だけは飲まない」

「私もブルーチーズは……ちょっと……」

 嫌煙するめいめいの表情を見やり、両兵は怪訝そうにする。

「何だ、てめぇら。そんなもんも食えねぇのかよ。もしもン時に食うに困っても知らねぇぞ?」

「……うーん、赤緒に言われると釈然としなかったんだけれど、あのカンヅメを片付けた人間が言うと説得力が違うなぁ……」

「……と言うよりも馬鹿に頑丈なだけだろう。人間、食えん物の一つや二つはあるはずだ」

「……あ、そう言えばあんまり小河原さんには聞いてきませんでしたよね……。何か苦手な食べ物ってあるんですか?」

 その質問に両兵は顎に手を添えて考え込む。

「苦手だぁ? ……ねぇかもな。苦手って言い始めりゃ、南米じゃ何も食えなかったからよ。サバイバル術みたいなのも叩き込まれたし、毒のねぇものなら何でも……ああ、毒があっても舌の先っちょがピリピリしねぇもんなら大丈夫。食えるもんだって判断はつくな」

 回答が異次元過ぎてどうやら参考にはならなさそうだ。ため息をついた赤緒に両兵が食って掛かる。

「……ンだよ、こいつに聞くんじゃなかった、みてぇな顔しやがって。……まー、でも苦手な食い物食えるようになるのも訓練なんじゃねぇの? こっちは南米ほどじゃねぇけれどよ、ロストライフ化すりゃ、自ずと食うものにも困るだろうしな」

 そうだ、自分たちはロストライフ化しかねない土壌の上に立っている。

 ともすれば明日には何も食べられなくなっていてもおかしくはないのだ。

 しかし、赤緒は食卓の上のブルーチーズにはもう箸をかける気も起きない。

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