尻すぼみになる言葉を受けつつ、両兵の言う露天商の下へと二人は辿り着く。
「おっ、両兵! 今日は美人を連れて箔が付いているねぇ」
「び、美人……。いや、そんなことは……」
「うっせぇよ、オヤジ。能書きはいいから用件だ。サングラス売ってんだろ。とっとと出せって……あれ? いつも売っていた奴、どこやったんだ?」
露天商の男は団扇を仰いで上機嫌に返す。
「あれなら買い手が付いちゃってね。しばらくはサングラスの入荷予定はないよ」
「ああ? そいつは困るんだよ。……んじゃあ、街まで行くしかねぇか。しょうがねぇな」
「お、小河原……」
「ん? どうした、ヴァネット」
「べ、別に難しいならいいんだ。私だって一人でも買い物くらいは……その……できるから……」
その言葉を聞いて両兵はより強く自分の手を引く。
「な、何をする、小河原……! 一人でも買い物はできると――」
「ンなツラした奴を一人で買い物に行かせられっかよ、ったく。自分がどんだけ情けねぇツラしてんのか、眼鏡屋で見とけ」
二の句を継げないとはまさにこのことで、自分の顔をまともに見られないのは昨日帰還してからずっとだ。
「……小河原、知っていたのか?」
「あン? 何がだよ」
「……その、サングラスがないと自分の顔もまともに見れないこと、を……」
「……何だ、そんな困った症状だったのか? じゃあ一層だな。一人で行かせられっかよ。てめぇはたまには他人に頼ることも覚えやがれ。……昨日の戦線だってそうだ。オレらとお前とで挟撃だったのに、自分一人で突っ走ろうとしたろ。その結果がサングラスが割れた程度でよかったものの、何かあってからじゃ遅ぇんだよ。ある意味じゃ、感謝だろ。サングラスが盾になってくれたんだよ」
「……このサングラスが、盾に……」
思ったこともなかったが、確かに。
言われてみれば、自分の人生の半分くらいは、このサングラスありきだったような気がする。
身に馴染んだ銃の所作と同じように、自分の身体というものに馴染んでいたのかもしれない。
「物の信仰みてぇなもんがな、日本にはあるんだ。例えば茶碗が割れたりとかすると不吉だとか、その茶碗が持ち主の不幸を肩代わりにしただとかな。オレは日本の風土には詳しかねぇが、そういうのがあるのはカナイマに居た頃から思い知ってる。だからサングラスに関したってそうなのかもしれねぇ。てめぇの不幸をそいつが肩代わりしてくれたんだよ」
想定外の言葉であった。
ただのサングラス、いつ割れても仕方がないものだと思っていただけにその言葉は目から鱗のようなものだ。
「……そう、か。肩代わり……ある意味ではそうなのかもしれない。今まで私がまともに見ようとしなかったことを、こいつは肩代わりしてくれていたのかもな」
「おう。そうだと考えりゃ、ちぃとばかし割れたって損な気分も薄れるだろ? ま、割れちまったことは事実だから、替えが要るっちゃ要るんだが」
眼鏡屋に辿り着いてから、両兵は後頭部を掻く。
「……しまった、オレ、眼鏡とかには縁がねぇからよく分かんねぇンだ。あっちに居た頃に、ヒンシとかにその辺聞いておきゃよかったぜ。中に入ってもオレは頼りにならんからな? その辺は覚悟しておけよ」
こくこくと頷いてメルJは眼鏡屋に入っていく。
ずらりと並べられた眼鏡とサングラスに、おおっ、と声が漏れていた。
「これが……日本の眼鏡か……」
「ああ。オレも初めて入ったが……色々あるもんだなー。色付きとかあんのか。眼鏡のレンズに色付けてどうすンだ?」
「お、小河原……! 見てくれ。これ、どうだろうか……」
自分がかけたのはピンクのフレームの小さめの眼鏡で、両兵はぷっと吹き出す。
