「えっ……? ジュリ先生、お子さんが……?」
「何よ。信じられないみたいな顔しちゃってさ」
「いや、だってまだ若いのに……」
「……それくらい、まぁ人間だと思われていない境遇だったってわけよ」
そこで赤緒は息を呑む。
どれだけの地獄を見てきたのだろう。
どれだけ過酷な人生を送って来たのだろう。
ジュリの瞳はこの時、昏く沈んでいた。
「……ま、そういう昔話はいっかぁ。学びは大事なのよ? 赤緒。人間、生まれ育った環境で全てが決まってしまう。日本に来て、私はちょっと拍子抜けって言うか、びっくりしちゃったくらいだもん。こんなに平和で、こんなに穏やかな場所があったんだって」
「……それなのに、ジュリ先生はキョムなんですね……」
「まぁね。地獄のような日々を生きていたら、黒い子に導かれて、人機操主になって……そっから先は、まぁ似たり寄ったりかな。紛争地に赴いたり、ロストライフを先導したり」
「何でですか……」
「うん? 何でって?」
「だって……ジュリ先生だって辛かったんですよね? だって言うのに……何で……」
「何でキョムに、か。……いいことを教えてあげる。赤緒、この世界はそんなにいいバランスでできているわけじゃない。所詮、ヒトのすること、ヒトの作り上げてきた世界。歴史なんかを紐解くと一目瞭然よね。とても危うい綱渡りを、私たちはしてきた。けれど、あの戦争も、あの地獄も、教科書にしてしまえば一文でしかない。一行に集約される、ただの価値でしかないのよ。ひょっとすると今の戦いもそうかもね。終わってしまえば、一行一文でしかないのかもしれない。そう思っちゃうとね、私だって大きな流れの中の一つでしかないんだって思えるのよね」
言葉もなかった。
彼女はキョムの八将陣。
この世界を邪悪に回す側となった存在。
だと言うのに、そう語るジュリの瞳はどこか不完全で、不安定で。
きっと、自己矛盾にはとうの昔に気付いているのだろう。
どうすれば正解だったか。
どうすれば最適だったか。
そんな益体のないものを追い求めて、そうして自分をすり減らしていく。
ある意味では、教職もジュリにとっては逃避なのかもしれない。
自分の存在意義を、どこかに求めて。
自分の生きていい理由を、誰かにも止めて。
――でも、そんなものは最初から必要ないのだ。
少なくとも自分はそう思う。
たった三年間でしかない自分でも、誰かより劣っているわけでもなければ、誰かよりも優れているわけでもない。
ただただ、自分の人生を辿っていくだけだ。
だから、これはほんの気紛れ。
ほんの、戯言。
「……でもジュリ先生は、こうして私と顔を突き合わせて喋ってくれるじゃないですか。戦争じゃない、殺し合いとかじゃない。……喋ってくれるのって、すごく大事なんだと……そう思うんです」
「私があんたから情報だけ引き出そうとしても?」
赤緒は強く頷き返す。
「……構いません。だって私、もうジュリ先生のこと、好きになりかけているんですから」
一拍置いて、ジュリは頬杖をつく。
「好きに、ねぇ……私、どっちもイケるクチだけれどそういうこと?」
「そ、そうじゃないですってば! もうっ! ジュリ先生のえっち!」
「冗談だってば、半分くらいは。……けれどね、赤緒。ヒトを好きになるって言うのは、簡単なようでとても難しいのよ。それこそ人生を背負うんだからね。今の赤緒には……想い人は居るのかしらね?」
値踏みするような視線に赤緒は隠し切れないような気がして話題を切り替える。
「じ、ジュリ先生っ! 部屋の掃除をしましょう! そうじゃないと、このままじゃゴミ屋敷ですよ!」
「えーっ、めんどいー。って言うか、別に困ってないしー」
「大人として! ……ちゃんとしてくださいよ」
「上手い具合に赤緒が掃除してくれないかなぁ」
「そうは問屋が卸しません! 部屋の掃除、始めちゃいましょう!」
「いいけれど……これでも病み上がり……」
「それだけ元気なら大丈夫でしょう! いいからやりますよ!」
「うへぇー……赤緒、これで風邪ぶりかえしたんじゃ洒落にならないんだからねー」
「いいですからっ! とにかく掃除しますよ!」
段ボールを運びつつ、赤緒はこの部屋に写真が全くないことに気づいていた。
それはジュリ自身、過去と決別したからか。
あるいは、思い出すような容易い思い出は、彼女の足跡にはなく――。
「ほら、ジュリ先生! ゴミ袋はちゃんと口を結んで捨ててくださいね」
「うーん……赤緒ってば、結構他人のこと、放っておけないのねぇ。お節介って言うか……私は敵なんじゃなかったの?」
「敵味方以前に、ジュリ先生は先生じゃないですか。だったら、ちゃんとしてくださいよ」
その言葉にジュリは少しだけ呆けたようであった。
「……そっか。私、そう言えば先生だった。先生って……こういうことなのねぇ」
「今さらじゃないですか? ジュリ先生はちゃんと……先生としてやっていると思いますし」
ジュリは段ボールを持ち上げてから、そっとこちらへと振り返って手を伸ばす。
そのまま頬っぺたをつままれてしまって、赤緒は狼狽する。
「ふぇっ……?」
「赤緒のクセに、分かった風なこと言い過ぎよ。大人には大人の大変さがあるんだからねー」
段ボールを片づけていくジュリの背中を眺めつつ、赤緒は呟く。
「大人、か……。いずれは私も大人に……なれるのかな……?」
――翌日にはジュリは問題なく学校に現れ、予定通り歴史の小テストを行った後に、こちらを呼びつけていた。
「柊赤緒さん! ちょっとこっちに来なさい」
「えっ……私?」
「赤緒ー、あの後どうしたのさ。結局女王バチの部屋で何かあったの?」
「いや……ううん、何もなかったはずだけれど」
「いいから。歩きながら話しましょう」
促されて赤緒は廊下で肩を並べつつ、ジュリを窺う。
「……あんたに言われて、ちょっとハッとしたことがあったわね。私も先生なんだって。これってさ、教師ごっこのつもりだったのもあるんだけれど」
「そう、なんですか……? でも、それならもっと適当でも……」
「そう。テキトーでよかったはずなんだけれど、いつの間にか打ち込んでいた。それってさ、後悔のないように自分で自分を、鼓舞するってことだったのかもね。あんたに気づかされたわ、赤緒。その点じゃ、ちょっと感謝ね」
「あの……もう風邪は大丈夫なんですか?」
「それこそ杞憂よ。赤緒、あんたの担任は風邪なんかじゃへこたれないでしょう? だったら教師ごっこはきっといつの日にか……ちゃんとした自分だけの理由になるのかもね。それこそ、譲れない……」
「ジュリ先生……?」
ジュリはすぐに持ち直し、名簿の角で赤緒の頭を小突く。
「とは言え、小テストは厳しく採点するからね。赤緒、あんたは歴史も苦手っぽいから、今度の三者面談までに勉強すること! いいわね?」
赤緒はカツカツと廊下を歩いていくジュリの背中を見送っていた。
彼女にとっては何でもない、空っぽの演じるばかりの日々がいつの日か本物になると言うのならば、それはきっと得難いことだろう。
「……ジュリ先生の思い出の一部に……私もなれるのかな……」
背筋をピンと伸ばしたジュリの姿は決して、「ごっこ」などではない。
本物の教師人生がきっと、この先も待っているはずなのだから――。