何回目か分からないリテイクを繰り返して、さつきは嘆息をついていた。
「……そもそも、別にいいんですけれど。私の都合に巻き込んじゃっていますし……」
「何を言っているの、さつき。私もあのクラスの一員でしょう?」
「だ、だからぁ……ルイさんは一歳年上なんですってば……」
がっくりと肩を落としたところで、お茶請けのせんべいを頬張りながら居間へと入ってきた南はぎょっとする。
「えっ、何……三人で雁首揃えて……。何か始まるの?」
「あっ、南さん。その……やっぱり変ですかね……」
「いや、変も何も……。ルイ、あんたも何やってるのよ」
「分からないの? ロミオよ」
「ロミオ? えっとー……何のこと?」
当惑する南にさつきは事の次第を説明していた。
「その……私、部活には入らないようにしていたんです。柊神社のお仕事もあるし、アンヘルの職務もありますから」
「あ、うん……。それで?」
「ですけれど……何だか誰かさんのせいで、その……演技力があるって見初められちゃって。演劇部の人たちに」
暗に南にこれまで様々なところに連れて行かれて様々な無理難題を押し付けられてきた結果として身に着いた、と言っていたのだが当の本人はあっけらかんとしている。
「あら? じゃあ演劇部に入るの?」
「いえ、そうもいかないですし……。諦めてもらおうと思ったんですけれど、一回だけ、そのー、体験入部でいいからやってみないかって……お芝居……」
「なるほどね。ロミオとジュリエットのわけか。おっ、茶柱」
ようやく得心した南は湯飲みの中に茶柱を発見しつつ、せんべいを齧る。
「でも、何でルイまで? さつきちゃんが羨ましかったの?」
「馬鹿言わないで、南。私は演劇部なんて端から興味はないけれど、さつきに泣きつかれたのよ」
「……まぁ、大半は間違っていないですけれど。その、私、いきなりその……演劇のヒロイン役とか言われてもよく分からないので、相手役をやってもらおうと思いまして」
「んじゃあ、何でエルニィ? あんたは関係ないでしょうに」
「むっ、失敬だなぁ、南は。こういうのには監督役が必要でしょー? まぁ、それに、シェイクスピアの古典文学、ロミオとジュリエットをさつきがやるなんて明らかに面白そ……いいや、とても大変そうじゃないか」
「……立花さん、今面白そうって言いましたよね?」
「言ってない、言ってないってば。ボクは善意で協力しているだけ。ルイもそうでしょ」
「……まぁね。それにしても、ロミオの役って面倒ね。こんなの簡単にジュリエットを連れ出して、他所の国に逃げて行けばいいじゃないの。じれったいわ」
「まぁ、それが許されないから悲劇譚なわけなんだけれどねー。今も愛される理由ってのもその辺だろうし」
「そもそもロミオもロミオで女々しいのよ。目の前で愛する人が死んだから自分も死のうなんて」
何だかロミオとジュリエットの根幹を揺るがすようなことをルイは突っ込んでいる気がするが、それへの言及はよしておく。
「でも、諦めてもらうつもりでやるにしては相手役も用意するなんてさつきちゃん、何だかんだで部活やりたいんじゃない?」
「い、いえっ! これ以上ご負担をかけるわけにはいかないですから……!」
「別にいいのに。ねぇ、エルニィ」
「まぁ、個人の自由って奴だからねー。さつきが困るって言えば困るんだろうけれど、それでも学校に行くのを止められないのと同じように、部活に入るのをやめろなんて言う無粋な真似はボクにはするつもりもないし」
「……うーん、でもまぁ、トーキョーアンヘルの責任者として見れば、もしもの時に部活に入っていて、って言うのもないわけではないんだけれど、その辺まで雁字搦めにしちゃうと、私たちだって立派な仕事ってわけでもないし」
腕を組んで呻る南を他所にルイはぼそぼそとロミオの台詞を呟く。
「どうして君はジュリエットなんだ……。どうしても何も、相手がその名前だからでしょう。意味が分からないわ」
