「小河原か……。いや、夕飯に関しては私は何も聞いていないな」
「ふぅーん、さつきとかはどうした?」
「まだ学校のようだ。学生の身分は大変だな」
確かに、時計の針はまだ昼の三時だ。
昼夜逆転もここまで来れば病的だな、と両兵は思い直して再びメルJに視線を向ける。
「……何やってンだ? てめぇは」
「現代語の勉強だ。少しは日本の文字や言葉に慣れてきたとは言え、やはり時折困る時はあるのでな。さつきから教材をもらっておいた」
面倒見のいいさつきならば間違った教材は渡さないだろう、そう信じ込んで本を覗き込むなり、両兵は唖然としていた。
「お前……それ、絵本じゃねぇか」
「挿絵付きの物語ならば読みやすいだろうと、黄坂ルイの紹介だ」
ルイならばその辺はやりかねないな、と両兵は浮かんだルイのすまし顔を思い返す。
「……あのな、ヴァネット。その辺、言っておくと児童書って言うか……ガキが読むもんだぞ? いいのか?」
「いいも何も……私は黄坂ルイのように元々日本文化に明るくはない。だから初心者向けから臨むのは何も悪いことではないように思えるのだが……まずいのか?」
そう問い返されると両兵も返事に窮する。
「いや、マズくはねぇけれども……」
婉曲的に馬鹿にされていると口にしたところで要らないトラブルを増やすだけだろう。両兵は積み重ねられた本をぱらぱらと捲っていた。
「桃太郎、シンデレラ、金太郎……どいつもこいつも、定番って感じだな」
「小河原、モモタロウ……と言うのは何だ? さっきから読んでいるのだが一向に頭に入って来ない」
「あー……お前、そういや日本語の読み書きはできたか?」
「分かるものと分からないものが混在しているな。……五十音は分かるつもりだが」
なるほど、それならばこの選択肢も納得だ。
要はメルJはまだ小学校低学年ほどの読み書きレベルと見ていいだろう。
「よくそれで……基本設計が日本人向けな人機を操縦できるよな」
「人機は慣れれば言語は関係がない。それにシュナイガーも《バーゴイルミラージュ》も設計思想は英語圏のものだ。扱いやすい」
「……まぁ、オレもこれで英語はできるし……不自由はしてねぇな」
メルJは桃太郎の絵本を近づけたり遠ざけたりして、何度か読もうと試みているようだが、その度に頓挫している。
「……駄目だ。頭に入って来ない」
「ひらがなは読めるんだろ? 音の連なりとかで分かるんじゃねぇのか?」
「読めても……いまいち意味が分からないんだ。そもそも、何だ? “どんぶらこ、どんぶらこ”とは? この言葉は難解過ぎる……」
擬音は日本の独特の文化だ。
殊に全部ひらがなとなれば、メルJからしてみれば解読は難しいだろう。
「あーっと……じゃあ意味は分かるんだな? 桃太郎が桃から生まれて……」
「そこもだ。桃から人間が生まれるなど、あまりに非現実で受け入れがたい」
「……要らんところリアリストだな、お前。じゃあ百歩譲って、こいつはな、鬼退治に行くんだよ」
「鬼……? モンスターのようなものか?」
「……まぁ、ジャパニーズモンスターだと思ってもらって構わん。そいつらが悪行の限りを尽くすもんだから、桃太郎は村を救うために行くわけだが」
「どこに? 湿っぽい洞窟か?」
「それはお前、読んでいけば分かるだろ。鬼ヶ島だよ」
メルJはその単語を聞くなり、渋面を作って絵本を畳む。
「……何で難解な単語ばかり出て来るんだ……。オニガシマなんて通常の会話で使わないだろう。私には日本の地理感もないんだぞ」
「いや、言っちまえば架空の島で……」
「架空の存在が架空の島に行ってモンスターを退治するのか? ……少し私にはレベルが高い作品じゃないか?」
この程度でレベルが高いと言ってしまっていれば、ルイやエルニィに馬鹿にされるのは目に見えている。
いいや、恐らくルイに関しては確信犯だ。
わざと日本文化に精通していないメルJに、日本の昔話をチョイスしたに違いない。
「……あの悪ガキ……こういうことしやがるんだよな……」
「小河原、もっと簡単な話がいい。固有名詞もなくって、それでいて納得できる話を教えてくれ」
「ンなこと言ってもよぉ……オレだって小退の身なんだぜ? そう易々といい感じの話なんて思い浮かぶかよ。一番なのは……何かあるか? ああ、これなんてどうだ? かぐや姫」
