向こうはあくまでもこの学校に赴任してきた教育実習生の体を崩さないつもりらしい。ジュリは名簿を片手にその額を小突く。
「痛ぁい……。何をするんですかぁ……」
「とぼけたって無駄よ、瑠璃垣なずな。いいえ、その手腕から各国諜報機関でも手をこまねいている、特一級の諜報員、ミス瑠璃垣と言えば、相応しいかしらね?」
「あれぇ? 何で知ってるんですかぁ?」
「……だから、とぼけるんじゃないって――」
名簿を振り下ろそうとして、その手首をぎゅっと掴まれており、このままの姿勢では自分が不格好に転がるだけだと判断したジュリは咄嗟に姿勢を持ち直す。
その一秒にも満たない交錯は、余人からしてみれば、窺い知ることもできない攻防であったのだろう。
お互いに後ずさった形になってから、ジュリは歯噛みする。
「……やってくれるじゃない……」
「何のことですかぁ? 分かんないですよぉ」
「……そのおとぼけキャラがどこまで通用するかしらね。あんた、分かっているの? ここにはアンヘルの子たちだって居る。もしものことになったら戦争よ?」
「でもぉ、戦争したくないから、ジュリ先生はこっちの身分が気に入っているんでしょう?」
「……分かった風な口を……」
「あれぇ? 怒っちゃいましたぁ? ……でも私、先生って言う職業、憧れちゃうなぁ……。いつだって生徒を導ける立場でしょう? そういう風になってみたくって、私、教育実習生やってるんですしぃ……」
「……要はお互い、戦争したくないって言う意味で捉えていいのよね?」
「うーん……どっちでもいいんですけれどねぇ? だって、キョムがどう動いたって、私、これでも対抗措置は取っていますしぃ」
「……口だけはよく回る。いいわ、こっちも納得。でも、あんたの行動自体は解せない。これは八将陣としてね。……どうやってシャンデリアのセキュリティを? 並大抵じゃないはずよ、あの場所は」
「そーれーは……企業秘密ですっ」
唇の前で指を立ててわざとらしく言ってのけるなずなに、ジュリはこれ以上の追及は不可能か、と嘆息をついていた。
「……どっちにしたって、あんたは第三勢力、私はキョム。いつかはぶつかるのは必定なのよ」
「うーん、でもそれって、今じゃないですよね?」
「……本当、口だけは回るみたいね」
だがこの学校に居て、全く尻尾を出さないなんてあるものか。
ジュリは廊下で赤緒を呼び止める。
「赤緒。ちょっとこっちに来なさい」
「な、何ですか、ジュリ先生……。言っておきますけれど、私、キョムとは絶対に……」
「馴れ合わないって言うのは分かっているわよ。そうじゃなくって、あの教育実習生、覚えはない?」
「あー……確かさつきちゃんのクラスに赴任して来たって言う、なずな先生? でしたっけ? それが何か?」
「何かって……ああ、そっか。掴ませていないんだ、必要以上の人間には……」
そもそもこの場合、赤緒はなずなの正体を知らない、が正しいのであろう。
ジュリは諦めのため息交じりに、赤緒を送り出す。
「いいわ、別に。何でもないことだから」
「な、何だかそう言われると不安ですね……。ジュリ先生、どういうつもりなんです?」
「どういうって……あ、そうだ」
閃いたものを感じて、赤緒へと言いやる。
「赤緒、あの教育実習生のこと、今日一日見張っててもらえる? できる限りでいいから」
思わぬ提案だったのだろう。赤緒は面食らったように後ずさる。
「わ、私にそんな、尾行まがいのこと……」
「そんな大げさじゃないわよ。あの教育実習生が何をやっているのか、ちょっとだけ目で追ってくれればいいだけだから。あっ、できることならメモしてくれると助かるわ」
「む、無理ですし……嫌ですよ……。だってそんなの、キョムの手助け――」
「遅れている単位一つ分とこの間のテストの点数、決してよくはなかったわよね? 赤緒」
その言葉は学生である赤緒からしてみれば特上の餌であろう。
赤緒は少しだけまごついてから、むぅと頬をむくれさせる。
「き、脅迫なんて……」
「脅迫じゃないってば、お願いなの。それに、私ならあんたの単位と点数はどうにでもできる立場なんだからね?」
「……やっぱり脅迫……」
