と、照れている場合ではないことに気付いて、さつきは佇まいを正す。
「そ、その……私、ちょっと試してみたいことがあって」
「はい?」
しかし、鞄からアルファーを出して突き出すような勇気は湧かなかった。
相手がシバであれ、そうではなくとも、これはある意味では疑いを真正面から向けるような気がして、何だか自分にとっては性に合わない感覚があったのだ。
鞄に手を突っ込んだままの自分に、志麻涼子はああ、と手を叩く。
「そういえば」
「……何ですか?」
彼女が差し出したのは数冊の洋書であった。
目を見開いていると、それらをパラパラと捲る。
「前に借りられた本の履歴から、こういうのも好きかな、と思いまして。実は洋書を借りられる方ってレアなので、次に会ったらご紹介しようと思っていたんです」
「えっと、それはその……」
「図書委員として、せめてもの。おススメみたいなものですから」
眼鏡の向こう側で笑う志麻涼子に、さつきは敵意を掲げるのを留めていた。
彼女がもし――八将陣、シバだとしても、ここには敵味方も何もない。
図書室で、静かな時間が流れる中で、さつきは本を数冊、捲っていた。
有名な外国文学で、ジャンルはファンタジーだ。
「……私、その……最近の本ばっかりなんで、こういう本格的なのは……」
「そうなんですか? 前回借りられたのがジャンルバラバラだったので、もしかしたら、だったんですけれど……余計なお世話だったでしょうかね」
頬を掻いて柔らかく微笑んだ相手に、さつきは申し訳なさを感じていた。
疑うばかりに飽き足らず、図書室でもしもの事があれば戦おうと思っていた自分が浅ましい。
「いえ、私も……突然洋書とか借りて、ご迷惑だったかなって」
「迷惑なんて、そんなことはないです。本はいいですよ。例えばあの本棚の端っこにある誰も借りられない本も、例えばあの棚に置いてある今週のおススメも。どれも同じ価値を持っているんです。確かに、人気だとか、誰かが知らなければ意味がないものもあるでしょうけれど……私には等価値に思えます。それくらい、本が好きなんです」
さつきは、けれど、と洋書を返そうとする。
「私……英語は全然なんで」
「あれ? そうでしたか? 結構難易度の高い本ばっかりだったので、勘違いしちゃいました。じゃあ翻訳されたものを持ってきますね」
志麻涼子はすらりと立ち上がり、本棚を探っていく。
その所作の麗しさには見惚れてしまうほど。
黒髪のポニーテールが揺れ、眼鏡の奥の瞳が細められる。
何度か高い位置にある本を取ろうとしてぴょんぴょん跳ねていたので、さつきは咄嗟に受付の脇にある脚立を差し出していた。
「ああ、これはどうも。はい、これなんておススメです」
ふわりと漂った志麻涼子の香りは、清涼感のある高潔な色香であった。
決して――血と硝煙に酔いしれる八将陣のそれではない。
そう感じた矢先、脚立が揺れ、志麻涼子は倒れ込んできた。
さつきが抱え込んで、彼女の体重を瞬時に受け止めたのは、平時のアンヘルの訓練があったからかもしれない。
それでも同時に倒れたのは防ぎようがなく、志麻涼子のかんばせが眼前に迫る。
息を呑むほどの美貌――打ちのめされたように凝視していると、志麻涼子はこちらをじっと見据えていた。
何だろうと思うや否や、相手は手探りでさつきの胸元を掴む。
「……ひっ……」
思わず警戒態勢に入りかけた自分を、直後の言葉が遮っていた。
「……メガネ、メガネ……」
志麻涼子が床を這って、落とした眼鏡を探し回る。
その様子が、まるで八将陣のそれとは思えず、さつきは手を貸していた。
「はい、これ……」
「ああ、ありがとうございます。私、眼鏡がないと全然見えなくって」
おどおどする志麻涼子に、さつきは、いえと謙遜していた。
「何だか……ちょっと勘違いだったみたいでしたので。こっちも悪いことをしたかもな、って思っちゃって」
「勘違い……。一体何のですか?」
「あ、これもこっちの話……。えっと……」
「あ、はいこれ。翻訳された本です。さっきの本、文庫は出ていないのでハードカバーになっちゃいますけれど」
打算のない微笑みに、さつきは差し出された本を受け取る。
「……はい、ありがとうございます。その、いいんですかね。本の二重貸し出しは禁止なんじゃ……」
「あ、そういえば……。けれどまぁ、図書委員権限ですので。……ヒミツですよ?」
