ああ、と作木はそう言えば今日一日ずっと、節分行事のアナウンスが流れていることに気づいていた。
「そう言えば今日は2月の3日だっけ? ……うーん、一人暮らしをするようになってからちょっと無縁だったなぁ。そっかぁ……節分か」
「……セツブン、とは、何か昆虫のような響きですが、そう言った敵が現れるので?」
「あ、いや……敵って言うと違うかもだけれど、確か鬼が出てきて……」
そこまで口にしたところでレイカルが身構えていた。
「鬼? ……鬼ならヒヒイロより聞いたことがあります。とても恐ろしい存在なのだと……。しかし、鬼とセツブンに何の関係が?」
「えーっと……僕も詳しいわけじゃないんだけれど、鬼に豆をまくんだったっけ?」
こちらのうろ覚えの知識にレイカルはきょとんとする。
「……鬼相手に、豆……と言うと食べ物のですか? ……分かりません。豆で鬼が倒せるわけがないですし」
腕を組んで神妙そうに眉をひそめるレイカルに、これは買ってあげたほうが早いな、と作木は買うつもりのなかった総菜コーナーへと歩を進める。
せめて恵方巻だけでも買おうとして、その値段に硬直していた。
「い、一本で1500円……? そんなにするんだ……最近の恵方巻って……」
とてもではないが、自分とレイカル、それにラクレスの分を買うだけの手持ちはない。
一番安いのを、と探そうとする自分の卑しさが少しだけ嫌になって、作木は頭を振っていた。
「いや、逃げちゃ駄目だろ、僕……。レイカルは、太巻きを食べたことはあるんだっけ?」
「お寿司……と呼ばれるものでいいんでしょうか? ……でも何でお寿司? 今日はそんなにいい日でしたっけ?」
「いや、決まっているんだ。2月3日には太巻きを……あれ? 今年の恵方ってどこだっけ?」
調べようにも携帯電話は旧式なので新しい情報を取得するのには時間がかかる。
「……エホウ? 何なのですか、それは。新しい敵ですか?」
「いや、決まった方向を向いて……その間黙って太巻きを齧るんだ」
「……待ってください、創主様。それはみんなやるんですか?」
「あ、うん……多分、日本に住んでいる人はみんな……」
「皆が、唐突に同じ方向を向いて、丸齧りを? ……あまりに奇妙ではないですか?」
そう言われてしまえば確かに、絵面として見れば奇妙そのものだろう。
自分も節分に詳しいわけではないので、その奇妙さに今の今まで気づいていなかった。
「……まぁ、奇妙と言えば奇妙なんだけれど。うーん……どう伝えればいいかなぁ……」
「レイカルには分からないこと、でいいのですよ、作木様」
うわっ、と二人して仰天してしまう。
「……居たんだ」
「あらぁ? ずっと居ましたわよ? 作木様のお傍を離れるわけがないですわ」
「……ラクレス、こいつ……また気配を消して後ろに立って! じゃあ何なんだ! セツブンって! お前は詳しいんだろうな!」
「レイカルってば、お馬鹿さぁん……。そんなことも知らないなんて。作木様、レイカルはこの調子です。節分の詳しい説明をしても、理解できるとは思えません」
「いや、とは言っても一応は行事なんだし……」
自分が理解できるとは思えない、の部分を否定しなかったせいか、レイカルは涙ぐんでぐぬぬ、と堪える。
「な、何なんだー! 創主様もラクレスも! 知った風なことを言ってー! 創主様とラクレスのアホー!」
「ああっ! また削里さんのところかなぁ……?」
「でしょうね。あの調子です。どうせ節分の何とやらも理解できないでしょう」
「……ラクレス、わざとレイカルを怒らせた?」
「さて、何のことやら」
どうやら確信犯らしい。
作木は嘆息をついて三人分の太巻きを買っていた。
ただし一番安いものである。
「……ご無理を」
「いや、さすがに、ね。レイカルにこれまで節分の何とやらを教えていなかった僕も悪いし、削里さんのところならヒヒイロが教えてくれるだろうから、知ったら食べたくなっちゃうと思う。その時に、ないと可哀想だ」
「優しいですのね、作木様は」
「……うーん、それにしたって僕も失念していたなぁ。節分って家族と一緒なら何かと意識する機会もあるんだろうけれど一人暮らしじゃ……」
「私も詳しいわけではございません。日本の行事ですので」
「あっ、そっか。ラクレスは日本のオリハルコンじゃないから……」
「ええ。知らないこともございます。とは言え、これだけ節分、鬼は外、福は内、と言われていれば嫌でも思い知ると言うもの」
「……ゴメン。ちょっと聞くけれどあんまり節分が好きじゃない?」
「いえ、単純に喧しいと思っているだけです」
「……それが好きじゃないってことなんだと思うんだけれど……。まぁいいや。とは言え、いわしも三人分となると出費だなぁ……」
「別にいいのでは? そこまでしたところで、レイカルは恐らく一ミリも理解できないでしょうし」
