「あれ? おかしいですか? ……確かに柊神社はペット禁止になっちゃいましたけれど、名前を付けるくらいなら……」
さつきは微笑ましいようにフェレットに負かされていく赤緒たちを眺めている。
自分はしかし、《バーゴイル》の生体部品としての一生を終えるであろう小動物に、下手な感慨を浮かべないようにしていた。
きっとそれは、エルニィとて分かっているはずだ。
ならば今の行動は、分かっていてのものだとすれば……。
「あー、うん……。勝てない……」
「どう? これでフゥ君の有用さを証明できた?」
「……しかし、立花。世の中にはそんな賢い動物なんて居るのか? ……お前が答えを教えているんじゃないだろうな?」
メルJの疑いの眼差しにフェレットはつぶらな眼を返すのみである。
「失礼だなぁ。フゥ君は自分で考えて、それで答えを出してるんだから。ボクがズルしているみたいに言わないでよね」
「でも立花さん。この子、ちょっと賢過ぎなんじゃ……」
「人間の言語パターンや思考パターンくらい、なんて事はないって証なんだってば。フゥ君ー、赤緒もメルJも嫉妬ばっかりで嫌だねぇ」
やれやれ、とエルニィが肩を竦めると、フェレットも同じような仕草をしてみせる。
「……私、今この子に馬鹿にされた気がするんですけれど……」
「……奇遇だな。私もだ。立花、やはり仕込んでいるんじゃないのか?」
「嫌だなぁ、二人とも。大人げないんだから」
「でも、こんなに小さいのに、賢いんですねぇ……」
クッキーを差し出した赤緒に対し、フェレットは鉛筆で紙に「ありがとう」と書きつける。
「わっ……! 反応してくれた……」
「そりゃーするでしょ。賢いのは何も計算だとかそういう話だけじゃないんだから」
「へぇー……でもこの子、ずっとうちでは、見れないですよ」
「大丈夫だって。あと一晩で返す当てはあるから」
「……野に話すのは駄目ですよ? 日本の動物じゃないんですから」
「分かってるってば。ちゃんと、預かってくれる人は探してあるから」
エルニィは赤緒たちの疑念の眼差しを掻い潜りつつ、フェレットの身体を撫でている。
黄金の豊かな毛並みが光を反射していた。
両兵はその姿をじっと見据えていたせいであろう。
不意に目が合ったのに対し、瞬時にエルニィの陰に隠れたフェレットを彼女は匿っていた。
「おっと! 両兵ー、そんな肉食獣みたいな眼差しでフゥ君をいじめないでよねー」
「そうですよ。小河原さん、この子まだ小さいんですから」
「いや、小さいったって……」
いや、それ以上は言えまい。
「小河原、何かあるのか?」
悟ったメルJだが、両兵は結論を先延ばしにしていた。
「……いいや。立花、そいつ、当てはあるんだろうな?」
「心配しないでよ。フゥ君はもう再就職の伝手くらいはあるんだからねー」
――全員が寝静まってから、エルニィは自分の布団に入れていたフェレットを起こしていた。
いや、彼はもう知っている。
自分の運命くらいは。
「……嫌だな、赤緒たちにはこういうの、知らせたくないって思ったんだけれど。一人で抱え込むのも結構キツイや……」
エルニィはフェレットを抱えて柊神社をそっと出ようとして、背後から声を投げられていた。
「どこ行くんだよ、立花」
「げっ、両兵……」
「そいつ、野に放つのは駄目だって、柊も言っていたろうが」
「……両兵は多分、南からもう聞いているよね? 生体パーツだって」
「ああ、聞いた。その上で、お前に問い質してぇンだよ。そいつの生きる道は、もうほとんど残されてねぇぞ。キョムに利用されて……オレらが知らないうちに殺しちまうか、それとも目に見える範囲で……その命をどうこうするかだけの話だろ」
「……分かっていて、判断はボクに投げてくれているんだ。……何だかんだで両兵は優しいじゃん」
「アホか。オレはキョムに温情与えてやるつもりなんてねぇ。……そいつが《バーゴイル》の生体部品になるくらいなら、オレがヨゴレくれぇは引き受けるって言ってンだよ」
「……やっぱり優しいじゃんか。ボクじゃ、始末できないからって言うんでしょ」
何故だろう。自分でも制御できない気持ちの発露に――肩が震えていた。
「……立花、辛ぇんなら、無理なんて……」
「無理じゃないよ。ただ……そうだなぁ……。ボクも何だかんだでお人好しってことかも。この子が多分、シャンデリアで入手されたボクの生体データを基に改造されたんだって、一目で分かっちゃったんだ。だから、こんな……らしくもないことをしたのかもね。馬鹿じゃん、だって……この子の生きる道は、もうないんだよ? ……あのまま……キョムの実験施設で、《バーゴイル》の生体頭脳になっていくか、それとも他の使い道で……死ぬまで酷使されるか……」
