JINKI 186 世界で二人だけの夜に

 そっと近づいて、ルイの手の先を眺める。

「……えっと、あの本が取りたいんですか?」

 その時になってこちらに気づいたのか、ルイがばっと身構えて大きく後ずさる。

 あわあわとさつきは困惑してしまっていた。

「そ、そんなに構えなくっても……って言うかルイさん、ここ図書室ですよ……」

「……なに。私がここに居ちゃいけないって言うの?」

「いえ、そうではなく……。何の御用で?」

 ふんとルイは鼻を鳴らして憮然と腕を組む。

「……ちょっと野暮用でね。宿題って言うの、出されたでしょ」

「あ、はい。……もしかして調べものですか?」

 問いかけるとルイの眼差しは鋭くなる。

「……何なの。さつきのクセに、宿題を私がしちゃ悪いってわけ?」

「い、いえ……とんでもない……。でも、あんな高いところ、無理しなくっても……。そうだ、踏み台を持ってきますね」

 そそくさと踏み台を用意した自分に対し、ルイはふんぞり返る。

「さつきが踏み台になればいいのよ」

「そ、それは……ここ、図書室ですから駄目ですよ……」

「冗談。分からない?」

「……も、もう……怒りますよ?」

 早速踏み台を使ってルイが手に取った本はハードカバーの書籍であった。

「……宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』ですか。ルイさんも日本の小説は読むんですね」

「……悪い? そこの図書委員のおすすめコーナーに書かれていたのよ。だから読むって言うだけ。それに宿題にもこれはもってこいでしょう?」

「あ、あそこのおすすめコーナー……書いたの私……」

 頬を掻きながら照れていると、ルイは一瞬にして怪訝そうになっていた。

「……やっぱりやめようかしら。さつきのおすすめなんてロクなもんじゃないだろうし」

「そ、そんな言い草ぁ……。でも、宿題ってことは、これってもしかして……」

「もしかしなくても、よ。面倒なんだから、学生って身分は」

「じゃあ、ルイさんはこれで書くんですね。確か――」

「――読書感想文?」

 テーブルで本をぺらぺらと捲るルイを視界に入れた南に、さつきは代わりに答えていた。「はい。ちょうど読書週間ですし、宿題で出されちゃったので……」

「へぇー、あのルイが読書ねぇ」

「……そういえば南さん、ルイさんとは南米から一緒なんですよね? その、読書感想文って言う文化はありましたか?」

「うーん……私もまともに育ったとは言い難いからねぇ。宿題って言うのはよく現太さんが青葉やルイには出していたけれど、日本で言う読書感想文って言うのは初めてでしょう。そもそも、あっちにはそういう文化もあんましないから」

「あ、そうなんですね……」

「こっちで言う感想文って言うのがねー、どうにも根付きにくいみたい。あっちだと要約文とかディスカッションだとかになるって確か……エルニィ、言っていたわよね?」

「なに? 今、攻略に忙しい……」

 ゲームに興じているエルニィに南はがっくりと肩を落とす。

「あんたってば……一応はあんましさつきちゃんとかと年齢変わんないでしょ? 学生なら勉強する!」

「嫌だよ、それにボクはそんじゃそこいらのジャパンの先生よか頭いいし。それに、読書感想文だっけ? いやー、無茶な宿題もあったもんだね、こりゃ。テンプレートはなし、とは言え、荒唐無稽なことを書けば怒られる。再提出もあり、と……あっちの大学の論文とかのほうがよっぽどマシだよ。ヒステリックな宿題もあったもんだなぁ」

