「……そこまで不器用でもねぇだろ」
「小河原さん?」
猫がみゃあと鳴く。その猫が両兵に対して警戒を解いたのを嚆矢としたように、瓦礫から数匹の猫が連れ立って歩いてくる。
「あっ、猫……」
「柊。帰ンぞ」
立ち上がった両兵に赤緒は理解できずに声を荒らげてしまう。
「小河原さん! ……偶然誰も死ななかったからって私……できることをやらないのは、駄目だと思います……っ!」
「じゃあどうすんだよ。ここで張って、出るか分からねぇ人機相手に押し問答でもすっか?」
「それは……」
「どうせ、出るとしたら夜だ。それに……オレとしても真っ昼間には顔を合わせたくはねぇな」
両兵はコートを羽織って踵を返していた。
その背中に呼び止める言葉一つ持たず、赤緒は差し出しかけた手を彷徨わせる。
「……でも、何かが起こってからじゃ遅いじゃないですか。私は……キョムの人機を許しません」
「それも勝手だが、間違えんなよ。善と正義は全然違ぇぞ」
その言葉を問い返す前に、両兵は工事現場を後にしていた。
「……小河原さん、絶対に変ですよ……。下操主席にも乗らないって……」
結局、《モリビト2号》で工事現場を張ることになったのは赤緒とさつきであった。
「で、でも珍しいですよね? 私と赤緒さんがこうしてコックピットで顔を突き合わせるのって……」
「さつきちゃん……うん、そうだね。でも、本当によかったの? 《ナナツーライト》のほうが……」
「それも言ったんですけれど、立花さん、今回はモリビトだけだって譲らなかったので、じゃあ下操主でもいいですって、無理やりついてきましたから……。許せませんよね、キョムの行動を、黙って見ているなんて……」
「あ、うん。でも……善と正義は違うって……」
どこか気圧されるように赤緒は口にしていた。どういう意味なのかはまるで分からない。分からないからすわりが悪いのか、あるいはどこか自分たちが口にするのには遊離してさえもいるのか。
「それにしても……ちょっと眠いですね。普段なら私、もう寝ちゃっているから……」
さつきが欠伸を噛み殺す。どこか謙遜気味なのは自分の前だと悪いと思っているからだろう。赤緒は務めて明るく声をかけていた。
「……大丈夫だよ、さつきちゃん。無理はしなくって。私も……ちょっと眠いけれどでも……《バーゴイル》相手に眠いなんて言っていられないし」
その時、ズズン、と丹田に重く響き渡る衝撃波が工事現場付近を揺らす。
「来た……っ!」
赤緒はすかさず橋の陰に隠していた《モリビト2号》を稼働させる。
緑色の眼窩を煌めかせ、《モリビト2号》が工事現場へと躍り出ていた。
「キョムの……! って……あれ? あれは……」
宵闇を切り裂いて、進軍するのは紛れもない――。
「……《ナナツーマイルド》? ルイさんの……。何で?」
まさかルイも秘密裏にここを張っていたのだろうか。だとすれば行き違いだ、と赤緒は無線に声を吹き込む。
「ルイさん? ここに襲来するキョムの機体に、心当たりでもあったんですか? なら、モリビトと一緒に迎撃を……」
『……さい』
「……ルイさん?」
疑問符を挟んだ刹那、《ナナツーマイルド》の保持する大剣――メッサーシュレイヴが突きつけられていた。
照準警告にさつきが困惑する。
「ロックオン……? ルイさん、照準がモリビトにかかってます! 今すぐにロックを解かないと、向かってくるのがたとえ《バーゴイル》相手でも!」
『……うるさいわよ、赤緒に……さつきも居るのね。……何も分かってないみたいだから教えてあげる。ここを昨日の夜襲ったのは――この私よ』
「……何を言って……。どういう意味なんです?」
『……理解が遅いわね。言葉通りの意味よ。《ナナツーマイルド》でこの工事現場を襲ったって言ってるの』