「それはラクレスも、なんじゃないかな。節分が嫌いなら、何となくだけれど、理由は分かる。鬼は外って言うの、嫌なんでしょ?」
恐らくは図星だったのだろう。ラクレスはぷいっと視線を逸らす。
「……別に鬼だの悪魔だの魔女だの言われることは慣れていますが、ここまで日本のように排他的な文化には慣れ親しんでいないだけです」
要はこの一週間余りでそれまでほとんど無宗教に近い日本人が皆、揃いも揃って鬼は外、福は内と言い始めるのがラクレスからしてみれば不気味に映るのに違いない。
「……悪い意味じゃ、ないと思うんだけれどな」
「ですが、とても排他的です。少数弾圧と言ってもよろしいかと。結局は、敵を見出したいだけなのですよ。その年に、無病息災を祝うと言っても、鬼だの悪魔だの言われて、いい気分がしないだけです」
「なら、豆は買わないほうがいいかな?」
「……作木様のご勝手になされば」
思うところはあるらしい。
それでも、作木は豆を買い物かごに入れていた。
「……レイカルはどんな答えを見出してくれるのかな」
「――なるほどのう。節分が何なのか、まるで分からんがそれでも作木殿とラクレスが分かった風なことを言ったのが気に食わんので聞きに来た、と。……お主、毎度同じパターンで彼奴に遊ばれておるのう……」
すっかり呆れ返ったヒヒイロは額を押さえつつ、レイカルに、そもそもと教鞭を振るう。
「……節分が何なのか、理解しておらんじゃろう」
「えっ、虫か何かじゃないのか?」
「……これだからお主は遊ばれるんじゃろうて」
「でも、私たちもよく分かっていないのよねー。ヒヒイロ、あんたは知ってるの?」
ナナ子の問いかけに、一説に過ぎませんが、とヒヒイロは前置きする。
「季節の変わり目には邪気が生じると、古来より信じられてきた歴史があります。まぁ、単純に体調を崩す者、大病を患う者が多かったのでしょう。そこから転じて、鬼――ある種の悪霊ばらいのようなものが日本各地で散発的に生まれ、豆を撒くことで邪を払う、として成立してきた歴史があるようです。地域によっては少し異なる場合もあるようですが、大方、豆を撒き、そして豆を自分の年齢と同じ数か、あるいは一つ多く食べて、それで無病息災を願う行事とも」
「……何で鬼は豆をぶつけられると払えちゃうの?」
小夜の疑問にヒヒイロは澱みなく応じていた。
「豆撒きは“ハレの日”の象徴。そうして悪いものである鬼をはらえると考えたと思われますが、私でも詳しくはありません」
「へぇ、意外。あんたでも知らないことってあるんだ」
「節分行事は日本古来より根付いている代物。私が掻い摘んだ程度では恐らく説明できますまい。ある種共通なのは豆を撒く時の掛け声が、鬼は外、福は内、であることでしょうか」
「……うん? 何で鬼は外なんだ?」
「そりゃー、レイカル。お前、鬼なんて外にやったほうがいいからでしょ」
浮かび上がっているカリクムの当たり前だとでも言うような論調に、レイカルは眉根を寄せる。
「……いや、だって……鬼だって別に中に居たっていいだろう。まだ寒いんだぞ、外は」
「考え方次第じゃな。地域によっては鬼を信仰しておる場所もある。そのような地域では鬼も内、と言うこともあるそうじゃ」
「へぇ……じゃあ豆を年の数だけ食べるのは当たり前ってことよね? ――高杉先生」
うっ、と珍しく同席していたヒミコがうろたえる。
「いや、何を言っているのかしらねー。別に家に帰ってからでもいい話で――」
「ここに。ちょうど豆があるんですよねー。年齢の数はあるであろう豆が」
どんとテーブルの上に豆の袋を置くと、ヒミコは目に見えて話題を逸らしにかかっていた。
「あっ、そうだ! ヒヒイロ、それに真次郎、あんたたちこんなところに居るんだから、下界のお土産とか俄然興味あるでしょ? この間出張で行った、北海道の……」
「いや、俺はヒミコの年齢に興味はあるね。どうかな? ここでちょうど豆もあることだし、食っていくってのは」
削里の悪乗りに対し、ヒミコは唇を尖らせる。
「……女性に年齢を聞くのは失礼だと習わなかったの?」
「こいつは失礼。女性だとは思っていなかったな」
殴りかかろうとするヒミコを取り押さえて、小夜は豆と対峙させる。
これでも普段から顎で使われているのだ。こういう時くらい反撃しても罰は当たらないだろう。
「で、高杉先生。食べますよね? 豆」
「あっ、そうだ。私、穀物アレルギーで……」
「この間ピーナッツ食べてましたよね?」
ぐうの音も出ないとはこのことなのだろう。ヒミコは珍しくしゅんとする。
「……その、今はお腹いっぱいで……」
「さっきラーメン食べてもまだお腹空いてるとか言ってませんでした?」
「それはー、その……甘いものなら別腹と言うか……」
「高杉先生も諦めたら? 小夜、ここじゃどうしたって年齢分を食べさせるつもりなんだし」
「えーっと……私、あなたたちにそんなに悪いことしたっけ?」
「自覚ないんですか」