「は、はひ……っ! 大丈夫……です」
「そう? じゃあせんべいでいいかしら。まー、こっちも色々あってね。あっ、この間同僚からもらったチョコレートがあったっけ? それもどうせだから出しちゃいましょうか」
「あ、その……お構いなく……」
「あんたがお構いなくっても私があるんだってば。……それに、せっかく赤緒が家に来たんだから、少しはもてなしてもいいでしょ? なんたって柊神社とは逆方向だしねぇ」
ジュリはお土産品を取り出してはその底面を検めてから揺すっている。
むずむずとし出す正座を続けながら、赤緒はここに来た要因である茶封筒へと視線を移す。
ジュリは、と言えば狭苦しい部屋の台所に立ち、戸棚を物色していた。
何だかそれは、担任としての姿でも、ましてやキョムの八将陣としての姿でもないように映って、赤緒は自ずと緊張してしまう。
そもそも、何故、このような局面になったのか――赤緒は静かに思い出していた。
「――あれ? ジュリ先生、お休み……?」
登校するなりマキが答える。
「何だか体調が優れないんだってさ。珍しいもんだよねー、あの女王バチも」
マキはジュリのことを毛嫌いしている節があるので、その言葉振りもどこかぶっきらぼうだ。
「でも……心配ですわね。季節の変わり目ですし、夏風邪になることもあり得ますから」
「あの女王バチが風邪? そんなのあるの? いっつも鋭いことばっか言ってくるってのにさ」
むくれたマキはそう言えば三者面談で学力が足りていないことを先日指摘されたのであったか。
多分に私怨を含んだ物言いに泉が応じる。
「でも、マキちゃん、漫画家になること自体は反対されていないんでしょう?」
「……そ、それはそれ! これはこれだよ!」
普通の教職員ならば生徒が漫画家になりたいとでも言い出せば反対するようなものだが、ジュリは別段、意見を差し挟まなかったらしい。
それに関してはマキも認めざるを得ないのか、不承気であった。
「でも、ジュリ先生が風邪なんて……あるのかな?」
赤緒のイメージでもジュリは常に挑発的で余裕を持った大人の姿だったので、風邪を引いたなど考えづらい。
「ジュリ先生だって人間なんですから、それくらいはあるんじゃないですか?」
泉に言われてしまえば、確かにその通り。
別にジュリの身体が特別丈夫と言うわけでもないのだろう。
「でもさー、明日じゃなかったっけ? 歴史の小テスト。このままなくなったり……?」
担任だがジュリの専門科目は歴史だ。
マキの希望を泉がそれとなく挫く。
「さすがにテストは出来上がっているんじゃないですか? 他の先生がどうにかするでしょうし」
「ちぇー……淡い期待は打ち砕かれたかー」
代わりの教師がやってきてホームルームを始めたので赤緒は席につく。
「……でも、ジュリ先生、確かキョムの……」
赤緒の脳裏を掠めたのはキョムとしての任務のせいでジュリがこの学校を離れたのかもしれないと言う予感であった。
そうでなくとも、いつ離反するか分からない相手である。
学校を人質にすることでさえも厭わない精神なのは知っていたが、もしかするともう教師でいる必要性を感じずに、このままさよならも言わずにお別れなのかもしれない。
ホームルームの伝達事項をぼんやりと聞きながら赤緒は窓の向こうの空を眺める。
いつ、シャンデリアの光で人機を操ってこの街を混沌に染め上げかねない相手を、自分は担任に持っている。
考えてみれば、その状況も随分とおかしいものだ。
キョムの敵操主とは、顔を合わせることも、ましてや友好関係を築こうということもあり得ないはずなのに。
だがジュリとは自ずとそれができているような気がしていた。
敵対することなく、どこか緩やかなこの関係性が継続するのだと。
思えばそんな保証はどこにもない。
ジュリが本気になれば、自分たちはいつ戦渦に巻き込まれても不自然ではない。
だと言うのに、こうして相手の身を案じると言うのは、どうにも――。
「……不思議なんだもんなぁ……」
「――柊さん。できれば八城先生にこれを持って行ってもらえますか?」
放課後に職員室に呼ばれたかと思えば、茶封筒を差し出され赤緒は戸惑っていた。
「えっと……何で私……」
「八城先生からつい先ほど電話が来まして。重要書類を忘れていたから、柊赤緒さんに届けて欲しいと」
赤緒は茶封筒を受け取って、はぁと生返事する。
「……でも私……ジュリ先生の家知らないんですけれど……」
「地図を渡しておきます。そこまで分かりにくくない場所なので三人で行ってもらえれば」
職員室を後にすると、待っていた泉とマキが封筒を窺う。
「それ、もしかして明日の小テストの原本?」
「ま、まさかぁ……」
「でも、そうなってくると本気で心配ですわね……。赤緒さん、大丈夫ですか?」