「わ、笑うなぁ……っ!」
「いや、だってよ……。可笑し……小動物みてぇな眼鏡かけやがんじゃねぇよ、ったく。笑わせに来やがったのか?」
「……そんなつもりはなかったのに……ちょっと可愛いじゃないか」
「何か言ったか?」
「いいや! 何にも!」
不機嫌になった自分が心底理解できないとでも言うように両兵は首を傾げてから、展示されている眼鏡をかける。
「うぉっ……! 度がきちぃぞ、これ……。眼鏡かけてる奴はこんな視界なのか。全然役に立たんな」
「それは眼のいい奴がかけているからだろう。視力の悪い奴には助けになるんだ」
「……てめぇだって眼はいいだろうが。空戦人機に乗っている奴の台詞じゃねぇだろ」
眼鏡を一つ一つ確かめ、検分していく。
その度に両兵が大笑いをしたり、自分もまるで似合わない眼鏡をかけたりと悪戦苦闘する。
「お、おい! ヴァネット! このぐるぐるの瓶底眼鏡、かけてみろ。きっと似合うぜ」
「……どう考えても似合わんだろうが。……だがためしにかけてみてやっても」
実際かけると、自分の視界が完全に塞がってしまうのでまるで役に立たなかった上に、瓶底眼鏡は何だか間抜けに見えてしまう。
両兵が吹き出し、腹を抱える。
「ひぃー……! すっげぇ馬鹿っぽいぜ、ヴァネット。もうそいつに決めちまえよ」
「……馬鹿っぽいと言われて決める奴が居るのなら拝みたいくらいだ、まったく……」
そう言い返しつつもどこか頬が紅潮しているのを感じる。
何でこんなにも今日は朝から胸がときめきっ放しなのだろうか。
動悸も収まる気配がない。
サングラスが割れたせいで思った以上の精神的なダメージを受けているのかもしれない。
「それにしたって……思ったより数があるもんだな。こん中で、都合よくてめぇのかけているサングラスと同じもんがあるわけ……」
「いや、あったぞ、小河原。こっちのコーナーにある」
「あン? まさかそんな、都合のいい話――」
そこまで言って両兵は自分のサングラスと同じものが飾られているコーナーに鎮座する値札を目にして硬直していた。
「……待て。いちじゅうひゃく……十万円? 何でサングラスに十万も出さなくっちゃいけねぇんだよ!」
「……十万円もしたのか、これ」
「ジョーダンじゃねぇ! 手持ち、そんなにあったら苦労もしねぇっての」
「だが、小河原。これがないと、その……こう言うと弱点を見せるような気がして嫌なんだが、変なんだ。何だか今日は落ち着かないと言うか……」
平時の自分ならば両兵と一緒に居るだけでこんなに心を掻き乱されたりはしないはずなのに、今日ばっかりは何故なのだかずっと心を乱され続けている。
うっ、と両兵が後ずさり、待て待て、と店員を呼びつける。
「これ、もうちょっと安くはならないのか?」
「いえ、これは現品限りでして……売り切れればそこまでですので」
「そこを何とかしてくれよ! せめてゼロを一個消すくらいは……」
料金交渉に入る両兵を他所に、メルJは他の眼鏡も試してみる。
何個か試したがその中でも軽い、ピンクのフレームの眼鏡をかけて鏡の前で立ち竦む。
――自分がどんだけ情けねぇツラしてんのか、眼鏡屋で見とけ。
行き際に言われた言葉が蘇ったが、今はその言葉がちょっとだけ誇らしかった。
「……私は、こんな顔をしていたのか……」
「だーかーら! ゼロを一個消してくれって! そしたらまだ買えるからよ!」
「お客様……大変困ります……」
狼狽する店員と両兵に、メルJはそっと眼鏡を外してから振り返っていた。
「ああ、そう言えば。立花から金ならば貰っていたんだった」
「……何? 何で今までそれを言わねぇンだ!」
「いや、ちょっとだけ……お前が戸惑うのが可笑しくってな」
