「あ、赤緒さん。おはようございます!」
快活に笑ってみせるメルJに赤緒は脳内がこんがらがってしまう。
「……あー、そっか。これ、夢なんだ……。まだ私、起きてないのかも……」
取って返そうとして、射撃の音が庭先から聞こえてくる。目を向けると、さつきが難しそうな顔をして拳銃を構えていた。
「……この身体だと照準が付けづらくって仕方ないな……。細腕過ぎるんだ、これが」
「さ、さつきちゃん? ……何で、銃なんて……?」
「むっ、赤緒か。遅いぞ、たるんでいるんじゃないのか」
さつきそのものにしか見えない相手から叱責が飛び、赤緒はぐらぐらする頭を持て余しつつ、ああ、と悟る。
「こんなに現実的な夢を見ちゃうなんて……。きっと疲れているんですね……」
「いやー、夢じゃないんだな、これが」
居間から出てきたエルニィが笑いながら手を翳す。赤緒はぼんやりとそれを眺めていたが、やがて頬っぺたをつねられてその痛みに呻いていた。
「い、痛い……っ! 痛いですってば!」
「ホラ、夢じゃないでしょ?」
エルニィの言葉に赤緒は頬をさすりながら、台所でエプロン姿のメルJと、いつもの割烹着にコートを着込んださつきとを交互に見やる。
何が起こっているのか、判然とする前に二人分の声が弾けていた。
「まったく、何をやっているんだ、赤緒。そんなんじゃ、操主も務まらんぞ」
「赤緒さん。すいません、その……実は――」
「――アルファーの訓練……ですか?」
さつきは早朝の掃除をしている最中にエルニィからアルファーを差し出される。
「そっ。いくら血続適性が高いって言っても、やっぱりね。いざと言う時に身を守るのにはアルファーの体得は必須だし。今のところ、キョムに目立った動きはないとは言え、そのうちに攻めてくるかもしれない。そんな時にアルファーの一個くらいは使えないでどうするのさ」
「で、でも……その……。具体的にどうすれば?」
「何でもいいから、ぶわーっ! とぶっ飛ばすイメージを伴わせてみてよ。そうすればアルファーが呼応して風圧くらいは起こすでしょ」
縁側で自分の訓練を観察しているエルニィへとさつきはアルファーを掲げ、自身から風圧を発するイメージを脳内で結ぶ。
すると、にわかに風が巻き起こり、旋風が境内を突っ切って行った。
「やった……今ので……」
「うーん……もうちょっと出力上がんない? データ不足になっちゃう」
「そ、そうですか……? じゃあ、その……ぶぅーん!」
声に出さないとイメージが伴わない。いささか間抜けにも思えたが、今度の風のほうが先ほどよりも数段階上昇していた。
「おっ、いいね、いいね、さつき。その調子でどんどん、アルファーの出力値を上げちゃおうよ」
調子よくエルニィが急かすものだから、さつきは今度は満身から、突風を巻き起こすイメージを放出していた。
「こ、こうですか……? ぶぅーん!」
その瞬間である。
自分の肉体から不意に意識が飛び出していた。
アルファーを握って前に翳している自分自身が大写しになったその時には、意識だけが先行して庭先で射撃訓練をしているメルJへと追突し、直後にはずっこけていた。
「いたたた……。あっ、すいません! ヴァネットさん! 私……あれ?」
異変を感じたのは自分の手足があまりにもしなやかに長くなっているせいである。背丈もいつもより二十センチほどは高いであろうか。首を傾げながら起き上がると、何だか身体が重たい。
「……立花さん、今、何か……」
その声を放つ前に悲鳴が劈いていた。
「何だ、これは……」
当惑しているのは自分自身であった。
否、自分の目線から見た、「川本さつき」の身体が異常事態に震えている。
「えーっと……私の身体?」
「お前……まさかさつきか?」
お互いに指差して、えっ、と顔や身体つきを確認する。
「これ……ヴァネットさんの身体……?」
「これは……さつきの身体、なのか……?」
「じゃあもしかして……」
「私たちは……」
「「――入れ替わってる――!」」
「……ってなわけで、アルファーによって意識が飛び出して、お互いにぶつかった結果、メルJとさつきが入れ替わっちゃったってわけ」
何でもないことのように語るエルニィは半ばこの状況を面白がっているに違いない。にやにやと締まりのない笑みを浮かべている。
それに対して、赤緒の困惑は最高潮であり、ふんぞり返るさつきにしか見えないメルJと、どこかもじもじとして所在なさげなメルJ、にしか見えないさつきがテーブルを挟んでいた。