「うーん、私が指名されちゃったってことは、多分……」
恐らくはアンヘルやキョムの話も込みで、なのだろう。
「大丈夫っ! 赤緒は私たちが守るから! 女王バチの毒牙になんてかけさせるもんか!」
謎の自信を発揮するマキであったが、赤緒は色々と考えた後に家の前までだけにしてもらうことを提案していた。
「ほら、ジュリ先生も風邪なら生徒に移しちゃうのは心苦しいだろうし……」
言い訳だけは浮かんでくるのだが、正直なところ泉とマキを巻き込みたくない思いが先行していた。
二人は仕方なく承知し、地図を元にしてジュリの住所まで向かうことにしたのだが――。
「あれ? こんなところ? 開発途中の団地じゃん。こんなとこに住んでるの?」
マキがそう言い出したのも無理もない。
住所は開発の途中で断念された白い壁面の団地であり、正直なところで言えばキョムであるジュリはもっといい場所に住んでいるのでは、という印象もあった。
「でも……住所ここだよね? えっと、三〇七号室……」
部屋の前まで泉とマキに付いて来てもらったが、ここから先は自分だけで赴くべきだろう。
「本当に、大丈夫ですか? 赤緒さん」
「赤緒ー、不安なら私たちも突入するからさ」
「大丈夫……。それに、本当に風邪ならお見舞いにたくさんで押しかけるのも悪いよ」
二人とは部屋の前で別れ、赤緒はインターフォンを押す。
やけに甲高い音が響くと、どたどたと部屋から鉄製の扉まで気配が迫ってくる。
「はいはーい……新聞は要りませんよーっと。……って、赤緒じゃない。何やってるのよ」
「いや、何って……ジュリ先生?」
疑問形になってしまったのは、いつものタイトな服装からは想像できないほど、ラフな私服姿だったからだ。
だぼだぼのTシャツを突っかけ短パンを穿いている。
足元は猫のデザインが施されたサンダルであった。
「あー……そういやさっき学校に電話したんだっけ? 他の子だったらあれだから、赤緒に頼んだんだった……」
よろよろとジュリは後ずさりながら鍵を開ける。
目を向けると冷感シートを額に貼っていた。
「……本当に風邪だったんですね……」
「本当に? 私は病欠って学校に言っておいたはずだけれど……あれ? 言ったっけ?」
「熱とか大丈夫なんですか?」
「あー、うん。寝てたらだいぶよくなったわ。けれど、明日の小テストの原本を学校に忘れていたのを思い出して……ついさっき」
「あ、これ……」
赤緒が茶封筒を差し出すと、ジュリはそれを受け取って中身を確かめる。
「うん、この通り。……上がっていく?」
「い、いえ……っ! 私はこれを持って来ただけですし……」
「遠慮しないでってば。生徒をパシらせてそのまま帰らせたなんて思われたくないし。それに風邪もほとんど治ったから、多分移らないわよ」
「じ、じゃあ……」
おずおずとして部屋に入ると、まず目に飛び込んできたのはうず高く積まれた段ボールと、低い駆動音を上げる大型の冷蔵庫だ。
「そこに座って。座布団はこれね」
差し出された座布団は古式ゆかしいものであり、何だかアンバランスな取り合わせである。
借りてきた猫のように赤緒はちょこんと正座する。
――そして、こちらをもてなすために戸棚を漁るジュリに視点は戻ってくる。
彼女は赤い髪を掻きながら、せんべいとチョコレートの箱をテーブルに置いていた。
「あ、あの……ジュリ先生は、一人暮らし……なんですよね?」
「うーん? そうじゃないように見えるー?」
「い、いえ……」
赤緒の視線はそれとなくベッドへと向いていた。
掛布団が乱雑に敷かれている。
「何見てんの? 赤緒ってば意外とむっつりよねー。そんなに大人の女の私生活が気になるー?」
「い、いえっ! そ、そんなことは……!」
「真っ赤になっちゃって、可愛いー。心配しなくっても今は独り身だってば。コーヒー淹れたげるから、ちょーっと待っててね」
お湯を沸かしている最中、赤緒は話題に困って視線を部屋の隅々に渡らせる。
壁には年代物のロックスターのポスターが貼られ、そこいらに女性物の下着が転がっているところを見るに、思った以上のずぼらな性格なのかもしれない。
「赤緒さー、この間の三者面談。来ていたのってお兄さん?」
「あっ、それはその……保護者の方って言うか……五郎さんは」
三者面談の際、どうしてもジュリとアンヘルメンバーを対面させるわけにはいかないので、五郎に三者面談を頼んだのだ。
何なら南が行きたがっていたが、キョムのメンバーとアンヘルの現リーダーを対立させるわけにはいかない。
「へー、保護者の? あんたって神社で普段は何してるの? お手伝い?」
「あっ、はい。巫女として働いてます……」
「じゃあ、将来は巫女さん? それとも、アンヘルの操主として私たちと戦い続けるのかしらねぇ」
「そ、それは……」
三者面談でもぼやかした部分ではある。