「いいから。赤緒なら生徒だし、それに向こうからしてみてもそこまで脅威対象でもないはずだから。あんたが適任なのよ」
「て、適任って私、スパイみたいな真似できませんよ?」
「そこまでは望んじゃないわよ。ただ、あの教育実習生が引っかかるから、ちょっと手伝って欲しいだけ」
「……あのなずなっていう先生、何かあるんですか?」
「あー、うん。まぁね」
ここははぐらかしておくのは正解だろう。向こうが正体をバラしていない以上は、こちらが踏み込み過ぎるべきではない。
「じゃあ頼んだわ、赤緒。期待しているからね」
「あっ……ちょっと待ってくださいよー。ジュリ先生ー」
これで牽制の意味を取ることができたはずだ。如何に全く正体を掴ませないなずなでも、一両日中見ていれば、どこかしらで綻びは生まれるもの。
だが、もし、何もなかったとすればその時は――。
「その時は本当に、何者なのかを問い質す必要性が、ありそうね……」
「――赤緒ー、双眼鏡なんて覗いて何やってんの?」
「うわっ! マキちゃんに、泉ちゃん……かぁ。よかったぁ……」
安堵の息をつく自分にマキと泉は顔を見合わせあう。
「……怪しい。赤緒ってば何か隠してる?」
「か、隠してない、隠してなんてないってば……」
そう言いつつ双眼鏡を背中側に回したのをマキが目ざとく発見する。
「隠してるじゃん。何見てたの?」
マキにひょいっと双眼鏡を取られてそのまま彼女が視野の先を見据える。
「……あれって、中等部の教育実習生、だっけ?」
「確か、瑠璃垣なずな先生でしたわね」
「あれ? 泉ちゃんもマキちゃんも知ってるんだ……?」
「知っているも何も、男子が噂していてさ。すっごい美人の先生が立て続けに入って来たって言うんだから、もう大変」
「……すっごい美人の先生?」
「うちのクラスの八城ジュリ先生も、男子からは大人気ですのよ?」
「……そう、なんだ……」
そういう話には疎い上に満足に学校にも通えていない。そんな調子では本当に、ジュリの裏工作員としてこき使われてしまう日々になるだろう。
「……こういうの、本当は嫌なんだけれどなぁ……」
「何、これって誰かに頼まれたの?」
そこから先はさすがに言うのは憚られて、赤緒は適当にごまかす。
「えっと……瑠璃垣先生が気になるって人が居て、それで……」
「へぇー、あの先生の着替え写真でも撮ろうっての?」
「だ、駄目だよ、駄目……っ、犯罪じゃない!」
「ジョーダンだってば。赤緒って相変わらず、冗談通じないなぁ」
あしらわれているのはよく分かっているのだが、面白いように転がされている気もして、赤緒は双眼鏡をマキから返してもらう。
「……そもそも、何で中等部の先生を? あの先生は私たち、普段はお会いしませんよね?」
「あっ、うん……。何て言うのかな、あの先生がちょっとそのぉー……怪しいって言う感じで?」
「怪しい?」
マキのセンサーがピンと張ったのを感じ取ったその時には、双眼鏡を掠め取られ、彼女はそのまま実況さながらに声にしてみせる。
「もしかして、瑠璃垣なずな先生、その正体は数多の国家を股にかける、魔性の女? 創作意欲湧いてきたー!」
マキは双眼鏡片手にノートへとなずなのスケッチを描いていく。
彼女の創作意欲が湧いてしまうと、それを止める術は自分にも泉にもなく、ほとんど想像に任せた絵が描かれ、マキはノートを広げてみせる。
「どう? これ、次のマンガのヒロインのお姉さん! このお姉さんがね、主人公を導いてくれるって言う設定! 敵か味方か、その正体は……ってね!」
マキが熱く語る設定に対して、赤緒は困惑してしまう。
「ま、マキちゃんってば。そんな人、居るわけないじゃな……」
そこでジュリの存在に気づき、居ないわけでもないことに対して言葉が詰まってしまう。
「……ん? 居るわけないんじゃないの?」
「いやー、そのー……うん。私が知っている範囲では、居ない、かなぁ……?」
友人を裏切らない範囲での嘘に留めた赤緒に対し、マキはスケッチしたなずなの全身像を隈なく見やる。
「でもさー、本当スタイルいいよねー、あの先生。おっとりしているけれど、どことなく芯はきっちりある肉体美って言うか、身体に関してで言えば、すっごいバネを秘めているみたいな」