精神は制御したつもりだ。
悲しみなんて、余計な感情なんて持たないつもりだった。
だって言うのに――頬を伝う熱いものを止められない。
「……立花」
「馬鹿だよね、ホント、さ……。この子が自分に見えちゃって……それで引き取るなんて……。ただの賢いだけの培養頭脳だ。人機に命令系統を飛ばすだけの……もう兵器なんだよ、この子は。何が自分と同じなんだか……それってエゴじゃんか……」
境内へと友次の車が停まる。
つまり、もう時は来たということだろう。
「……立花博士。こちらへ」
「嫌だ……っ。……あれ、何で……? 引き渡すつもりだったのに。……ボクってば、何言って……」
「立花博士……。柊神社では……アンヘルではこの子は生きられません」
その残酷な運命に、抗うだけの言葉が自分の中で欲しかったが、それも今は皆無。
だから、震えるばかりの手を――両兵が取ってくれたのが、意想外で振り返っていた。
「……立花。安心しろよ。いくらこのオッサンが……アンヘルがどうしようもなくったってもよ。こいつの人生……いや、人生ってのもおかしいが、もう人みてぇなもんならそうだろ。なら、こいつの生き方を預けようぜ」
「この子に……生き方を預ける……」
「そうだろうが。オレらじゃ、こいつの生き方までは縛れねぇンだ。ならなおさらだろ。……いい顔で、送ってやれよ」
その言葉が、自分の堪えていた最後の一線を超えさせていた。
エルニィはフェレットを抱きかかえ、何度も頭を振る。
「嫌だ……! 傍に……居させたって邪魔じゃないはずじゃんかぁ……」
「ですがこの子は、キョムに運命を狂わされた子です。安心してください。立花博士になら、きっと分かるはずです。この子の、これからが……」
「立花。もう渡せ。あんまし時間かけてっと他の連中も起きてくる。別れが辛ぇのは、何もてめぇばかりじゃねぇはずだ」
「分かってるんだ。分かってるんだけれど……!」
嗚咽を漏らす。
それでも自分の中の、どこか理性的な部分は友次へと、フェレットを差し出していた。
「……きっと彼は、立派に生きますよ」
やめて欲しい。そんな言葉、虚しいだけだ。
友次の車が遠ざかっていく。
その音が止むまで、エルニィは顔を上げることさえもできないでいた。
「立派だなんて……詭弁だ。そんなの……大人の言い草じゃんか……」
それでも、送り出すだけの言葉は、今は持たなかった。
『――自称天才。聞いてる? 何だかさっきから上の空だけれど』
「あ、ああ、うん。聞いてるよ。キョムの研究施設への攻撃命令でしょ」
『……あんたが撃墜されたら私が困るのよ。とっとと命令書にサインを返しなさいと矢の催促』
「分かってるってば。えーっと、命令書は……っと」
そこで手を止める。
アンヘルよりもたられた命令書の末尾には拙い鉛筆文字によるサインが記されていた。
『……どうしたの? 降下前に命令書にサイン。分かっているでしょ』
「ああ、うん。いや……その、さ。……嬉しいもんだね。約束を、守ってくれたって言うのは」
『……命令書は読んだわ。とっととサインしなさい、自称天才』
きっと、ルイも目を通したのだろう。
そして伝わったはずだ。
自分の想いは。
――命令書の末尾には、丸みを帯びた鉛筆文字での「ありがとう。行ってらっしゃい」。
「……半分冗談だったんだけれどなぁ。再就職先なんて。まさか上司になって現れるなんて、聞いてないぞー、フゥ君。……でもまぁ、よかった。また君に、会えるかもしれないんだから」
だから、今は。
ただ前だけを向こう。
命令書にサインを返し、エルニィは降下ポイントを見据えていた。
「さぁーて! じゃあ行こうか! ルイ!」
『……うるさくしないで。いつもの作戦でしょ』
「おっと……忘れるところだった。サインだけじゃなくって……」
末尾にはこちらも直筆での「ありがとう、行ってきます」を――。
返答して、エルニィはフッと笑みをこぼしていた。
「生きていてくれるんなら、それでいい、か。何だかとても……ささやかな、喜びだなぁ。でも、送り出すだけの言葉は、返答できた。なら、それってさ。とっても……いい未来に違いないんだから」
今だけはそれに勝るもののない喜びだ。
ならば示そう。
贈る言葉だけに過ぎなくとも、彼は生きていく、生きているのだ。
自分たちの明日をかけるのに値する――これからのために。