JINKI 110 踏みしめる、この瞬間に

 ……だが、浮かび上がったものはまるで違って見えた。

 どこなのだか、いつなのだかも判然としない、小さなレンガ細工の家々を走り抜けて、清涼感のある夏の香りを胸いっぱいに感じていた。

 自分は走れる、走れたのだ、とどこか違和感に苛まれつつも足を見やる。

 とても細い足――まるで今の今まで歩くことにさえも難儀していたかのような――が大地を踏み締め、そして生まれ出でた喜びをはつらつと感じるかのように跳ね回る。

 原初の喜びを全身で感じているかのようであった。

 動ける、走れる、この足は、自分のものであると。

 声が耳朶を打つ。見知った、とても耳触りのいい声が。

 ――その足で歩けるのなら、もうこれは要らないね、と。

 声の導く先を見やると、家の壁に立てかけられていたのは竹製の立脚台であった。

 ささやかな竹細工の足場が付いており、二本でようやく一人前なのだと分かった。

 それはまさしく――「スティルツ」。昨日までの自分の「足」そのものであった。

 そうだ、自分はつい昨日まであの棒がなければ歩くことも儘らなかったのだ、と理解したその時には声の主の顔が明らかになる。

 自分の頭を撫でた、長身の男は――。

「……Jハーン」

 怨嗟の声が幼い自分から漏れたその瞬間に、青空は燃え尽き、赤く染まっていた。

 血の色が浸蝕する大地で、自分は燃え立つ寒村を眺めている。

 降り立ったのは白い、巨人。

 ――《モリビト一号機》。

 忌むべき名を紡ぎ、奥歯を噛み締めたその直後、夢の皮膜は剥がれ、現実の自分が叫んでいた。

 息を荒立たせて、メルJは掛布団を握り締める。

 骨が浮くほどに力を籠らせた指先には怨嗟が混じっていた。

「……Jハーン……。違う、奴はもう居ない……」

 自分が倒した。アンヘルの者たちと共に討ったではないか。

 だがそれでも、まだこうして夢に見る。自分を苛む忌むべき記憶として。

 しかし夢の仔細を思い出そうとすると霧散してしまう。

「……脳の情報集積機能が、不必要な記憶の抽出を拒むのか……。それでさえも無用な傷だと断じて……」

 身体の傷と同じように、脳も冷酷に判断する。

 ――それはお前には要らないものだと。

 銃創も残らない、完璧な肉体。

 かさぶた一つでさえも異物だと判定する、己の身体。

 だから痛みに苛まれることなど決してない。それはだって、心であれ身体であれ「要らない機能」だから。

 だからなのか。

「……もう、あれだけ憎んでいたお前の顔も……思い出せないんだ、兄さん……」

 過去は常に明日に上塗りされていく。

 それが自分の持つべき傷であったとしても。傷痕は要らない、痛みと言う機能は「この肉体に」とって不要なもの。

 切り捨てればいい。

 なかったことにすればいい。

 成長速度を促し、次へ、次へ、と。細胞の新陳代謝を活性化させ、古いものは全て思い出せもしない、遠い彼方へと。

 ――だが、とメルJは掛布団を握り締め、身を折り曲げていた。

「……私から、必要な痛みまで、奪わないでくれ……」

「……よぉ。しけたツラぁ、してんな」

 病室を訪れた両兵に、メルJは外を眺めていた。

 生憎の雨空、重苦しい曇天である。

「……嫌な夢を見た」

「そうか」

「……お前には私の身体のことを説明したな。傷を負えば、身体の成長速度を増進させ、無理やり怪我を治す、と」

「ああ、聞いた」

「……だが、それは身体の怪我だけでは、ないらしい」

 分かっていたことだった。これまでも何度か、どうしてなのだか過去が有耶無耶になったことがある。自分の経験として、身に染みついていたのは銃を扱う所作だけだ。

 人殺しの武器を取る時だけ、自分は人並みに過去を思い出せる。

 なんて言う――皮肉。

「……ヴァネット。オレぁ、お前の様子を見て来いと言われた」

「……小河原。笑ってくれたっていい。私が人並みになれるのは、人機を扱っている時か、あるいは銃を取っている時だけのようだ。他の時は……人形細工以下だ。赤緒のことも言えんな。あいつは過去が思い出せないらしいが、それでも未来を歩んでいる。真っ直ぐな瞳で。だが私は……ともすればこうしてお前と話している今さえも、危ういのかもしれない。脳が要らないと判断すれば、それはなかったことになる。そういう、人間モドキなんだ。こんなところで思い知るなんて……思いも寄らなかったが」

