JINKI 172 絆の二重奏

 白と黒の世界に降りて、その度に弾けていく音階を指先で爪弾くと、心まで跳ねてくる。

 理由もよく分からぬままに、音楽だけが自由な事実だけは分かる。

 そうしていると、音に溶けていくようで心地いい。

 自我なんて大雑把ものは、音楽を前にすれば何もかも解けていくばかり。

 そこまで刻んだところで、音楽室の扉が開いて自分の世界から遊離していた。

「あれ……ルイさん。ここにいらっしゃっていたんですか」

「さつき。何? どうかしたの」

「いえ、さっきから音楽室からピアノの旋律が聞こえてくるから、とてもいい音階だったので、誰が弾いているんだろう、と思いまして。誰か居たんですか?」

「いいえ。私しか居ないわ」

「……って言うことは……今の、ルイさんが?」

 信じられない心地で問い返すさつきにルイはむっとしてしまう。

「悪い? 私にピアノが弾けて」

「いえ、悪くはないですけれど……ちょっと意外だったって言うか……」

「音楽はいいものよ。何者にも邪魔されないって言う点でね。ピアノなんて学校にあるなんて知らなかったけれど」

「あっ、それですけれど、ルイさん、この学校に通うのって正式に決まったんですか? それもアンヘルの決定で……?」

「そこまで何でもありな組織じゃないわよ。私が着ているのはさつきの制服だし、この学校にも“この年齢なら通うもの”として通っているだけだからね」

「そ……っ、じゃあ正式なものじゃ、ないんですね……」

 少しだけしゅんとしてしまった自分に対し、ルイは顔を覗き込んでくる。

「……さつき。ゴミ付いてる」

 息がかかる距離まで迫ってきたルイが額に付いたゴミを払う。

 相変わらず、無頓着なのだから、とさつきは肩を落としていた。

「……でも、意外ですね。弾けるなんて」

「そんなに意外意外って言うものじゃないわ。カナイマにもあったもの、これと似たようなものが」

「南米のアンヘルに、ですか? グランドピアノが……?」

「そうね、あれは晴天で……格納庫に収まっているものをひとまず出しておこうって言う風に、なった時だったかしらね。アンヘルの格納庫って前にも言ったように色々なものがあるから、たまには天日干ししないと湿気とかで駄目になっちゃうって言うので、そういうつもりで干したんだろうけれど……。誰も、あんなものがあるなんて思いも寄らなかったんでしょう」

「あんなもの……ピアノがあったんですか?」

 ルイは指先で鍵盤を弾いて、リズムを作り出して見せる。

「みたいなもの、よ。こんな立派なものじゃなかったけれど、それでもあの時……音楽は自在なことだけは、私でも分かったし、それに、青葉がね。あの時、ああ言ってくれなかったら、私はこの日本に来てピアノと出会っても弾くことなんてできなかったでしょうし」

「青葉さん……。その、南米の話でよく出てくる方ですよね。何があったんですか?」

 ルイは音楽室の窓の外、暮れかけた夕焼け空を眺めていた。

「……始まりは、ほんの些細な、本当にちっぽけなことだったわ」

 ――今日の分の授業が終わり、青葉は教材を整えて自室へと向かう途中で、格納庫で掃除を行っている整備班を目に留める。

「あっ……またやってる……。アンヘルの格納庫って色々あるんだなぁ……」

 とてとてと歩み寄っていくと掃除用具に身を固めた川本が汗を拭っていた。

「今日はよく晴れているし、今のうちに掃除しておいちゃおう。グレン、その大き目の荷物はこっちに持って来て。古屋谷はそっちの細かいのを集めておいてくれないかな。それにしたって……熱帯ってのはこれだからなぁ」

「あの……」

 控えめに声をかけると川本は仰天してこちらへと振り返っていた。

「何だ、青葉さんか……。どうしたの? 今日は《モリビト2号》の実地訓練は済んだはずだけれど」

「いえ、そうではなく……。これ、大掃除なんですか?」

「ああ、この土地の気候じゃ、なかなか天日干しってできないから。晴れていたと思ったら、雨が降るのなんて日常茶飯事だし、せっかくの晴天だからね。乾かさなくっちゃいけないのを探っていたんだ」