ふふっ、と微笑むと、両兵はむすっとする。
「……さっきの仕返しかよ。まぁいいや、買えるんならそれで行こうぜ。……オレは疲れた。勝手に買い物済ましとけ」
サングラスを買う前に、店員に耳打ちする。
「あっ、この眼鏡もその……買えないだろうか」
――帰り道は行きがけとはまるで逆で、自分が前を歩き、両兵が憔悴した様子で後ろに続いている。
「……ったく、要らん世話を掻かせるんじゃねぇっての。お陰で寿命が縮まるかと思ったぜ。十万円のサングラスなんだ。大事にしとけよ」
「ああ、それくらいは分かっている」
夕映え空を眺めると染み入って来るような光を感じる。
そんな自分の横顔に、両兵は言葉をかけるのであった。
「……やっぱ、それでこそメルJ・ヴァネットって感じだな。ガラじゃねぇけれど似合ってンよ、そいつ」
その言葉にメルJは隠し持っていたもう一つの眼鏡ケースを身体で隠す。
「そ、そうだろう! 私はこれでこそ、なんだからな!」
「おうよ。もう割るんじゃねぇぞ。……眼鏡屋って疲れるもんなんだな。ある意味じゃ勉強にはなったぜ」
「あっ、小河原……」
「何だよ、まだ何かあるのか?」
メルJは手を彷徨わせる。
「その……まだかけたばっかりでちょっと慣れないんだ。手を貸してくれないか?」
「あー、距離感とかまだ掴めねぇのか。んじゃ、しっかり掴んどけ。明日っから元のメルJ・ヴァネットに戻ってもらわねぇと困るんだからな」
しっかりと手を掴む。
きっとこんな機会は二度と訪れないのだと胸に刻んで。
「……やっぱり、何だか変だ」
「まだ変だとか何だとか言ってんのか。とっとと慣れろよ」
「いや、この感情は多分……慣れたところで収まってくれないのだろうな……」
「何だそりゃ。じゃあ慣れるまで手ぇ貸してやっから。柊神社に着く頃には慣れていろよ」
「……ああ、分かった……」
こんなにももどかしい距離も。
繋いだ手の温かさも。
何だか今朝から続く微熱感も。
何もかもが、サングラスだけの嘘だとは思えなかった。
「――で、同じのあったんだ。よかったじゃん、メルJ」
夕食の席でエルニィが言うので、メルJはいつもの自信を取り戻して言い返す。
「まぁな。これくらい、何てことはなかったというわけだ」
「なるほど。まぁボクには関係のないことかもねー。操主一人が戻ったって言うのなら、それに越したことはないし」
「今日は土瓶蒸しですよー。あっ、ヴァネットさん、サングラス買い直したんですね。前のと……同じ?」
「ああ、奇跡的に同じものがあってな。助かったところだ」
「よかったじゃないですか。あれってやっぱり、海外の製品なので高かったんでしょうけれど」
「……十万円、だったかな」
「じ、十万……。すごい値段ですね……」
「眼鏡って日本じゃ高値なんだねー。まぁ、ボクの視力は2.0だから関係ないけれど。赤緒ー、ご飯もうちょっとよそってよー」
「もうっ、いくら視力がよくっても太っちゃいますよ?」
「ボクは太らないもんねー。赤緒とは鍛え方が違うから」
いつもの夕飯の喧騒だ。
メルJは夕食を取ってから、自身の部屋に戻り、鏡の前でそっとサングラスを外す。
そうして付けたのは買っておいたピンクのフレームの眼鏡であった。
度の入っていないフレームの、小さな、それこそ小動物のような眼鏡――。
「……似あいっこない……よな? ……でも、私も多分、そういう点では……何も分かっていないのかもな」
そう言って眼鏡ケースに入れ、そっと引き出しの中に仕舞っていた。
――これは自分だけの、胸に秘めた小さな小さな一日分の秘密。
この思い出だけはきっと、誰にも肩代わりできやしないだろう。