囁かれると、少しまだ怖いがさつきは信じることにしていた。
本一冊分の重みを感じ、志麻涼子の面持ちを確かめる。
「……ですね。じゃあ秘密、です」
微笑ましくお互いに笑い合っていると、昼休みが終わる予鈴が鳴り響いていた。
「あっ……じゃあその……これは一応、借りていきますね」
「はい。いつでも返しに来てください。昼休みには、私はここに居ますので」
手を振る志麻涼子へと、さつきも手を振って図書室を後にしていた。
「……あんまり、他人を疑うの、私には向いていないのかも。そうだよね、八将陣のシバがここに……まして図書委員なんて、居るわけない、よね」
――本を整理している最中、志麻涼子は背後に立った気配を感じ、振り向こうとして、剥き出しの殺意に動きを止めていた。
「……あなた、八将陣、ですよねぇ? 何で、さつきさんと?」
「……瑠璃垣なずな、か。諜報員として名高い人間が、今は学校の教職まで堕ちるとは笑わせる」
眼鏡を取り、平時の声を返した志麻涼子――シバは背後のなずなが拳銃を突きつけているのを感じ取っていた。
「私にはやるべきことがあるんです。せっかく、ジュリ先生とは不可侵協定を結んだのに……これじゃ水の泡じゃないですか。八将陣のリーダー、シバが何の用で?」
「敵前偵察、と言えばどうする?」
「……悪いですけれど、ここで死んでもらいましょうかね」
「それもそうだろうな。千載一遇のチャンスだ。逃すべきでもない。……しかし、暫くは静観しようと言うのが、私のスタンスでね」
「……どういう意味ですか?」
「言葉通りだ。別段、赤緒のほうでもよかったのだが、あいつには面が割れている上に、お互いがお互いに呼び合う性質を持つ。本能的に分かるはずだが、川本さつきは違っただろう。……だから、一から関係を作っていくことにした」
「壊すことに……快楽を覚えるようなあなたたちが、何をのたまう、と言うのが、正直なところですね」
「いけないか? 私とて、こうして本に埋もれている時間は代え難い。別に人類の文明全てをロストライフ化させないと気が済まない性質でもないのだ。本はいい。人間の知識欲を、一方的に満たしてくれる」
ぱたんと手元のハードカバーを閉じた自分へと、より密度の濃い殺意が向けられる。
「まさか、それが目的、なんて言いませんよね? わざわざさつきさんの居る、こっちの図書室を根城にするんですから」
「お前にとって川本さつきは大事らしいな。そこまで入れ込んでいるとは正直驚いたよ、ミス瑠璃垣。いいや、ミセス瑠璃垣と、言うべきかな」
「……そのよく回る舌を斬り落としてやってもいい……八将陣……!」
本気になりかけたなずなへと、シバは軽い論調で返す。
「なに、半分は冗談だ。それに、ここで殺し合いなどお互いに旨味もあるまい。私は図書委員の志麻涼子として、少しの間、こっちで情報収集……いいや、これは視察だな。赤緒を直接見張るのは難しいが、この形なら問題ないだろう」
「……冗長ですね。無駄を嫌うキョムの……八将陣らしくない」
「既に運命は変動値を迎えつつある。私はこれまでのような振る舞いを続けていれば、何か重大な部分で読み違えをしかねない。よって、こうして調停する。お前もそう殺気立つな。ここではただの少女、ただの志麻涼子だ」
「……あなたのような人間を、信じられるとでも?」
「では引き金を引くがいい。きっと、思った以上に後悔するぞ?」
なずなは一拍、殺気を膨れ上がらせてから、すっと気配を遮断させていた。
「……今は退きましょう。しかし、もしさつきさんを害するのなら、いつでもその命……摘み取ります」
「よかろう。期限付きの調停だ。私もお前たちがどう奴らと向かい合うのか興味があってな。シャンデリアの、高空から知った風な口を利いて見張るのは少し飽き飽きしたところだ。もっと見せてくれよ、人間の浅ましさと言う奴を」
「……あなたがそれを知る頃にはきっと、命なんてありませんよ」
警句を発して、なずなは姿を消していた。
シバは、眼鏡をかけ直し、手元の本へとしおりを挟む。
「……ヒトは、こうして叡智の結晶をしおりで挟むことで、永続的に得ようとした、か。私にも見せてくれよ、川本さつき。お前たちの意味が、戦いだけに結実するのか、その価値とやらを」
そうして、志麻涼子として――本を棚へと戻していた。