「えっと……そういうことってあるんですか?」
「あるかもね。アルファーはだって血続の意識に作用するし、意識と肉体を分離するくらいはわけないかも。でもまぁ、こうしてテストケースを見るまでは信じられなかったけれど」
「テストケースとは何だ、立花。……まったく、この身体はとても不便だな。小さいし、筋肉がなさ過ぎる。まともに射撃訓練も出来やしない」
「あっ、すいません、ヴァネットさん。……あ、お茶を淹れて来ますね、皆さん。ちょっと待っていてください」
そう言っていそいそと台所へと戻っていくメルJの肉体のさつきを、エルニィは面白がってエプロンを捲る。
メルJの声で、さつきが悲鳴を上げていた。
「きゃあっ! もうっ、立花さん! やめてくださいよぉ……」
「いやー、新鮮でいいね。何なら動画で残しちゃおうかな」
その言葉にさつきにしか見えないメルJが拳銃を構える。
「やめろ。殺されたいのか」
さつきの声で突きつけられる殺意はしかしどこか間が抜けていて、エルニィも反省する気はないらしい。
「さつきの顔で言われても、ぜーんぜん迫力ないなぁ」
「でも……どうするんですか? もし、キョムが攻めてきたら……」
「うーん、その時はお互いに乗機を入れ替えて、かなぁ。でもま、こんなの一時的だろうし、すぐに戻るって」
「……その根拠は……?」
「あるわけないじゃん。初めてのケースだよ? これ」
どこかあっけらかんとしているエルニィに赤緒は毒気を抜かれた気分であった。
さつきの身体のメルJがふんと鼻を鳴らす。
「天才なんだろう。とっととこの状態を何とかしろ。そうでなくっても不便なんだ」
「とは言ってもなぁ……。今の状況、メチャクチャ面白いし……何ならしばらくはお互いに身体を入れ替えておけば?」
「ふざけるな! 私はこんな貧弱な身体は御免だ!」
机を叩いたさつきの見た目のメルJにメルJの身体に入ったさつきが肩をびくつかせる。
「す、すいません……ヴァネットさん。貧弱……ですよね……」
「あっ、さつきちゃん。お茶を運ぶから、さつきちゃんは座っていて」
赤緒がお盆を取ると、メルJの見た目で困ったように微笑むものだからどこか混乱してしまう。
「まぁ、真面目な話。一日くらいじゃないかな。さつきのアルファーの力ってそれほど強いかどうかは不明だし」
「……つまり一日だけ、我慢していろと?」
「現実問題、キョムが来ればボクや赤緒で何とかするから、二人は可笑しなところがないように注意だけしておけばいいんじゃない?」
「可笑しなところ……。そう言えば私は今日……自衛隊の演習予定があるんだったが……」
じろり、とメルJがさつきを睨む。さつきは頭を振っていた。
「むっ……無理ですっ! 無理……! だって私……ピストルなんて使えませんし……」
むぅ、と呻ったメルJにさつきは言いづらそうに返す。
「あのー、私……一応今日は学校なんですけれど……」
「学校だと? ……お前らしく振る舞えばいいのだろう?」
「……できるんですか?」
その問いかけにメルJは沈黙してしまう。
どうやらたった一日だけとは言え、入れ替わってしまった二人のサポートは必要なようだ。
「あ、あのっ……さつきちゃんは私と同じ学校なので、そのー、クラスまでは無理ですけれど、一緒に通うくらいは……」
「ならば赤緒、お前に任せる。さつき、お前は自衛隊に合流しろ」
「で、でも私……演習なんて……」
「人機に乗ってそれらしく振る舞っていればいい。どうせ顔を出すことも少ないはずだ」
どこか所在なさげにするさつきに対し、メルJは立ち上がってこちらへと鋭い一瞥をくれる。
「赤緒、着替えを。私はあの格好以外にしたことがない」
「あっ、じゃあその……制服に着替えましょうか。さつきちゃんは……」
「……あの、私……この恰好なんでしょうか……?」
「何か問題でも?」
凄味を利かせたメルJの威圧に、さつきは反論を仕舞う。
「あっ、その……いえ、何でもない……です」
赤緒はさつきの身体に入ったメルJを制服に着替えさせている最中、その文句を聞く。
「……狭苦しい身体だな、これは」
「さつきちゃん、小柄ですから。ヴァネットさんの普段の立ち振る舞いじゃ、ちょっと……」
「……お前より背が低いのが一番に解せん」
ぷいっと視線を背けてしまったメルJと共に赤緒は支度をして通学路に入る。