 涙も出ない。それは不要な機能だから。

 こうして、自分の身体が「治して」くれるのなら、それに従うべきなのだろう。

 ――メシェイル・イ・ハーン。お前に戻る道なんてない。

 今ならば、解き放たれた意味も分かる。

 矢は、目標に命中するその一個の意味だけのためにある。

 戻ってきたり、あるいは矢が惑ったりすることはない。それは「不要」だからだ。

 そういう風に「造られた」のなら、その運命のままに生きれば――。

「……ヴァネット。ちぃとこっち向け」

 振り返る。

 両兵が、険しい眼差しで佇んでいた。

「……何だ。私らしくないか? 殴ってくれていい。そのほうがせいせいする」

 壊れた道具はそうするのがお似合いだろう。

 しかし、両兵は握り締めた拳をそのまま自分の頭上で解いて――そして、わしわしと撫でていた。

 想定外のことにメルJは困惑する。

 思わず声が上ずってしまっていた。

「おおっ、小河原……っ? 何をしてるんだ、やめろ!」

「やめねぇ。何つーかよ。今のてめぇ、らしくないを通り越して、何だか放っておけねぇんだよ。柊やさつきみてぇな……守ってあげなきゃ、どっか行っちまいそうでな」

「だ、だが私は……その……年齢的に無理がないか?」

「無理なんてねぇだろ。前に聞かされた通りなら、てめぇの見た目通りの年齢ってわけじゃないかもしれねぇンだろ? んじゃ、ほんの背伸びしている、ガキかもしんねぇってこった」

「が、餓鬼は余計だ! 馬鹿……!」

 いきり立って声を出すと、両兵はようやく頭を撫でるのをやめていた。

 だが……少しこそばゆい。

 もう少しだけ、撫でて欲しかったような心細さを感じる。

「……オレらが待ってンのは、メルJ・ヴァネットっつー、融通も利かなけりゃ、人の言うことなんて耳ぃ貸さねぇ、馬鹿みてぇにタフで、馬鹿みてぇに図太い、強情っ張りな跳ね馬だろうが。今のてめぇじゃ、銀翼のアンシーリーコートの名が泣くぜ」

「……わ、私はその名を名乗ったつもりはないのだが……」

 しかし、少しだけ、胸の重石が取れた気がしたのは何故だろう。

 怒って頭が沸騰したからか。

 それとも、目の前にいる小河原両兵と言う相手には、そんな小手先の脳細胞は無駄だと判定したのか。

「キレてちぃとは気は晴れたかよ。……っつーことは、だ。お前の中で治してくれる超便利細胞ってのは、そんなちっこいところで機能しねぇってこった。お前は人並みにキレられるし、人並みに馬鹿正直にもなれる。考えてもみやがれ。その超便利細胞とやらがマジにお前の言う通りに、何でもかんでも治しちまうもんならよ、キレるなんて単細胞許すわけねぇだろうが。……お前は自分じゃ澄ましている醒めた戦略家気取ってンのかもしれねぇけれどよ、俺の眼から見りゃ、馬鹿な同じ穴のムジナに違いねぇんだ」

「……か、確証は……」

「ンなもん、あるわきゃねーだろ」

 言い捨てた両兵にメルJは声を発しかけて、それ以上に重みのある言葉に遮られていた。

「同じ単細胞なんだ。見りゃ分からぁ」

 何故なのだろうか。

 そんな、暴論にも聞こえる言葉が――この時ほどストンと、胸の中で落ちてくれたのは。

 ぷっ、と吹き出してしまう。そんな自分に両兵はへんと笑いかけていた。

「……昔から言うだろ? 馬鹿につける――」

「薬はない、か。そうだな、単細胞がどれだけ考えたって、答えは出るようで出ないんだ。……そんな単純なこと、忘れていたよ」

「……明日には退院だろ? リンゴ一個、貰ってくぜ。腹の足しにはならぁな」

「……小河原、一つだけ……退院してからお願いしていいか?」

 呼び止めると両兵は一瞥を振り向けつつ林檎を齧っていた。

「何だよ。お願いなんて改まっちまって。リンゴならやらんぞ」

「いや……何でもない、お願いなんだが……」

「――いやー、めでたいね! メルJも退院したし、赤緒ー、今日はジャパニーズ赤飯にしてよ! 塩たっぷりかけてさ!」

「はいはい、今仕込みしますから……でも、大丈夫なんですかね?」

 境内を窺い見た赤緒の視界の先に居たのは、竹馬に再び挑戦するメルJの姿であった。

 その眼前で両兵が仁王立ちしている。

「大丈夫じゃないのー? メルJも克服したって言ってるし」

「でも……怪我したら……」

「その時は両兵のせいだねー」

 何でもないかのように見つめるエルニィと同じく、自分も見守ることしかできない。

 メルJは震える手でしっかりと竹を握り締め、そして足場を踏んでいた。

 両足が浮いて、竹馬の比重が僅かに傾く。

 あっ、と声を上げる前に両兵がそれを補助していた。

 その鋭い眼差しがメルJを見据え、首肯する。

 その目線を受けてメルJも頷き、一歩、また一歩と歩みを進めていた。

「できたじゃん、メルJ」

 エルニィの声にメルJが、ああと振り返る。

「これで……私も一歩、また歩み出せる……他でもない、自分の足で」

 どこか、その声は生まれ出でたかのような、純粋な喜びに満ち溢れていた。

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