「……そうなのかなぁ? 私の目から見ると、普通の人なんだけれど」
「赤緒さんはすごい人たちに囲まれているから慣れていらっしゃるのでは? 立花さんやその他のアンヘルの方々もユニークでしたし」
「うっ……そうかもしれない……。慣れちゃってるのかなぁ……?」
疑問符を浮かべつつ、赤緒はなずなの観察を再開する。
なずなは教育実習生として生徒たちと軽く挨拶を交わしつつ、にこやかに応対していた。
「……別に変なところはない、普通の教育実習生に見えるんだけれど……」
「できた! 実は忍者! これがくのいち衣装!」
勝手に想像を膨らませたマキがなずなへとくのいち衣装を着せてアクションポーズを取らせている。
さすがのそれには赤緒も笑ってしまっていた。
「マキちゃん、さすがにそんな人は居ないと思うけれど……」
「いやぁ、フィクションの世界だからいいんだってば。昼は教育実習生であり、姉ポジション。しかしそれは世を偲ぶ仮の姿! 夜は一転、くのいちとして悪を狩る! これで決まり! 次のマンガの設定でーきたっ!」
「もう、マキちゃんは想像力が豊かなんだから」
――と、そこで追い続けていたなずなの姿が掻き消えたことに気づき、赤緒はあれ、と首を巡らせる。
「どこ行っちゃったんだろ。……あれー?」
「赤緒……」
ちょんちょん、とマキが肩を突くのでそちらを見やると、指差されていたので反対側へと首を巡らせる。
「私のこと、お探しですか? 柊赤緒さん♪」
思わず悲鳴を上げてそのまま仰け反った拍子に大きく尻餅をつく。
「痛たたた……っ。あれ? 何で? さっきまであっちの校舎に居ました……よね?」
「すごく情熱的な視線を感じたので、ぴゃぴゃーっと走ってきましたっ♪」
そんなことが可能なのか不可能なのかはともかく、こちらの観察がバレていたのだけは確からしい。
「いえ、あのその……」
しどろもどろになる自分に、なずなはぽんと肩に手を置く。
「駄目ですよぉ、そんな風に人を熱心に観察してちゃ。見つけてくださいって言っているようなものですぅー」
間延びした声音はまるでそんな審美眼を感じさせなかったが、この距離で見つかってしまったのだけは現実そのものである。
「いえ、その……っ、私、ちょっと中等部を見ていただけで……えーっと、そうだ! さつきちゃん! さつきちゃんとルイさんはどうしているのかなぁーって……」
我ながら苦し紛れの言い逃れであったが、なずなは佇まいを正して微笑みを浮かべる。
「さつきさんなら、今頃教室に居ると思いますよぉ? ルイさんは、今日は出席をしていませんねぇ。気紛れなのはいいことです♪」
「あ、そうですか……」
マキと泉に助けを求めようと視線を振り向けたが、マキは目の前に現れたなずなを必死にスケッチしている上に、泉はゆっくりと頭を振る。
「えーっとその……。なずな先生、でいいですっけ? それとも瑠璃垣先生のほうが……」
「なずなでいいですよ?」
身体ごと首を傾げたなずなに、赤緒は少し戸惑いつつも、じゃあ、と呼ぶ。
「なずな先生。あのー、最近、誰かに見られているとか、そういう感覚とかあります?」
「いいえー? 誰かが私のことを気にしているんですかぁ?」
逆質問に赤緒は窮地に立たされた形だ。
えっと、と言葉を継ぐ間になずなは微笑みかける。
「きっとその人、私のことが気にかかってしょうがないんですね! そういう熱視線は大歓迎ですよぉ?」
「いや、その……違って……」
しかしこれ以上言い訳を並び立てることもできず、赤緒はついには逃げ出していた。
「す、すいませんでしたー!」
「あっ、ちょっと赤緒! 急に逃げたんじゃ話にならないじゃない!」
マキと泉が追従する中でなずなを振り切った距離で赤緒は肩を荒立たせる。
「……追ってこない?」
「追ってこないけれど……何? 赤緒ってば本当に、やましいことでもあったの?」
「な、ないよ! ないない! ……と思う」
「後半尻すぼみじゃん。じゃあ何かあったわけだ」
「いやそれは……ないとも言えなくって……」
「嘘もつけない赤緒みたいな人間に、隠し事一つできそうにない何かを頼んだ人が居るってこと? 物好きだねー」
「それは、その……」
「いいよ、聞かないでおく。だって友達じゃん」