「へぇ……色々あるんですね。あっ、これって太鼓ですか?」

「ああ、うん。南米でも音楽はあるからね。日本から持ち込まれた文化とかもたくさん残っているし、こういうの大事にしておけって親方が言うからさ」

 頬を掻いた川本の視線の先には、大荷物を抱えたグレンが布のかけられたものを中心に運んでいく。

 他の整備班に比べても一回り背丈の大きな彼だけに、荷物はどれもこれも大仰であった。

「あれ……? これって……」

 青葉が布のかけられた荷物の周りを歩んで、その形状を問いかける。

「どうしたの? 見覚えがあった?」

「いえ、これって多分……ピアノじゃないですか? 大きさもそうだし、形も……」

「えっ、ピアノなんてあったんだ。……まぁ確かに日本人集団だから、ピアノくらいはあったっておかしくはないか」

「布、取りますか?」

 グレンが尋ねてきたので川本が首肯する。

 取り払うと埃が舞ってつい咳き込んでしまったが、その形状は間違いなくグランドピアノそのものである。

「懐かしいなぁ。音楽室とかにあったよね?」

 川本は興味深そうな視線を注ぐ。

 青葉もまさか日本の反対側に来て、こうしてピアノと巡り合えるなんて思いも寄らない。

「……あの、弾いてみてもいいですか?」

「青葉さん、弾けるの?」

「えっと……音楽は苦手じゃないんです。音階通りにリズムを刻むって言うのは、説明書通りに作るプラモとかと通じるものがあって……!」

 こちらの発言に熱がこもっていたせいだろう。

 川本は僅かに引いた様子で、なるほどと納得する。

「じゃあ、弾いてみようか」

「えーっと……調律とかはいいのかな……。ひとまず確か……ここが、ドで……」

 指先がピアノの鍵盤を爪弾いていく。

 弾いた曲はこうした場合の定番である「ねこふんじゃった」であったが、整備班から歓声が飛ぶ。

「うまいうまい! へぇー、ピアノまで弾けちゃうんだ、青葉さん」

「いや、そんな大したものじゃないですけれど……」

 それでも褒められるのは悪い気がしない。

 整備班に囲まれて、青葉は単調なリズムの曲を選んで弾いていく中で、ふと、音階に乱れが生じているのを発見していた。

「あれ……ここの音、ちょっと鈍いかも」

 何度か鍵盤を押すも、中に何かが詰まっているようで掠れた音しか出ない。

「どれどれ……? あっ、確かにこの部分だけちょっと異常があるなぁ……直せる人……は居ないよね」

 ピアノの調律や修復の心得がある人間など、恐らくはアンヘルには居まい。

 さすがに諦めて仕舞うべきか、と考えていた人々へと、南が声をかける。

「何ー? 何のお祭りー?」

「南ってば、騒いでいたらすぐお祭り認定するの、やめれば?」

「何よぉ、ルイ! お祭りなら踊らにゃソンソン、でしょ! で、何、みんなでしょぼんとしちゃって。何かあったの?」

「えーっと……南さん。ちょっとこのピアノの調子が悪くって……」

「あーっ! ピアノじゃないの! へぇー、こんな立派なのあったんだ? どれどれ……?」

 南が指先で爪弾いていくのは今まで自分が弾いていたのとはまるで異次元の音楽で、青葉は仰天してしまう。

「……南さん、ピアノ弾けたんですか……?」

「えっ、そりゃー、弾けるでしょ。でも、この子、ちょっと調子悪いわねぇ。高い音階が出ないようになっているし」

 何だか先ほどまで「ねこふんじゃった」で調子づいていた自分が恥ずかしくなってくる。

 南はピアノに潜り込んで、何やら細やかな作業を行っていた。

「み、南さん……? もしかして、直せるんですか?」

「うーん、工具次第かな。直せないこともないけれど、だいぶ古びちゃっているから」

「で、でも直せるんなら直しましょうよ。せっかくのピアノですし……!」

「うんじゃ、これ、ヘブンズのほうで預からせてくれない? ここで直すってなるといつスコールに降られるか分かんないからね。私らのほうで部品とか取り寄せるわ」

 思わぬ提案に整備班共々、南の言うままに任せてしまう。

