JINKI 130 眠れぬ夜に

「旅行、かぁ……。そういえばあまり行ったことはないかも……」

 シャーペンを片手に宿題と睨み合う赤緒はその時、ドアを軽くノックされたのを聞いていた。

「赤緒さん、お夜食を持ってきましたよ」

「あっ、五郎さん。今開けますね」

 扉の向こうでは五郎がかきたまうどんをこしらえて待っていた。その後ろからぴょこんとルイが顔を出す。

「る、ルイさん……? 何で……?」

「何でじゃないわよ、赤緒。最近、何でだか休みなのに夜遅くまで明かりがついているから、不自然に思ったんじゃない」

「すいません、赤緒さん。ルイさんもじゃあ見れば納得するんじゃないかと思いまして」

 曖昧に頷きつつ、赤緒はルイを部屋に招く。

 そう言えば、自室にアンヘルメンバーとは言え、こんな夜半に招いたのは初めてかもしれない。

 そう思ってルイを見やると、彼女は音楽を流すラジオが物珍しいのかじっと眺めている。

「……あっ、五郎さん。お夜食、ありがとうございます。食べたら洗っておきますから、もうお休みになってください」

「じゃあお言葉に甘えて。赤緒さん、歯磨きはしてくださいね」

 にこやかに微笑んで手を振っていると、ルイがじっとこちらを見据えていた。

「……赤緒だけ、ずるいわね。こんな夜更けにうどんなんて豪勢なものを」

「ち、違いますよぉ……。これは、お夜食なんですっ。ほら、私、ちょっとだけ勉強が遅れていますので……その穴埋めにこの休みを使おうと思いまして……」

「ちょっと?」

「……うっ。そこはそのー、言い方次第ですけれども……」

 視線を逃がしていると、ルイは座り込もうとするので慌てて座布団を差し出す。

「それにしても、小奇麗にはしてるのね」

「ええ、まぁ。……部屋だけは綺麗にしておかないと。住まわせてもらってるんですから」

「それって私たちに言ってるの?」

「そ、そうじゃないですけれどぉ……」

 困惑してしまう。

 ルイは、自分が夜食を取っていることを訝しんでここまでついて来たに違いない。そうでなくとも、そういう嗅覚だけは鋭いのがルイだ。

 下手な誤魔化しは通用しないな、と思って赤緒は学校のテキストと、その横に広げてある人機の関連書類を指し示していた。

「……お勉強する時間はお昼には取りづらいですので……夜に集中しようかと。本当は朝早くに起きなくっちゃいけませんから、こういうのも駄目なんですけれど、深夜一時までなら無茶できるかな、って」

 頬を掻いて説明すると、ルイはラジオへと視線を据える。

「それなのに、いいご身分じゃない。音楽を聴きながら悠々と勉強なんて」

「そっ、それはぁ……その……。何とも言えませんけれど」

「ほら、言えない。そのお夜食だって、私たちにはバレなければ秘密だったんでしょ?」

 痛いところを突いてくる。赤緒は、じゃあ、とルイと向かい合って数学のテキストを開いていた。

「一緒に勉強します? その……数学ですけれど」

「数学? 赤緒、馬鹿にしているの?」

 思わぬ攻勢に赤緒はうろたえてしまう。

「なっ、何がですか……?」

「数学なんて私に解けるわけないじゃない」

 そこからかと肩透かしを食らってしまう。そう言えば、ルイは夕食前に最近、さつきから算数を教わっているのを何度か目にしたことがあった。

「あの……ルイさん、今どの辺を習ってます?」

「九九の段あたりかしら。あれ、意味不明なのよね。結局は暗記じゃないの。それも、よく分からない説明で覚えさせられるし。さつきは大人になったら必要になるとか言っているけれど、どうせ不要でしょ。……それも、あのメルJと一緒のレベルなんだと思われているんだから心外よ」

「あー……そういえばヴァネットさんも教わっていましたね、算数……」

 どうしてそうなったのかはよく分かっていないのだが、算数を二人に教えるさつきという構図が出来上がっており、それに関しては微笑ましいと思っていただけに、直後のルイの態度に硬直する。