そう言ってくれるのが今は単純にありがたく、赤緒はため息をついていた。
「……ごめんね、二人とも」
「いいってことよ! いい素材も手に入ったしねー」
マキは今しがたの遭遇の際になずなの詳細をスケッチしていた。
あっ、と赤緒はそのスケッチを目に留める。
「マキちゃん、これってもう一枚分くらい描ける? ちょっと必要なんだけれど……」
「もう一枚? ちょっと待ってねー……ちょちょいのちょいっと! 目の前にモデルが来たら楽だねー、本当」
「すごいのはマキちゃんのほうですわ。あの数分間でこれだけの詳細スケッチを描くなんて」
「えへへー、まぁ将来マンガ家だからね!」
照れ笑いを浮かべるマキの差し出した一枚のスケッチには仔細に至るまでなずなの身体的な特徴が描かれており、自分が下手に追跡してメモを取るよりも確定的な部分があった。
「……何とかこれで……納得してくれるのかなぁ……」
――赤緒の差し出したメモに書かれている限りでは、瑠璃垣なずなはただの教育実習生とのことだったが――。
「すごいわね、このスケッチ。確かマンガ家志望の子だっけ? 観察力があるだけはあるわ。でもねー、ちょっと妄想入ってる?」
裏面には女王様姿に身を包んだジュリVSくのいち姿のなずながコマ割りされて描かれており、さしものジュリでもその想像力にはふふっ、と笑みを浮かべる。
「でもまぁ、事実は小説より奇なり、ってね。――さぁ、ここまで待ってあげたんだから来なさいよ。瑠璃垣なずな」
体育館の屋根の上で佇んでいる自分へと、なずなは白衣を引き下げたまま現れる。
「随分とおっかなびっくりって感じだけれど、そうでもないんでしょ? あんたは」
「そんなことないですよぉ? まさか体育館裏ならともかく、体育館の上に呼ばれるなんて思いもしなかったですけれどぉ。あっ、でも体育館裏に呼ばれて告白されたことなら、何度かありますねぇ♪」
「……そんな話を聞きに来たんじゃない。うちのクラスの優秀な子があんたを克明にスケッチしてくれてね。よく見ていると思うわ。体幹のバネや、それだけゆっくりしていても動き自体は素早いってメモしてくれている。これはほとんど想像って言えば想像なんだけれど……まんざらの嘘でもないんでしょ? あんたにとっては」
「買いかぶりですよぅ。私にそんな力があるように見えますぅ?」
「そっ。ないならないで――ここで倒れなさい」
屋根の表面を這うようにして跳ね上がった鞭の一撃に対して、なずなは前面にアルファーでバリアーを張り、鎌首をもたげたその一撃をいなす。
「……よりにもよって血続なんて、ねぇッ!」
跳躍したジュリはそのまま脚で抑え込もうとしたが、その時には白衣だけ残してなずなは前進し、回避している。
「避けた?」
「嘗めないでもらえますぅ? これでもまぁ……ちょっとばかしワケありで鍛えていますのでぇ♪」
「……それで空蝉の術とは、やるじゃないの」
なずなの姿がいつの間にか変容していた。
インナーに着込んだ黒とオレンジのRスーツを剥き出しにさせた相手に、ジュリは構えを取る。
「で? これからどう動く?」
「嫌ですねぇ、まるで戦うみたいに」
「……それはそうでしょうに。あんたとまずは……戦ってから、その目的を聞き出す!」
一気に距離を詰め、鞭を自分の拳とは反対方向から編み出す。
しかしなずなはその敵対距離を理解しており、後ずさった上で完全に死角であるはずの鞭の射程を読んでアルファーによるバリアーを得ていた。
「……本当、やりにくいったら!」
「それはこっちの台詞ですよぉ?」
何度か交錯し、その度に攻勢が移り変わるが、自分の鞭を相手の腕に絡め取らせたかと思うと、その直後には寸断されている。
輝くのは漆黒のクナイの刃。
「クナイ? ……まさか本当に忍者だって言うの……?」
「答える義務、ないですよねぇ?」
刃の応酬が幾度か迫り、それらは確実に自分の命脈を断とうと、鋭く薙ぎ払われる。
舌打ちを滲ませてジュリは飛び退り、その時には予め呼んでおいた《CO・シャパール》の掌の上に佇んでいた。
無論、それは相手も同じで、空間に溶けるようにして実体化した《ナナツーライト》と同じ系統の機体に乗り込んでいる。