JINKI 109 虚無の空に向けて

 ほんの数秒にも満たない時間で、村があったはずの空間は消失し、その堕天の地にて、一体の黒き巨人が屹立していた。

 黄色い眼窩を持つその巨人がほんの小さな命一つの自分を睥睨する。

 摘むのにはいささかの躊躇いもあるまい。

 呆然とその巨人を見つめていたが、やがて巨人の頸部が開く。

出て来たのは黒い長髪をなびかせる女であった。

 氷のような冷たい瞳の持ち主だ。

 切り詰めたような眼差しには自分などもう、命とも思っていないような極地がある。

 腕いっぱいに抱えていた食糧を取り落とす。今日を生き抜くためのレーションがばらばらと地面に落下していた。

 知識にないわけではない。大人たちは言っていた。

 ――この世には人を人とも思わない悪魔が、命を刈って回っている、と。

 その理を「ロストライフ現象」と呼ぶのだとも。

 だが、自分からしてみればそんなものは些事で、明日の食糧があるかどうかばかりが気にかかるところであった。

「……一人か」

 女の声は想像したよりも何倍も重苦しく冷たい。凍てついた心の臓を持ち合わせているかのようであった。

 きっとここで命は手打ちにするつもりであろうと下手に賢しい自分は考え、全身の力を抜いていた。

 別段信じる神は居なかったが、せめて痛くはないように、と念じる。

 だが、痛みどころか死の暗闇も訪れない。

 女は巨人から跳躍し、自分へとゆっくりと歩み寄る。

 漆黒の女の纏うスーツは悪魔のような血脈を宿らせていた。

 ならば女はまさに死の御使いか。

 その手が肩にかかって少年は硬直から解かれる。

「……お前の集落は焼き払った。もう、跡形も残っているまい。どうだ? 絶望したか?」

 問われても少年には応じるだけの舌もなかった。

 何を言ってところで手遅れ。それに、別に――。

「……もう死んだような目つきをしているな」

 女が自分を突き飛ばし、放り投げたのは短刀であった。

「自刃するのならば見ていてやる。選べ」

 とは言われても選択肢などあるはずがない。故郷は焼かれ――否、焦土ですらない、闇に抱かれた。

 そんな境遇で選べるものなどあるものか。

 短刀を鞘から取り出す。ぎらり、と白銀の煌めきが視界に入ってきて、ごくりと唾を飲み下したのも一瞬、女は興味が失せたように踵を返していた。

「ま、待って……!」

 どうしてなのだろう。

 その背に声をかけたのは。

 女は振り返り、どこか怪訝そうにする。

「死ぬのならば早くしろ。そう長く居ついてやる意味もあるまい」

「あの……えっと……」

 言葉が出ない。この世の全てを切り捨てたかのような女の赤い眼差しの鋭さに絶句していた。

「まどろっこしいな。介錯して欲しいのか?」

 再びこちらへと足を向けようとした女はそこではた、と立ち止まる。

 振り仰いだ先を自分も目にしていた。

「……来たな」

 漆黒の三角形の翼が硝煙の曇天を切り裂いて出現する。何が起こっているのか、把握する前に女は矢じり型の鉄片を頭上に振るっていた。

「《ブラックロンド》!」

 その名を紡がれたのか、巨人が鳴動し女を守護すべく駆け抜ける。

 その次の瞬間、爆撃が連鎖していた。

 恐らくはあの三角形の翼の機体から放たれたのだろう。全てを塵に還すかのような問答無用の爆雷の激しさに自分は奥歯を噛んで耐え忍ぶ。

 やがて、爆撃が止んでいた。

 その時には、世界は炎に沈んでいる。

 そこいらで燻る焼け跡と黒煙に女が舌打ちしたのが伝わった。

「……諸共、か。奴らのやり方だな」

 女は自分を一瞥すると、冷徹に言い捨てる。

「助けたつもりはない。私が助かるために《ブラックロンド》を使っただけだ。どうした? 死なないのか?」

 尋ねられて、どうともできないことに気づいていた。

 刃を取って自分の心臓を貫くこともできなければ、無謀にも女へと刃を振るうこともできない。

 何もできない自分を持て余したのを察知したのか、女は諦観を浮かべる。

「……シャンデリアからのアクセスが途絶えた。南米の遣いの送り狼のせいだろう。小賢しくもジャミングか。今宵だけは、この村で過ごさなくってはいけないようだな。……お前」

 呼ばれた、と認識した瞬間、顎を引っ掴まれる。

 引き寄せられた麗しいかんばせに自分は息を呑んでいた。

 かすかに混じる少女らしい清涼感の芳香と、対照的な血の臭い。

「……雨風をしのげる場所を教えろ。この村の出身なのだろう」

「あ、お、俺は……」

「そうではないのならここで殺す。それだけの話だ」

 女の言葉には嘘偽りは一切ないのだと実感する。本気で、自分を殺すつもりだ。

 何度か頭を振ってから渇いた喉でようやく言葉を搾り出していた。

「し、シェルターが……村の端に……」

「なるほどな。こんな辺境地でも私たちは恐れられていると言うわけか。向かう。道を教えろ、少年」

 思わぬ、とはこのことであった。

 まごつく自分に女はどこまでも冷徹に告げる。

「どうした? 役に立たないのならば今すぐに死んでもらう」

 その言葉でようやく萎えていた足腰に力が入っていた。生きるためか、それとも別の何かを見出したのか、女をシェルターへと案内する。

「こ、こっち……」

 だがこんな行為、何になろう。

 女が村を滅ぼしたのは誰が見ても明らかなのに。

 自分はどうして、そんな人間の道案内など――そこまで考えたところで村の惨状が見えてきた。

 視界に大写しになったのは、ほとんど平地に等しくなった村の痕跡であった。

 家があったはずの場所も、見知った者たちも皆等しく、死に呑まれていた。

「……みんな……」

「どうした? シェルターまでは案内してくれるのだろう?」

 女は分かっているのか、それとも自分など歯牙にもかけないのか、急かす声に拳をぎゅっと握り締める。

 だが、湧いてきたのは怒りでも何でもない。

 ――ああ、こんなものか、という諦観。

 自分でも不可思議なほどに醒め切っている。

 その胸中の冷たさに子供でしかない自分は力なく笑っていた。

「ああ、そっか。そんなもんだよな……」

「時間がかかるのならば《ブラックロンド》を使う」

 それは自分を殺すと言う意味か、と思った直後には、《ブラックロンド》と呼ばれている巨人に摘ままれ、その掌に乗せられていた。

「案内しろ。あの爆撃機はすぐに次手を打ってくるはず。隠れなければ終わりと言うほどではないが、追い込まれた獣ほど厄介なものはない。……核兵器相当を使ってくる可能性もあるな。そうなった場合、人機では防御が難しい。《バーゴイル》部隊を呼ぼうにもシャンデリアとの連絡が一時的に途絶えている。私一人で、ここは生き残らなくってはいけないようだ」

 言葉の意味は半分も理解できなかったが、それでも女はあの三角の翼相手に何か差し迫ったものを感じているのは間違いないようだ。

 自分が案内しなければ、女は死ぬかもしれない。

 淡い期待であったが、しかしその時には自分も死ぬのだろう。

 辺りに漂う血の臭い。黒煙が上がり、人の焼ける激臭が鼻をつく。

 これほどまでに濃い死の臭気に中てられていても、それでもどうしてなのだか、自分は女をシェルターへと導いていた。

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