「姫……ということは、プリンセス物か。悪くない、どういった話なんだ?」
「えーっとだな。オレも久しぶり過ぎてあらすじはほとんど忘れちまっているが、そうだ、そういや、えーっと、ジジィが竹を切ろうとして、その竹が光ってンだよ」
こちらの説明振りに、メルJはうんうんと興味深そうに聞き入っている。
「そんでもって……光る竹は珍しいからってもんで、切ると中から子供が出てきて……」
「待て、小河原。さっきのモモタロウと同じタイプじゃないか。何故、樹木や果実から人間の子が生えてくる?」
「それはお前……物語のお約束ってもんであまり気にすんなよ。こういうのが日本じゃよくあるんだ。んで……その娘を持って帰ってかぐや姫って名前を付けると、まぁ、美しく育つわけだ、そいつが。えーっと、何つーのかな、その時の権力者みたいなのは小耳に挟んで是非とも我が妻に、ってやってくるんだが、そいつらをかぐや姫は突っぱねるんだよ」
「……権力が手に入るのにか?」
心底理解できないとでもいうような響きに、半分ほどは両兵も納得する。
「……まぁ、言われちまえば確かにその通りなんだが、安心しておけ、これには理由がある」
そう言って期待を持たせると、メルJは少しばかりそわそわしているようであった。
「で……まぁ無理難題でかわした後に分かったことだが、かぐや姫は地上の人間じゃねぇんだ。月に棲んでいる人間なんだよ」
「待て、それもおかしいぞ、小河原。さつきから、月ではウサギが餅をついているのだと聞いている」
「……何でそっちは簡単に信じちまうんだよ……。物語上の都合だろうが。んで、月に帰らないといけませんってなったんだが、まぁ時の権力者共はどうしたってかぐや姫を帰したくないから、総員で武装するんだが……結果は明らかな通り、まるで敵わずに月に連れて行かれちまう……ってのが大筋だな」
こちらの話振りに、メルJは熟考を挟んでから、ようやく口にする。
「……バッドエンド、だな……?」
「ん……まぁそう言えるかもしれん。案外、ハッピーエンドで終わる物語ってのは昔話にゃ少ねぇもんだ。桃太郎は鬼に奪われた金銀財宝を村へと持ち帰るが、その財宝を奪われた鬼の視点に立ちゃ、桃太郎ってのは因縁つけて喧嘩挑んできたヤベェ奴だからな。他のも読んでみろよ。面白い発見があるかもだぜ?」
自分は、と言えば菓子でも物色しようと立ち上がりかけて、メルJに袖を引かれていた。
「その……もし小河原さえよければ……他の物語も教えてもらえないだろうか? 私だけでは時間がかかり過ぎてしまう……」
確かに、ここまでメルJがある意味では馬鹿正直だとは思いも寄らない。
両兵は腰を据えて、卓上の絵本をぱらぱらと捲っていく。
「それじゃあ何がいいんだ? ハッピーエンドか、バッドエンドか」
「これは何をやっているんだ? 亀がいきなり暴行を受けているが……」
「ああ、浦島太郎か」
「ウラシマ……何故、全部に太郎と付いているんだ?」
「太郎ってのは言っちまえばよくある名前だったんだよ。外国にもあるだろ? ジョン・スミスみてぇな、ああいうもんだ」
早速ページを捲っていくと、メルJは肩を寄せて絵本を覗き込む。
「……ヴァネット、近いが……」
「私だって絵が見たいんだ、仕方ないだろう」
嘆息一つでその文句をいなしてから、両兵は音読を始める。
「“――お礼に竜宮城にご案内します、と亀は言いました”」
「待て、また知らない固有名詞を出すな。リュウグウ……? 意味が分からないが」
「海底にある立派な城だってことを理解してりゃあいいんだよ」
「……何故、海底に城が?」
「ああっ、ったく、考え過ぎんなっての! 知らないものは知らねぇでいいんだからな」
「だが水圧だとか、酸素だとかはどうしているんだ? 城があると言うのならば、人間は居ないはずだろう?」
「それはそうでもねぇんだ。“竜宮城には乙姫様が待っており、浦島太郎を歓迎しました”っと」
むぅ、とメルJは頬をむくれさせて抗議する。
「人間が棲んでいるのは……ギリギリ理解できるとして……また姫か。日本人はそういった信仰でもあるのか?」
「……まぁ、ねぇとは言い難いわな。この世のどこかに理想郷みてぇなのがあって、たまたま招かれて宴に、みてぇな」