「と、とにかく! 私はその……アンヘルの操主としての職務に差し支えがあるのなら、やめておきたいんです……」
「んー、でもそこまでの強制力もないって言うか……さつきちゃん自身はどうしたいの? その演劇部の人たちのこと、迷惑だと思ってる?」
「そ、それは……。私はその、正直あんまり人前に出るのが得意じゃないですし、演劇なんてこれまでやったこともあまりないので」
「別にいいんじゃないの? さつき、これで何だかんだで上がり症なところもあるでしょ。直す面じゃ演劇って言うのはちょうどいいし」
「で、でも……! 演劇なんて、私にできるのかどうか……」
「何でもやる前に決めつけちゃうのもよくないわよ? 演劇かぁ……。私からしてみればあまり縁はなかったわねぇ」
「南、演技とか得意じゃないでしょ。南米でだって、交渉事に何回も失敗してきたクチじゃないの」
「失礼ねぇ、ルイ、あんた。これでも泣きの演技に関して言えば百戦錬磨なんだからねー」
「どこがよ。何があっても眉一つ動かさないのが南でしょ」
むくれる南はしかし、演劇部への入部に関して言えば反対のスタンスではないようである。
「でも、部活に入るだの入らないだのは結局のところ個人の話だし、別に私たちからしてみれば止める言い分もないのよ? さつきちゃんのやりたい方向でいいと思うけれど」
「……私の、やりたい方向……」
「第一、こうして断るためにわざわざ台本を持って演劇の練習をしている時点で、ちょっと興味はあるんでしょ? さつきは」
エルニィに図星を突かれてさつきは戸惑っていた。
「……でも、いいんでしょうか? だって、操主としても立派とは言えないのに……」
「誇りを持っていいと思うわ。さつきちゃんは自分が思っているよりもずっと、しっかりしているんだから」
南の鼓舞を打ち消すかのようにルイはふんと鼻を鳴らす。
「弱気なのは相変わらずだけれどね、さつきは」
「も、もう、ルイさんってば……。でも、演劇部なんて、私、ガラじゃないって言うか」
「何言ってるの。チャレンジできる時にチャレンジしないと、もったいないわよ? そうやってチャンス逃して、気が付いたら時だけが経っていたって言うのなんてザラなんだから」
「さすが、南が言うと説得力が違うなぁ」
エルニィが茶化すと南が拳を振り上げる真似をする。
何だかそれが可笑しく、さつきはくすっと笑っていた。
「……笑えるんなら、いいんじゃない。前向きに考えるのも、悪くないと思うわ」
「そうそう。さつき、ずっと駄目な理由ばっかり探しているけれど、演技自体はノリノリじゃん。自分が輝ける場所、持っておいて損はないと思うよ?」
二人分の後押しを受け、さつきは改めてルイと向き合う。
「ルイさん。ロミオ役、お願いできますか?」
「何? 本当に演劇部に入るの?」
「いえ、そのー……どっちにしたところで、自分のできること、やってみたいんです。それが操主の道であっても、演劇の道であったとしても」
「殊勝な心がけね。でも、まぁいいわ。暇潰しにはなりそうだし」
さつきは深呼吸を一拍挟んで、台詞を最初から読み直していく。
「じゃあここの……互いの家が反対する中で、夜に出会う二人のシーンを……」
「……待って、さつき。これって俗に言う逢引きのシーンよね?」
何だか改まって言われてしまうと照れてしまうが、さつきは首肯する。
「え、ええ、まぁ……」
「……逢引きってどうやるのが正解なの?」
思わぬところでの奇襲めいた言葉にさつきは頬を紅潮させる。
「し、知りませんよ……そんなの……」
「うーん、ボクも分かんないなぁ。南、分かる? 大人でしょ?」
「あのねぇ、エルニィ……。逢引きなんて今の世の中、そうそうないんだから。しかもロミオとジュリエットと言えば、悲劇の物語よ? お互いの家が睨み合っていてそんな中で二人は愛を深めていくお話なんでしょ? 確か。そんなの、なかなか思い浮かばないってば」
