「あの……どうしたんでしょう、ヴァネットさん……」
「ああ、あれ? いつもの癇癪じゃないの? って言うか、さつきが今日はお昼には居なかったんだっけ?」
「お昼は買い出しに行ったついでに、その……お兄ちゃんにハンバーガーを奢ってもらいまして」
「ふぅーん、両兵もさつきには甘いなぁ。ま、ちょっとした文化の違いって奴なのかもね」
エルニィの意味ありげな発言をさつきは真剣に考え込む。
「文化の違い……でも、ヴァネットさんって最初のほうに比べれば歩み寄ってくれている感じって言うか、最近はそんなこともなかったじゃないですか」
「まぁ、そうなんだけれど、お昼に出したのが悪かったね。あれに意固地になるメルJもメルJだけれど」
エルニィは筐体を弄りながら、赤緒たちの言い争いには我関せずのスタンスを取っていた。
「だから、あれは食わんと言っているのだ」
「何でですかっ! ちゃんと理由を説明してくださいよ!」
「……理由を話すようなことでもない」
「でも、それだと献立に困っちゃうじゃないですか!」
何だか平時よりも二人ともボルテージが上がっているような気がする。
嫌な予感は直後には形になっていた。
「……分かった。とりあえず、出ていく。日本の食生活は性に合わんと言うことがハッキリと分かったのだからな」
「ええ、どうぞ! 好き嫌いする人は柊神社の敷居を跨がせませんっ!」
二人とも意地になってしまったようで、柊神社から飛び出したメルJを赤緒は追いもしない。
「あ、赤緒さん……? 追ったほうが……」
「……いいんだってば、さつきちゃん。って言うか、私が悪いみたいな感じだし。ヴァネットさんもちょっとは反省してもらわないと」
そこまで悪いことをしたのだろうか。
エルニィへと目線を振り向けると、彼女は肩を竦める。
思わず、さつきは飛び出していた。
「そ、その……説得して来ます……!」
「夕飯までに帰るんだよー」
エルニィは居間で手を振る。
石段を降りたところでメルJは項垂れていた。
「そ、その……! ヴァネットさん!」
「……むっ。さつきか。赤緒の手引きなら、知らんぞ。私は食わんと言っただけだ。……好ましくないとも。それだけで、あそこまで言われるとは思わなかった!」
メルJにしてみても、怒りが頂点に達しているらしい。
こういう時は、話しながら解消するに限る。
さつきは歩きましょうと促していた。
「散歩しながらなら、少しは話す気になれるかもしれないですし」
「……赤緒も何なんだ。ちょっと苦手だから出さないでくれって言っただけなのに……」
どうやら憤懣やるかたない様子のメルJは少しでも赤緒の話を振るとそれだけですねてしまいそうだ。
「じゃあ、その……そうだ! お兄ちゃんに話すとどうですか? その、小河原さんなら少しは解決策を話してくれるかも!」
「……小河原に? だが、あいつとて万能では……」
「いいですから! 行きましょう!」
メルJの手を引いてさつきは河川敷まで早足で駆けていく。
抵抗しないのは彼女自身、話を聞いて欲しいという欲求があったからに違いない。
発見した両兵は河へと釣り糸を垂らしてじっとしていた。
「おに……小河原さん? その、何をしているの?」
「おう、さつきじゃねぇの。何だ? ヴァネットの奴を引き連れて何の用だよ」
「その前に。小河原さんは何を……?」
「何って、今日の晩飯の調達。昼間に使い過ぎちまった。腹いっぱいとは言い難いから、追加だ、追加」
その物言いにさつきは戸惑う。
「お昼にハンバーガー食べたじゃない」
「あれは別腹ってもんだ。そもそも、あんま好きじゃねぇんだよな、あれ。そりゃ、オレはお前らからしてみりゃ、不摂生の極みかもしれんが」
「……もう。カップ麺と何が違うの?」