 ルイが《ナナツーウェイ》を稼働させ、グランドピアノを引き上げていた。

「ルイー。落としちゃ駄目だからねー」

『分かっているわよ。南の雑な仕事じゃないんだから。落としなんてしないわ』

「どうなんだか……。あれ? どったの、みんなして。狐につままれたみたいな顔しているけれど」

「い、いえその……ちょっと意外で。南さん、ピアノをどうこうするとは思えなくって……」

「むっ、青葉ー、それって私にピアノだとか似合わないだとか思ってる? まぁ、我ながら少女趣味だとは実感しているけれどさ。これでも女の子なんだからねー?」

『女の子、って歳でもないでしょ』

「あっ、こらー、ルイ! それ言いっこなしでしょーが!」

《ナナツーウェイ》が移送するのを青葉は南の背に自然と続いていた。

「……南さん、これ、直したらどうするんですか?」

「うーん、そうねぇ……。まぁ、直せたら一曲、みんなに披露でもしましょうかね。高い音程が出ないとどうしようもないし、それに、この子だってあのまま格納庫で朽ちていくなんて可哀想でしょ?」

 南のどこか過去を顧みるかのような瞳に、青葉は思わず問いかけていた。

「……過去に……誰かに習ったことでもあるんですか?」

「あ、うん。分かっちゃうか。まぁ、その人にね。ピアノやら人機の操縦やら……器用な人だったから。何かとお世話になったのよね。音楽って言うものを信じている人だったからヘブンズじゃ引っ張りだこで、お祭り騒ぎの時には、率先して楽器を弾いて……。別に、あの頃がよかっただとかじゃないのよ。ただ、ね……大所帯だった頃も懐かしくはあるかな」

 青葉はヘブンズがかつて大所帯であったことを聞くのは初めてであったので、質問に困っていた。

 今はたった二人の回収部隊。

 それにはきっと、推し量れない理由があるのだろう。

 何だか野暮に詮索するのは憚られて、青葉はぎゅっと拳を握り締める。

「その……音楽ってでも、聴いて分かるものじゃないと思うんですけれど、南さんも何か特別な講習でも?」

「あー、いや、私は一度聴いたことなら大体、覚えちゃえるから。物覚えがいいだけが取り柄って言うもんだからねぇ」

「それって、もしかして絶対音感じゃないですか?」

「ん? なに、その絶対何とかって言うの……」

「絶対音感ですよ! 南さん、音楽の才能があったってことじゃないですか!」

 興奮気味に語る自分に対し、南は当惑して頬を掻く。

「いやー、私に音楽の才能とかそういうのはないってば。ないない。ただ単純に物覚えがいいだけで……」

「でもさっきの、物覚えがいいだけにしては、かなりの腕だったですし。もしかすると、南さん、音楽の道に行けたんじゃないですか?」

「いやぁー、音楽だとか大それたことなんて私にゃ無理だってば。さっきのも偶然よ、偶然。たまたま覚えていた音楽を試せただけだし、青葉の言っているような絶対ナントかじゃないってば」

 南はしかし悪い気はしていないようで頬が緩んでいる。

 それをルイはすかさず指摘していた。

『……南、アホ面』

「あっ、こらぁ! ルイ! あんた、せっかくこっちがいい思いしているって言うのに水差さないの!」

『いい思いしているじゃない。青葉も青葉よ。南はすぐに調子に乗るんだから、あんまり褒めたっていいことなんて一個もないわ』

「……言ってくれるじゃない、悪ガキがぁ……。じゃあ、あんたは弾けるって言うの? 音楽だとかまるで無縁そうだけれど」

『南よりかは上手よ。多分、一発で超えられるわ』

「あの……張り合わないでください。あんまりやると、ピアノも落ちちゃいますし」

「……ふぅ。今日はこのくらいにしておいてあげるわ、ルイ」

『それはこっちの台詞よ。南は調子に乗るとロクなことがないってそろそろ学ぶべきじゃないの』

「……言ってくれるわね、こいつぅ……。まぁ、いいわ。とにかく、この子の面倒はヘブンズでしばらく見るから、部品が揃ったら格納庫かどっかに返すし。その時まで一応預かっておく。楽器って言うのは湿ると駄目だから、私たちなら湿らない場所の一つや二つの心当たりはあるのよ」