「とは言え、あんた、トーキョーアンヘルをやっていくんなら、学生身分になることも考えていかないと。ルイを見習いなさいよ、さっきからじっと本を読んで……」

 南が視線をくれたその時には、居間からルイは消え去っていた。

「読んで……ないよね。境内で猫と遊んでいるけれど?」

「……ああ、もうっ。締まらないわねぇ」

 猫じゃらしを揺らして猫の横腹を撫でているルイに、さつきはゆっくりと歩み寄っていた。

「その……読書、どうですか?」

「……退屈ね。欠伸が出そうだったからちょっと休憩。日本の学生はみんなあれやるの?」

「ええ、まぁ……小学校の時からやっていますし……」

「そもそも、感想文って何なの? その本に対して抱いた感想を、何でわざわざ赤の他人に採点されなくっちゃいけないのよ」

「そ、それは……」

 ぐうの音も出ない正論でたじたじになってしまうさつきを他所に、ルイは猫の頭をさする。

「ほら、何も言えないじゃない。だって言うのに、読書は素晴らしいだの、あの本のあの表現に感動しただの、よく言えたわね。図書委員さん?」

「えっ、さつき、図書委員なの?」

 エルニィがどうしてなのだか、目を輝かせてこちらへと歩み寄ってくる。

 さつきは若干戸惑いつつも応じていた。

「え、ええ、まぁ……」

「じゃあさ! じゃあさ! ボクがこれから暗誦する資料がどこにあるのか調べていてくれない? えっとー確か資料の名前は――」

「ちょっと! ちょっと待ってください、立花さん。もしかしてですけれど、図書委員って何でも本のことなら知っているとか思ってます?」

「えっ、違うの?」

 どうやら完全に根底から齟齬があるらしく、さつきはため息をついていた。

「……図書委員って言ったって、各クラスから出されるだけですし、それにどこにどんな資料があるのか把握しているわけじゃないですってば……」

 内実を話すと、エルニィは目に見えてがっかりした様子だ。

「何だい、何だい。そんな大したことでもないのに名乗っていたの? 肩透かしだなぁ、もう」

「そう言われましても……私だって困りますよ」

「とは言え、読書感想文、か。うーん……」

 エルニィはルイがかき集めてきた本の数々をぺらりと読み進めただけで、すぐに本を置いてしまう。

「……えっとー、あらすじ、とは違うんだよね? この本を読んでどう思ったのだとか、どう感じたんだとか? ……それって意味あるの? 感想は個人の自由じゃん」

「そ、それもそうなんですけれど……そういう宿題ですので」

「それになー、もし自分がすごい、人生を変えられた! って感動しても、付けられるのはゼロから百点満点までの点数制ってのも何か納得いかないって言うか。それならそもそも、優れた本を読むと言うよりも優れた感想を書く人間のほうが得をしちゃうじゃんか。それって意味あるの?」

「わ、私に言われても困るんですってば……」

 エルニィはルイが読む予定であった本をペラ読みするだけで次々と本を読了していく。

「……た、立花さん? まともに読んでます?」

「読んでるよ? でもなー、母国語じゃないからちょっと出力に時間かかるけれど、まぁよくある文学って奴だよね。こんなのルイに分かるのー?」

 面白がって茶化したエルニィに、ルイは猫じゃらしを掲げて振り返る。

「……失礼ね、自称天才。私にかかれば読書感想文なんてあっという間よ」

「ふぅーん。ま、頑張りなよ。何だか、意味があるんだかないんだか分かんない課題だなぁ……。アカデミズムじゃないって言うか、感想って極力、個人的なものじゃん。それに点数を付けられるのって、何だかすごい不愉快って言うか……」

「そういうもんなんですってば……」

 取り成すさつきに、ルイは嘆息一つで再び読書へと戻っていた。

 しかし、十分も持たないのかどこかうずうずとしているのが窺える。

「……さつき。お茶菓子をちょうだい」

「えっ、でもルイさん。さっき食べたばっかりじゃ……」

「糖分がないとやる気が起きないのよ。いいから早く」

「わ、分かりましたけれど……お夕飯、食べられなくなっちゃいますよ?」

「いいから」

 渋々台所へと向かったさつきに、南もいつの間にか追従していた。

「み、南さん? 駄目ですよ、今日のお茶請けの分はさっき食べていたじゃないですか」

「お茶だけだから! ね? このとーり!」

 お願いされてしまうと強く出られないのが自分で、南に対しても甘くなってしまう。

「いいですけれど……。でも、ルイさんも意外って言うか……宿題とかやらないんだと思っていましたよ」

 緑茶を抽出する自分の背中に、南は声を投げかける。

「羨ましいのかもねー、あの子もあの子なりに」

「羨ましい? 何がですか?」

「こういう、平和な土地で過ごすってことがじゃないかしら。南米じゃ、いつ命を取るか取られるかって言う価値観で動いていたし、そんな状況じゃ教養なんて二の次でさ。私もあの子に読書だとか、人並みの幸せを与えてあげられなかったのが悔やまれるわ。もっとたくさん……青葉との思い出も作ってあげられればよかったのかもね」

 どこか寂しげに呟く南へと、さつきは茶葉を沸かしながら尋ねる。

「その……よくお話に出る青葉さんって方は、日本人だったんですよね?」

「ええ、そう。でも、あの子はとても……人機を愛していたから。だから、私が知る限り最も強い操主に成れた。きっと、必要なのはそういうひたむきさなのかもね。がむしゃらでも何かを信じたり、何かのために頑張れたりするって言うのが、何よりも素養って言うか」

「それが強さ……ですか?」

「かも知れないって言うだけの話よ。私にだって断定口調じゃ言えないわ」

「それは……やっぱり、操主としての強さって言うのは流動的だからなんですかね……」

「分かんない。あんまり分かった風なことを言うと年食ったみたいに見えちゃうし。ただ……ルイは歩み寄りをしているんじゃないかしら。それこそ、この日本で生きていく上で、自分のこれからの人生のためにね」