「要は南にはそういうロマンスがなかったってこと?」
「……まぁね。そんなことがあれば今頃未来も変わっていただろうし」
「なぁーんだ。じゃあ誰も分かんないわけじゃん。ルイ、適当でいいんじゃない?」
「……適当って言ったって、どうすれば正解なのよ」
「台本通りに行けばいいと思うよ?」
ルイは顎に手を添えて神妙な面持ちになる。
「……そもそもロミオは男よね?」
「あっ、でもその辺はいいらしいです……。何だか女性が男役をやるのもありとは言ってらっしゃったので」
「ああ、なるほどね。それは盛り上がるわ」
南の同調にエルニィはそう? と懐疑的だ。
「よく分かんないけれど、それって日本じゃ盛り上がるんだ?」
「……つまり、男のつもりでやれってこと?」
「まぁ、それでいいんじゃないの? ルイってガサツだし、男っぽいじゃん」
「それはあんたにだけは言われたくないわ、自称天才」
「まぁ、ボクがやってもいいけれど、多分ボクには才能ないよ? ルイのほうがまだあるんじゃないかな」
「……とのことなので。ルイさん、お願いします」
何だか承服し切っていないルイへと懇願すると、彼女は致し方なしとでも言うように肩を竦める。
「そこまで言われちゃあね。やるしかないみたいだし」
「でも、ロミオとジュリエットかぁ……。いや、何だかんだで全女子の憧れよね、王道で」
ため息をつく南に、エルニィが小首を傾げる。
「いや、南にだけは言って欲しくない台詞かも……。南って女子だっけ?」
「……あんたってば。まぁ、もう女子の年齢ではないかもしれないけれど」
「いや、そういう意味だけじゃなくって。南に女子っぽいところなんてある?」
「言ったわね、あんた!」
南とエルニィがお互いに追いかけっこに入るのを視野に入れつつ、さつきはルイへと示し合せる。
「いいですか? ルイさん。ロミオの台詞そのまま言ってくださっていいですから。アレンジとかはなしでお願いします」
「……いいけれど、面白くないわよ? アレンジがないと」
「駄目ですから! 下手なアレンジは演劇には逆効果なんです!」
「……ふぅーん、詳しいのね、さつき」
何だか墓穴を掘ったようでさつきは視線を右往左往させる。
「……とか、よく言われてますんで」
声優の経験や他にも様々なところで演じることも少なくはないことは言えない。
「……まぁ、いいわ。えーっと、“ジュリエット、君はどうしてジュリエットなんだ”。……当たり前のことよね?」
「いちいち疑問を持たなくっていいですから! ……えーっと、じゃあ行きますよ。コホン。……“ロミオ、どうしてあなたはロミオなの”」
「……どうしてもこうしても、それは名前だからとしか言いようがないわよ」
「ルイさん! 素に戻っちゃ駄目なんですってば!」
「……そんなことを言われても、まともな神経ならなかなか難しいわ。当たり前のことを言い合っているだけなんだし」
「それが演技なんですってば……。しっかりやってくださいよ」
「うーん……やっぱルイじゃちょっと荷が重いのかな?」
「そうねぇ。ルイ、他の役をやってみたら?」
「他の役って言っても、私、ジュリエットの役なんて嫌よ。こんな弱い女の役」
そこは強気なルイの性格上、演じることさえも難しいのだろう。
「じ、じゃあその、ロミオのほうに仕える騎士の役でもいいんじゃないでしょうか」
「でもそうしちゃうと、相手役不在になっちゃうよ?」
当たり前の帰結にさつきが頭を悩ませていると、そうだ! と手を打ったのはエルニィであった。
「せっかくなんだからさ。男に男の役をやってもらうといいんだってば!」
そう言うや否やエルニィは軒先まで出て屋根の上へと呼びかける。
「両兵! 居るんでしょー!」
その呼びかけに両兵がにゅっと顔を出す。