「……何、へらへらして。そんなに算数ができるのが偉いって言うの?」

「い、いえっ……そんなことは……。でも、九九の段くらいは覚えないと……」

「赤緒のくせに偉そうなのね。自分は音楽を聴きながら勉強しているわけじゃない。そんなの不合理よ」

「そ、それは言いっこなしじゃ……」

「何か文句でも?」

 凄みを利かせた声音に赤緒は返答を封殺してしまう。

「いえ、その……文句とかは、特に……」

「まったく、そんなだから、操主も中途半端なのよ」

 そう言いつつ、ルイは箸を手に取ってうどんをすすり始める。

「あーっ! 私のお夜食なのに……」

「半々よ、半々。これをバラされたくなかったら、ね」

「……別に悪いことをしているわけじゃないんだけれどなぁ……」

 とはいえ、他のアンヘルメンバーに露見すると後々面倒そうなので、ルイの意見には乗っておく。

「で、これは何なの? 赤緒。ご機嫌な音楽が流れているけれど」

「あっ、これは深夜ラジオで……ルイさん、向こうにはなかったんですか?」

「ラジオ? それって政見放送とか、軍事通信とかのこと? あったにはあったけれど、こんなに呑気じゃなかったわよ」

 ずるずると麺をすするルイの意見に、国が違えば状況も違うか、と赤緒は納得する。

「えっと……夜中の楽しみみたいなもので……ラジオパーソナリティさんが選んだ音楽とかお便りとかを読んでくださったり、リクエストされた音楽を流したり……」

「要は暇つぶしでしょ?」

「……まぁ、間違いじゃないですけれど……」

 渋々応じると、ルイはほぼほぼ半分以上を平らげた後にうどんをこちらに寄越す。赤緒は減ってしまった夜食を嘆く前に、流れ始めた流行歌を聞いていた。

「あっ、これ……。最近よく聴くやつ……」

「赤緒はこういうのが好きなのね。浮ついたテンポだこと」

「うっ、浮ついたって何ですかぁ……。流行りなんですよ?」

「知らないわよ、そんなの、他のは? 他も聴けるんでしょ?」

 ルイがチューニングしようとしたので、慌てて制して自分でラジオの局を回してみる。

「ま、待ってください! 戻すの大変なんですから……。私がやりますので」

「赤緒は勉強しないでいいの? それに、音楽なんかにかまけていたらやれる勉強もできないんじゃない?」

「うっ……正論……」

 仕方なく机に戻りかけてルイがラジオのチューニングを行う。

「あら? これは……? 何だか慌ただしい声だけれど」

「えっと……お笑い芸人さんのラジオですね。私は聴いたことないですけれど……」

「ふぅん……まぁさっきよりかはマシね。他には?」

 続いてどこの電波を受信したのだか、他の言語のラジオが入ってくる。

「……あの、集中できないんですけれど……」

「何? 邪魔って言いたいの?」

「い、いえっ……決してそんなわけじゃ……」

「じゃあ赤緒は勉強していなさい。私がラジオを選別してあげるんだから」

「……何でこんなことになっちゃったんだろ……」

 ルイはラジオのチューニングに余念がない。局を替えてはふぅんだとかほぉんだとか言って分かった風になっているようだ。

『……続いてはお便りのコーナー。えーっと、ラジオネーム“みこみこ”さんからのお便りで――』

 その名前を聞いた途端、赤緒はラジオをがっと掴んでルイの手を阻止していた。

「これ……私の……」

 思わぬところで自分の送ったお便りが読まれ、狼狽する赤緒にルイは落ち着き払って尋ねる。

「“みこみこ”さん……?」

「あっ、巫女なので、みこみこって……そうじゃなくって! これは聴かせられません!」

 だがこれを聞き逃せば自分自身でも聴く機会はないだろう。

 ルイから庇うように身で覆うが、それでも音声は漏れ聞こえてくる。

『“DJツナさん、こんばんはー。私は高校生なのですが、別のお仕事もしており、それに追われててんてこ舞いの毎日です。そこで相談なのですが、職場に少しだけ気になる方がいます。その方が何を考えているのかは私も分からないのですが、職場はライバルだらけで気が抜けず、もし出し抜けるいい方法があれば教えていただけると嬉しいです。何かと難しい日常なので、ふとした瞬間に何かできないかなと考えています”とのことですー。そうですねぇ、“みこみこ”さんは高校生で既に働いていらっしゃるとのことなので、職場トラブルって奴ですかねー。いやぁ、僕もこの業界に入ったのは早かったのでこういうのはあったもんですが、そういう時はとにかく! 当たって砕けろの精神ですねー。“みこみこ”さんの気になっている方がどんな方にも寄るのですが、やはりまずは想いを伝えないと話になりませんので、その辺りは積極的に――』

 そこで耐え切れずに電源をオフにしてしまう。

 愛想笑いをルイの前で浮かべていたが、彼女は鋭く気づいたらしい。

「……気になっている人って……小河原さん?」

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