絶句したのは自分だけではない。下操主席のさつきも、であった。
「……ルイさん? どういう……そういう作戦なんですか?」
『鈍いのね。それとも、突きつけられた殺意にすら、愚鈍だって言うの? ここで私の邪魔をするのなら、あんたたちも容赦しない。――叩き斬る』
問答無用の殺意が振り向けられ、赤緒は本気だと悟ったその瞬間には、掻き消えた機動の《ナナツーマイルド》から逃れていた。
打ち下ろされた一閃の鋭さに、赤緒はモリビトを後退させつつ声を発する。
「な、何で……! 何でなんですか! ルイさん!」
メッサーシュレイヴを打ち下ろした姿勢のまま、《ナナツーマイルド》の金色の眼光がこちらへと投げかけられていた。
『……何も分かっていないのね。なら、ここで撃墜してあげる。そのほうが……物分りもいいでしょうし』
《ナナツーマイルド》が空間に溶けるように瞬間的に加速する。赤緒の眼では辛うじて追えるか追えないかのレベルだ。
それでも、ここでの不明瞭さをどうにかするのには立ち向かうしかない――そう判じた神経が刹那の見切りでメッサーシュレイヴの斬撃へとブレードの軌道を合わせていた。
剣筋が交差し、火花が舞い散る。
「ルイさん! どうして……」
『何も。何も言う必要はないわ。あんたたちは敵、そして私はここを押し通す。それだけだもの』
「そんな……っ! 理由も教えてくれないんですか!」
『……言ったら退くって言うの?』
「それは……」
返事に窮していると、下段から振るい上げたもう一本の小型ブレードがモリビトの姿勢を崩していた。
僅かにたたらを踏んだ《モリビト2号》に、加速した《ナナツーマイルド》が猪突する。
肩口からぶつかり合い、衝撃に赤緒とさつきは悲鳴を上げていた。
「……でも、理由くらいは! 言ってくれてもいいじゃないですか!」
『……うるさい』
コックピットへとメッサーシュレイヴの切っ先が大写しになる。
――終わった、と予感した、その時であった。
空間を震わせる衝撃波と共に《ナナツーマイルド》が後ずさる。
着弾した肩口には赤いペイント弾が爆ぜていた。
『……砲撃……この感じは、《ナナツーウェイ》ね。南と……小河原さん』
「小河原さん? ……何で……」
振り向いて赤緒は遠くに望める砲撃仕様の《ナナツーウェイ》を認めていた。さつきも遅れて視認したようだ。
「……どうして、《ナナツーウェイ》が? ……南さんが乗っているんですか……?」
『……二機とも、そこまでよ。ルイ。……理由くらいは、話してもいいんじゃないの?』
どこか心得たような南の声音に、《ナナツーマイルド》から殺気が凪いでいく。
赤緒は転がっていく事態に、ただただ翻弄されるしかなかった。
ぽつり、とコックピットの天窓に水滴が落ちる。
雨が、しとしとと降り始めていた。
「……あの工事現場、随分と違法な物質を東京湾に流していてね。それで揉めていたんだけれど、上役が揉み消していたの。私がそのことに気づいたのは、あの新聞の一面を見てから。……プレッシャー兵器を持っているのは、何も《バーゴイル》だけじゃないもの。断面で、すぐにルイの《ナナツーマイルド》の武装だって分かったわ」
赤緒は自室に閉じ籠って、扉越しに廊下から聞こえてくる南の声を聞いていた。
概要は既に聞かされていた。
――自分たちは愚かにもお互いに傷つけ合ったのだと。
「あの工事現場……前にルイが猫とかとじゃれついてたって、エルニィから聞かされてたから、まさかって思ったけれど……嫌な予感ほど的中しちゃうのよね。それに、証言も聞けば聞くほどに《ナナツーマイルド》の特徴と一致するし……ルイのアリバイはないし。でもね、分かって欲しいのはそんなことじゃないの」