どこか無言なのが辛く、赤緒は話題を探っていた。
「あのー、こんなことになっちゃって……その、怒ってます?」
「それはそうだろう。……さつきめ、きっちりと演習をこなせるんだろうな」
つんと澄ましたメルJから漂う気迫に参ってしまった赤緒は不意に自分を呼びとめる声を聞いていた。
「あっ、マキちゃんに泉ちゃん」
「おーっす、赤緒ー。あっ、さつきちゃんじゃん。おっはよー」
「……誰だ、こいつらは」
ハッとする。そう言えばメルJはマキと泉のことを知らないはずだ。
きょとんとしたのはマキのほうでさつきの肩を揺すってその顔を覗き込む。
「……ねー、赤緒。何だか変な感じがしたような――」
「なっ! 何でもないってば! マキちゃんってば大げさだなぁ!」
わざと大声を出して先の違和感を払しょくしたが、泉が小首を傾げて疑問符を挟む。
「……何だか、雰囲気が違う気がしますね、川本さん」
「……私の名前はメルJ・ヴァネットだ。川本さつきではない」
張り詰めた声に赤緒は割って入っていた。
「ちょ、ヴァネッ……さつきちゃんってば! ご、ゴメンね、泉ちゃん……。そのー、さつきちゃん、ちょっと昨日の晩に見た洋画に影響されちゃって……」
そう言い訳を取り繕うしかない。
泉は納得したようなしていないような顔をしている。
「そう、ですか……。何だか雰囲気まで変わってしまったようでびっくりしましたわ」
「ふぅーん、何だかんだでまだ中学生だもんね。大人びていたように見えたけれど、まだまだ子供か」
「誰が子供だ。次に余計なことを言えばただではおかない」
鞄から拳銃を取り出したメルJに赤緒が慌てて取り成す。
「わーっ! わーっ! ……何持って来ちゃってるんですか! ヴァネッ……さつきちゃん!」
「これがないと落ち着かんからな」
何でもないように鞄に拳銃を仕舞う所作に、マキは目を見開いている。
「へぇー、本格的に洋画かぶれになっちゃったなぁ……。モデルガンまで用意するなんて。あっ、でもちょっと待って。今、ネタ降って来たかも! よぉーし! 今度の主人公は幼児体型の暗殺者だ!」
「誰が幼児体型だ。こんな貧弱な身体になった覚えはない」
「うわ、すっごい、成り切っちゃってる……。これは取材のし甲斐がありそう。ねぇねぇ! 川本さつきちゃんだっけ? マンガのモデルになってよ!」
それに関しては嫌な気がしないのか、メルJはふふんと鼻を鳴らす。
「高くつくぞ?」
「うわーっ、本当に別人みたい! 赤緒、この子素質あるよ!」
「う、うん……そうかなぁ……」
何の素質なのかは聞かないでおく。
だが、自分がもう既にこの時点でいっぱいいっぱいなのに、さつきをメルJの身体に入れたままでいいのだろうか。
今になって不安になって来て赤緒は呟く。
「……心配だなぁ……」
「さつきー! ……じゃないや、メルJー、お客さんだよー」
台所で昼食の準備に入っていたさつきが首を傾げる。
「誰ですか?」
「誰って……メルJが言っていたでしょ。自衛隊の。遅いから迎えに来たってさ」
すっかり忘れていた。
さつきは慌てて準備をしようとして柊神社に入って来た自衛隊員に当惑されてしまう。
「め、メルJさん……? どうしたんです、その格好……」
いつものメルJの格好はあまりにも明け透けなので、上から割烹着を羽織っていたのだが、それが逆に奇異に見えたらしい。
「ちょ、ちょっと待ってくださいー! 今、準備しますから!」
とは言っても、何を準備すればいいのだろう。
メルJの愛用する拳銃を持つ気にもなれず、結局普段着のメルJに極めて近い格好で自衛隊員に合流する。
「おう、ヴァネット。お前にしちゃ、演習に遅れるのは珍しいじゃねぇか」
自衛隊員と同行する両兵の視線にさつきは思わず身体を隠す。
「おっ……お兄ちゃん……?」
そこで両兵が怪訝そうに眉をひそめていた。
「お兄ちゃん……? 何だ、さつきみてぇなことを言いやがって。熱でもあンのか?」
「いや、その……おにい……じゃなくって……小河原さん……でもなくって……こほん。おっ、小河原、何でもないぞ、何でも……」
メルJの普段を思い返してみるが、両兵はどこか納得していない様子である。
「……何だか今日はヘンだな、お前。調子悪いんなら休んでもいいんだぜ?」
「いえ……いや、その……頼まれたことだから、な……。断れない……だろう」
「では、今日も射撃演習、よろしくお願いします!」