 青葉は、それならば南たちに任せたほうがここはいいはずだと、引き下がっていた。

「……じゃあ、その、お願いできますか? ……って言うのも変ですけれどね。私のじゃないんだし」

「まぁ、グランドピアノなんて物珍しいから、カナイマの整備班に任せるのも何ていうかね。繊細なものじゃないの。私たちが絶対に、直して見せるから!」

『南に繊細だとかそういう言葉って似合わないと思うけれど』

 また言い合いが始まるのを眺めて青葉は、はて、と小首を傾げる。

「……でも、南さんが自信満々に直せるって言うけれど、直したらその後はどうなっちゃうんだろう……?」

 誰も弾かないピアノなら、格納庫にまた眠ってしまうのだろうか。

「……誰かのためのピアノなら、いいんだけれど……」

 ――ぱちぱちと薪をくべていると、ルイが食料を揃えて来ていた。

 その足元にはアルマジロの歩間次郎が付き従っている。

「火の交代。……って、何やっているの、南」

「いやぁー、直せないかなってね。手持ちの部品だけでもちょっとくらいはって思って」

「……南、昼間に調子づいたままだって言うの? そんなの直したって何にもならないわよ」

「……それにしては、気にかかっている様子だけれど?」

 ルイはべっ、と舌を出すが、そのお付きである歩間次郎は正直のようで、こちらへと歩み寄ってくる。

「おーっ、次郎さん。次郎さんも弾いてみる?」

「……馬鹿じゃないの。そいつに弾けるわけない」

「いやー、指先さえ整っていれば誰でも……」

 ぽろん、ぽろん、と静かな旋律がジャングルの中に木霊する。

「うまいうまい! 次郎さん、才能あるわー」

「……南が後ろから押さえつけて弾かせているだけじゃないの」

「……ルイってば、そんなにクールにならなくってもあんたも教えて欲しいんでしょ? 何なら、レッスンしてあげるわよ?」

「馬鹿らしい。そんなものにうつつを抜かしているような時間はないはずでしょう。私はモリビトの操主に成るんだから」

「……でもさー、ルイ。音楽が余計なものだって言うのは、言わないで欲しいのよねー。ほら、無駄を愛せよとかって昔の人は言ったもんでしょ? 音楽だって何だって、意味はあるのよ、きっとね。そんな人生の横道に入るのに、下手なプライドだとかは要らないって言うか」

「……南らしい言葉だけれど、それって結局、遠回りじゃない。私は最短の道が欲しいのよ」

 薪を火にくべているルイに、南は嘆息をついていた。

「……母親として、あんたには狭く生きて欲しくないのよ。何だって興味を持って、何だってチャレンジする。そういう子で居て欲しいって言うのは、私のエゴかしらね」

「エゴよ、きっとね。第一、南の言うそういうのって、要は言ってみれば、押しつけみたいなものだし」

「うーん、そっかなぁ……。次郎さんみたいに、何でもチャレンジしてくれれば、いいんだけれどねぇ……」

 南は相変わらず次郎にピアノを弾かせている。

 次郎は目が回ったのか、南の腕の中で球体になっていた。

「あれ? 飽きちゃった?」

「無理させるからよ。もういい、歩間次郎は私が面倒見てるんだから」

 その手から引っ手繰られたので、南は思わず声を上げていた。

「あー、ルイのイケズー! 私にも次郎さんを触らせなさいよ」

「嫌よ。こいつは私のしもべなんだからね」

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