「……じゃあ何だって言うんですか。私は結局、ルイさんにとって、……いいえ、あの境遇では邪魔でしかなくって……敵だったってわけじゃないですか」
枕を抱き寄せ、顔を伏せる。
その頬を熱いものが伝う。
南は否定しなかった。
「……赤緒さん。私たちは、ね。大きな力を操る武器庫の番人なのよ。アンヘルだとか、キョムだとか言ったって、どっちも同じ……大きな力である人機を使っているのには変わらないんだもの。普通の人からしてみれば、どっちが正義とか悪とか……そういうのって流動的なの。そりゃ、キョムは許せないわ。ロストライフ化は絶対に防がなくっちゃいけないけれどでも……こういうすれ違いも、起きてしまう。それが人機の……操主ってことなのよ」
力を持つがゆえに、起きてしまった悲しいすれ違い。
そうと片付けるのにはしかし、自分はまだ子供であった。
「……ルイさん、私がもうちょっと大人なら……理由を話してくれたんでしょうか……」
「分かんないわよ、起こってしまったことだもの。でも……雨は辛いわね。あの子、きっと濡れて帰ってくるでしょうから……傘が要るわ。そういう身勝手も包み込んでくれるような、傘が、ね」
「――よぉ。雨、降ってんぞ」
声を投げかけた両兵をルイは一瞥し、それから猫の腹を撫でていた。
工業廃水で少しだけ黒ずんだ腹部は、毛羽立ってざらざらとしている。
「……知ってる」
「そいつら、随分と人に慣れていたな。……だがここに居ちゃ、長くはねぇ。工事現場だ、追い出されるか……それとも殺されていたかもな。人間の身勝手で」
「……私の命令無視だとか、《ナナツーマイルド》の私的占有だとかをどうこう問いたいのなら好きにすればいい。アンヘルから排除したいとか言うのなら、どうとでも――」
そう言いかけた自分へと、そっと傘が差し出されていた。
大きな、黒い傘。
「アホか。そんなこと言いたくってわざわざ来るかよ。……ただな、今回ばっかしは、柊もお前も、譲れないもののために戦ったんだ。それをどうこうは言わねぇし、その点に関しちゃ黄坂が取り計らってくれンだろ」
「……でも《ナナツーマイルド》で人に襲いかかった」
「きっちり人が乗っていないのを理解した上で、重機だけ狙ってだろ。斬り口で分かる。……まぁ褒められたもんじゃねぇがな。ただよ、オレらは正義の味方じゃねぇ。ただ偶然に……巡り合わせで善の側に居るだけだ。人機なんつー、力の塊に乗っている以上、綺麗ごとばっかじゃいられねぇのは南米で教わったろ? 力を振るう以上、場合によっちゃ、それが正義には見えないこともある。だが、てめぇも柊も正しいと思うことのために戦った。なら、今回はそれで手打ちでいいじゃねぇか」
ルイは猫の顎をさする。瓦礫からこちらへと数匹の猫たちが歩み寄って自分を囲ってめいめいに鳴き声を上げる。
弱々しい声。とても華奢な、命の鈴の音。
「……この子たちは、ただ生きているだけ。でも……それじゃ、いけないの?」
「いんや。何もいけないこたぁねぇ。ただな、人間となっちゃ話は別だ。……嫌だよな、人間ってのは複雑で。生きてるだけってのは……どうにも許されなくってよ。ただまぁ、一つ言うとしちゃ、雨は辛ぇだろ」
差し出された傘に、ルイは静かに頷いて身を翻す。
猫が名残惜しそうに声を上げたが、ルイは振り向かなかった。
「……傘、要るか?」
「……いい。ちょっとくらい濡れて帰ったほうが、今の気分にはせいせいする」
「……そうか」
ルイは駆け出していた。
ただ闇雲に、どこかやけっぱちに。
両兵がその背中に余計な言葉をかけないことが、今の自分には何よりも救いに思われた。
ただ、やっぱり――。
「……雨は、ちょっとつらい」
冷たい雨は静かに降り続いていた。