「歩み寄り……ルイさんなりの、ですかね」

「そうね。私だって、日本に来てから学んだことも多いし。それに、あの子なりに思うところもあるから、まともに宿題なんてやるつもりになっただろうからね」

 急須から緑茶を南の湯飲みに注ぐと、芳ばしい香りが周囲を満たす。

「……ルイさんなりの歩み寄りを……私も尊重すべきなんでしょうか?」

「それを決めるのは、さつきちゃんとルイ、両方なんだと思うわよ? おっ、茶柱」

「私と……ルイさん……。ルイさんなりの歩み寄りを、私がどうしたいのか、ですかね……」

「ま、そこまで大層なことでもないのかもね。私は期待しているわ。だって、ルイとさつきちゃんはツーマンセルなんだもの。きっとお互いにしか分からない領域だってあるはずだし」

「私とルイさんは……ツーマンセル……私たちにしか、分からないこと……」

 掌に視線を落とす。

 手を振る南の背中に、さつきは何か言葉を投げようとしてできずにいた。

「――宿題していたらちょっと遅くなっちゃった……」

 眠りにつくのは夜の十時半には、と決めている。

 とは言え、少し喉が渇いていたので水でも飲みに下に降りたところ、居間で明かりが点いていた。

 そっと覗き込むと、ルイがテーブルの上で本をぺらりと捲っている。

「まだ読んでたんだ……。でも、ルイさん、あれだけの本の中でどれを感想文に選ぶんだろ」

 その時、ルイは本に挟まれている紐を取り出し、小首を傾げていた。

 何に使うのか分かっていないのだろう。

「……ルイさん、それはスピンって言って、栞の代わりに使うものなんですよ」

 こちらが歩み寄って来たのに、驚愕した面持ちのルイは、ふんと鼻を鳴らして調子を取り戻す。

「まだ起きていたのね、真面目なだけが取り柄のさつきはもう寝る時間でしょ?」

「いえ、せっかくですし。私もここで……その……本を読んでいいでしょうか?」

「……わざわざ二人でテーブルを挟んで? 意味ないわよ、それ」

「でも、その……私とルイさんはその、ツーマンセルですから……!」

「だからって何でもかんでも一緒に過ごすって意味じゃないでしょう」

「それは……確かにその……ですけれど」

 尻すぼみになっていく声に、ルイは本のスピンを弄りながら何とでもないように尋ねていた。

「……ねぇ、さつきはずっと、日本で過ごしてきたのよね?」

「え……あ、はい。私はそうですね、日本で……」

「この読書感想文って言うのも、ずっと?」

「……そう、ですね。記憶の限りでは小学校の時から、ずっと……」

「小学校って言うのはどんな感じだったの?」

「どんな感じ……ですか? うーん、まぁついこの間まで小学生だったので、思い出すまでもないんですけれど……」

「私は小学校ってのはよく分からないから」

 南が言っていた通り、ルイには僅かに憧れがあるのかもしれなかった。

 自分が辿れなかったものへの情景、自分の人生には必要だとも思ってこなかったものへの未知の感覚。

 それが今回、ルイを似合わぬ読書へと駆り立てた衝動なのかもしれない。

「……小学校の時の話、一個ずつしましょうか?」

 ルイはスピンを弄ったまま、あくまでも好きにしろと言うスタンスだ。

 ならば、自分も好きに話そう。

「……私身体もあんまり強くないし、鈍くさいから……よく怒られていましたね。旅館の仕事だけはちゃんとするようにはしていたんですけれど、走りとかも速くなくって……」

「さつきらしいわね」

「でも、その中でも得意だったことがあるんですよ? 水泳の時間って言うのがありまして……私、陸じゃのろまですけれど、泳ぐのは得意だったんです。それだけは……誇れるかなって」

「ふぅーん。さつきにも思わぬ得意技があったわけね」

「ええ。人に歴史あり、ですから。ルイさんだってそうでしょう?」

「私? 私は別に……物心ついた時から南と一緒の、二人っきりの回収部隊、ヘブンズだったし……。何が得意かって言えば人機の操縦だったけれど、それも結局青葉に譲ったみたいなものだしね」

 南の口から出たのと同じ、二人にとって青葉はきっと特別なのだろう。

「……読書感想文、できそうですか?」

「……難しいわね。結局最後まで読まなくっちゃいけないの? ……半分くらいまで読めたら、オチまでページを飛ばしたって……」

「駄目ですよ、ルイさん。本は一ページ一ページ、味わうように読まないと」

「……さつきのクセに、生意気よ」

「これでも図書委員ですので」

「さつきも宿題、出ていたでしょ。何か読まなくっていいの?」

「そう仰るかと思って、持ってきちゃいました」

 さつきの取り出したのは『指輪物語』だ。

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