アンヘルの操主としての業務は普段はひた隠しにしているので、如何にジュリが事情を知っていようとも言えないこともあった。
「けれど、あんたもさぁ。お人好しって言うか、私は生徒の誰に持ってこさせるかって聞かれて、ぼんやりしたまま赤緒って言ったんだけれど本当に来るなんてねぇ。これは一個借りができちゃったと思うべきなのかしらね」
「い、いえ……そんなの――」
言いかけてお湯が沸いたのかポットが甲高い音を発する。
ジュリが台所から二人分のマグカップを手に寝室へと戻って来ていた。
簡素な六畳間の中央に小さなテーブルがあり、奥にはテレビが置かれている。
「……もっといい部屋に住んでるんだとか思ってた?」
こちらの視線を読んだのか、赤緒は見透かされて羞恥に顔を伏せる。
「そ、それはその……」
「いいわよ。ここだって経歴だとかを洗われないように選んだんだし。それに、狭いけれどいい部屋よ? あんたも将来、一人暮らしするんなら参考にするといいわ」
ずずっ、とジュリがコーヒーをすする。
赤緒もそれに倣ってコーヒーに口をつけると、想定外の香りが鼻孔を抜けていた。
「……美味しい……」
「でしょ? 私、これでも結構コーヒー淹れるの上手いのよね。テストとか作りながらよく飲んでいるもんだし」
ジュリはせんべいを頬張ってからこちらをじとっと見つめる。
「……な、何ですか……?」
「赤緒。封筒の中、見た?」
「み、見てませんよ……」
「そっ。それならよかった。明日の歴史の小テストが公平じゃなくなるからね」
ジュリはこちらの眼を気にする様子もなく、小テストの原本を取り出して確認しつつ、胡坐を掻いて欠伸を噛み殺す。
「……あの、ジュリ先生? ちょっと、何て言うか……」
「なに? もしかしてだらしがないとか言うつもり? 言うようになったわねー、赤緒も」
ついつい普段の柊神社でエルニィやルイに注意する癖がついているせいで、この場でも言いかけて赤緒は口を噤む。
「い、いえ……」
「ふぅーん。ねぇ、赤緒。普段は何してるわけ? 勉強だとかばっかりじゃないでしょ」
「そ、それは……」
反射的に言い澱む。
その理由をジュリは悟って、ああ、と得心していた。
「そういや、私と赤緒は敵同士だったわね」
本当に、今しがた思い出したような言い草であった。
何だかそうやって馬鹿にされているのではないのだろうかと勘繰るが、ジュリは自然体で小テストを仕上げていく。
「自分の部屋だからって、別に攻撃的にはならないってば。それに、そういう点じゃ逆じゃない?」
「ぎ、逆って……?」
マグカップを優雅に傾けつつ、ジュリはウインクしてみせる。
「教師やってる時はその役割だし、人機に乗っている時はその役割。でも、ここは誰の眼もないんだからさ。八城ジュリとして、赤緒とは対等な人間として接しているわけ。それとも、赤緒はどんな時でも私とは敵だって言うの?」
「そ、そこまでは……」
正直なところで言えばジュリとはあからさまに敵対したくない。
担任であるのは真実であるし、三者面談のような学校行事には真面目に取り組んでくれている。
今だって、歴史の小テストなんて別に本気にならなくっていいところで、きちんと職務を全うしている。
それは――キョムだと知らなければ本当に、何でもなく話せてしまう関係性のようで。
「私は、さ。別に理想の教師だとかになるつもりもないし、キョムとしてあんたの理想の敵になるつもりもないのよ。ここじゃ、ただの人間だし。それに教師って言うのは生徒の疑問や悩みには答えるものでしょ? 柊赤緒さん?」
改まって問い返されて赤緒はまごついてしまう。
「あ、でも……」
「でも? 赤緒さ、もっと肩の力を抜きなさいよ。別に赤緒が普段何をしているかを聞き出したからって、私がどうこうするわけじゃないし。それでも信用できないって言うんなら……そうだ。赤緒が普段何やってるかを教えてくれたら、今チェックしている歴史の小テストの問題を一個教えてあげる。それでフェアじゃない?」
「そ、それってぇ……よくないですよ、先生として」
「そう? 私のことをキョムの八将陣として警戒しているのなら、むしろ破格の条件だと思うけれど。まぁ、いいや。じゃあ、赤緒は何になりたいのよ」
「……それ、言わないと駄目ですか?」
「ん? ああ、これって三者面談みたいだった? 別にいいじゃないの。内申点には響かないし。ちょっとした興味って奴。……私はね、察しはつくかもしれないけれど日系人じゃないのよね」
それは初めて聞く情報だった。
「八城ジュリ」と言う名前なのだから、日本人かそれに連なる血筋だと思い込んでいたのもある。
「……ジュリ先生は……」
「まぁ、ちょっとした紛争地に生まれちゃって。そこでまぁまぁ大変な目に遭って。それで子供も居たんだけれど」