ふぅむ、とメルJは腕を組んで憮然としていた。
「理解できない……」
「まぁ、いちいち飲み込まなくってもいいっての。そこじゃ、まぁ飲めや騒げやの夜通しの宴が催されて――」
そこで両兵の腹の虫が鳴る。
空腹の状態であったことを思い出すと、メルJは台所まで率先して赴いていた。
「何か持って来よう。留守を預かっている身だ、それなりのものは用意しよう」
「……できんのかよ、お前」
「馬鹿にするな。これでもコーヒーくらいは淹れられるようになったんだぞ」
ふふん、と少し誇らしげに台所へと向かったメルJを他所に、両兵は本をそれぞれ軽く読み流していく。
「……思えば、オレ、あんまり絵本とか縁がねぇかもな。物心ついた時にゃ、家で本読むよか外で遊ぶほうが楽しかったし。こういうのって読み聞かせだとか言うのもあるんだよな。……相変わらずそういったことにゃ無縁の人生だが」
読み聞かせという文化そのものが自分にとっては正反対の生き方のようで、両兵は辟易してしまう。
とは言え、メルJの日本語への理解を示すのに。絵本は最適解であったのだろう。
ルイの思惑も入っているだろうが、基本的にはいい傾向であると分析していた。
「にしても……どれもこれも昔話やガキ向けの絵本か。案外、さつきとか柊とかがこういうのは上手く読み聞かせられるんじゃねぇかって思うが……」
「小河原、淹れて来たぞ。砂糖は要るか?」
「ああ、オレはブラックで構わん」
「そうか。私もちょうどブラック派だ」
二人でホットコーヒーを啜りながら、次の物語を物色する。
「これなんてどうだ? ピーターパン」
「ああ、それはもしかすると聞いたことがあるかもしれない。海賊と戦う話だったか?」
「あっ、そういやこれは日本のじゃねぇな。じゃあこういうのから日本語に慣れて行ったほうがいいんじゃねぇのか?」
こちらの提案にメルJは渋い顔をする。
「それは……私としては少し困る」
「困るってこたぁねぇだろ。日本語の勉強だって言うんならな」
「それが……今日中に日本の昔話をどれでもいいからマスターすると、立花や黄坂ルイに言ってのけてしまったんだ。あいつらが帰ってくるまでに、日本の昔話を習得しなければ……」
メルJも相変わらず余計な自尊心だけはあるものだ。
加えてルイとエルニィ相手となれば強気に出たいのも分からなくもないが、それにしたって自分の首を絞めてどうする、と両兵は呆れ返る。
「……んじゃあ、やっぱりシンプルなのが一番だろ。桃太郎を何回か読んでみりゃ、自然と日本の昔話の傾向も見えてくらぁ」
「……やはり、そうなってしまうか。もっと分かりやすくって覚えやすい物語はないのか?」
両兵は絵本をぱらぱらと捲りながら、後頭部を掻く。
「っつってもなぁ……黄坂のガキと立花を納得させたいんだろ? じゃあ海外の童話は自然と外すとして……金太郎なんてどうだ? 一寸法師とかもあンぞ?」
「また何とかタロウか……。そっちは分かりやすいんだろうな?」
どこか呆れ調子のメルJに両兵は必死に話の筋を思い出そうとしていた。
「えーっと、ちょっと待て……。金太郎はあれだな、山で熊に乗ってお馬の稽古だと確か歌にもなっていたな」
「熊で馬の稽古になるのか? よっぽど大変だろうに」
自然な返答ではあるのだが、今は余計なことは気にしたら負けである。
「……まぁ、この金太郎ってのはパワーが強ぇんだよ。それで子供ながらに熊を倒すだとかしてだな……最終的にどうなるんだったか……?」
自分も把握していない物語をメルJに読み聞かせるのは難しそうだ。
「こっちは? イッスンボウシ、とか言うほうも気になる」
「ああ、何だったか、これ。そうそう小さいんだよな、主人公が。一寸ってのは大きさの単位みてぇなもんで。そんでもって、こいつが小さいのを活かして鬼を倒して、打ち出の小づちってのをもらって最後はでかくなってめでたしめでたしって話だ」
だいぶ端折ったが、それでもメルJは興味を示したらしい。
サングラスの奥の瞳が輝いている。
「小さいのにすごいな。鬼を倒せるのか?」
「そこんところはまぁ、物語のストーリーの都合もあるが、大抵はめでたしめでたしってのを覚えておくと、苦労はしねぇはずだ。……って言うか、お前も童話くれぇは知ってンだろ? 大体こうなるって言うのは頭に入ってンじゃねぇの?」