「……ンだよ、立花。まだメシにゃ早ぇだろ」
「じゃなくって、演劇の練習。両兵がロミオ役ねー」
「演劇ぃ? ……何だってそんなもん」
「さつきちゃん、演劇部に勧誘されたんだって。それでその練習ってわけ」
「……黄坂、お前、承服したのか?」
「だってそこは個人の自由でしょ? どれだけトーキョーアンヘルって言ったってね」
「……まぁ、な。四六時中アンヘルのメンバーだからって気ぃ張れとは言えねぇし」
「だから、両。今はさつきちゃんに協力してあげて」
台本を差し出された両兵は唇をへの字に曲げて当惑している様子であった。
「……勘弁してくれよ。演技なんてオレ、マジにやったことねぇぞ」
「軍部相手に何回か演技かましたクチでしょうに」
「そりゃー、お前、生き死にがかかっている時の演技とそうじゃねぇ時の演技ってのは違うだろうが。大体、何だこりゃ。ロミオとジュリエットぉ? ……おいおい、マジに何なんだよ。こんな手垢の付いた演劇かよ」
「でも、知らないわけじゃないんでしょ?」
「……まぁな。いくら小退でもこれくれぇは知ってらぁ。……ただ、オレに演技なんてできると思うのか、てめぇら」
「無理そうだね、まずもって」
「そうねー……両、あんたまずはそのゴキブリみたいな性格を直さないとどうしようもないわ」
エルニィと南の苦言に対し、両兵は渋面を突きつける。
「勝手なこと言ってくれやがって、てめぇら、覚えておけよ……。えーっと、じゃあオレがロミオの役ってことか。さつき、台本通りでいいんだよな?」
「あっ、うん……。そう……」
「うん? どったの、さつき。お腹でも痛いの? 急に小声になっちゃって」
察知したエルニィの言葉にさつきはまごついてしまう。
「いや、だってその……おにい……じゃない。小河原さんが相手役だと思うとその……緊張しちゃうって言うか……」
「まぁ、数少ない男だしねー。五郎さん……は買い物だし、友次さん……はまた諜報? あの人も飽きないわねぇ」
「……ま、結局こんなもんは台本通りに行けばいいって話だろ? あーっと、じゃあこうか? “ジュリエット、どうして君はジュリエットなんだ”」
「あぅ……そのぉ……」
「ん? 今度はさつきが何も言えなくなってるじゃん。演劇部に入るんじゃないの?」
「いや、その……」
正直に言って真正面から両兵の顔を見られないのだ。
しかもよりによって愛の言葉を囁かれるなど――まるで想定外が過ぎる。
「おーい、さつき。これ、やンねぇとどうしようもねぇんだろ? じゃあとっとと済ませようぜ」
「う、うん……。えっと、“ロミオ、どうしてあなたはロミオなの”……」
「さつき、何だか今までよりもカタいし。そんなんじゃ、演劇とか言っている場合じゃないと思うけれど」
指摘されてもどう直せばいいのかまるで分からない。
それくらい、頭が真っ白になってしまっている。
「うーん……やっぱり演劇の練習は諦めちゃう? だってこれじゃ、まるで練習にならないし」
「い、いえっ! でも私は……私は……」
そのまま小さくなってしまう。
自分は結局、どうしたいのか。
ここで言わなければ恐らく、後悔することであろう。
一呼吸挟んでから、さつきは自身を鼓舞するために頬を叩く。
「……やります。演劇部、入ってみたいですから」
「……いい眼になってきたじゃねぇか。じゃあ、続けるぞ、さつき」
「……はいっ!」
「――ただいまぁ……って、あれ? みんな、どこ行っちゃって……」
赤緒が五郎の買い出しに付き合って柊神社の扉を潜った頃、居間から熱のこもった声が漏れ聞こえてきてハッと耳を澄ます。
「ロミオ! どうして……! ねぇどうして! どうして……死んじゃうなんて……!」
さつきが熱の籠った声を放つのを、南とエルニィはじーんと感動して拍手を送っている。
「……まさかここまでになるなんてね……」
「うんうん。ボクらも鼻が高いよ……」