「大きな違いだぜ? カップ麺は三分待つ間にちゃんと意味があってあったけぇからな」
飢えを凌ぐだけではなく、まさか橋の下で寒さを凌ぐためにも使っているとは思いも寄らない。
「そんな限界な生活をしなくっても……柊神社に来ればお夕飯もあるのに……」
「毎日顔出すのもちと悪ぃだろ。それに、顔出すと黄坂の奴だとか立花だとかに捕まっちまう。あいつら面倒なことばっか言い出すからな」
今、自分が直面しているのも間違いなく面倒の類だ、とさつきは認識してから、どう切り出すべきか悩む。
「そ、その……ね? ちょっとヴァネットさんが困っているらしくって」
「こいつが? ……何したんだよ。どうせ、柊と喧嘩でもしたんだろ?」
「……当たっているのが何気に癪だが……」
両兵は釣り糸を垂らしたまま、肩越しに話を聞く態度にはなっていた。
「釣りってのは存外に待つもんだ。その間に話だけなら聞いてやる。解決だとかは分からんがな」
その段になって、そういえば言い争いの争点を聞いていなかったことにさつきは気付く。
「……ヴァネットさん? その、少しは話してくだされば、ちょっとは気持ちが楽になるかもしれませんし……」
「そうか……? そうならば、コホン……」
メルJはわざわざ座り込み、それから神妙に口を開いていた。
「……昼間のことなんだが……」
「――赤緒ーっ! 今日は赤緒のお昼ご飯でしょー? 楽しみだなぁ、楽しみー!」
エルニィは相変わらずなので、赤緒はせっかくの休日なのにと肩を落とす。
「……立花さん? そろそろ自分でお昼を作るだとか、そういう気持ちにはならないんですか?」
「ならなーい。ボクは食べる専門だし」
エルニィは居間で雑誌のページを捲って寝転がっている。
「だらしないですよっ、それ。ちゃんとしないと、ごろごろしてばっかりじゃ……」
「もう、赤緒ってば大げさだなぁ。ボクは頭脳労働専門なのー」
エルニィはまるで戦力にはならない。
「……あっ、さつきちゃんも出てるんだっけ……」
ならばさつきの助力も得られないだろう。
昼食は簡単に済ませてしまおうと、冷蔵庫の中を覗き込む。
「……えーっと、チャーハンくらいはできるかな……。後は、ちょっとだけ野菜があれば……」
手早くチャーハンを仕上げ、サラダを盛りつけていく。
人数分と言っても自分とエルニィ、それに部屋に居るメルJも入れれば三人だけだ。
「五郎さんも出かけちゃってるし、ルイさんや南さんも……。この三人でお昼って、ちょっとだけ新鮮かも……」
とは言え、手を抜くとエルニィはあれでうるさい。
全くキッチンには立たないのに、口だけは達者なのだから困る。
「最近、さつきちゃん任せだったから……私も頑張らないと……っ!」
チャーハンを三人分の皿に盛り付け、赤緒はサラダと共にテーブルに出していた。
「ヴァネットさーん。ご飯できましたよー」
二階へと呼びかけてから、赤緒は居間でむっとしているエルニィと遭遇する。
「……チャーハン? 赤緒さー、手を抜いてるんじゃないの?」
「冷蔵庫にあったのはそれだけなんだから仕方ないじゃないですか。それに、チャーハンだって立派なお昼ですよ」
「……さつきならもうちょっと工夫してくれるのになぁ……」
「文句があるなら食べないでください。……あっ、ヴァネットさん」
メルJは最近、モデル仕事が立てつづけに入っていたせいで仮眠を取っていたのだろう。
少しだけ寝癖が付いたままである。
「……もう昼か……」
「お疲れ様です、ヴァネットさん。モデル業、大変そうですよね……」
「まぁな……。最近は夜の撮影も増えてきたし……マネージャーは堅実に実績を積み上げていくのが一番いいとアドバイスしてくれるんだが……」
「モデルさんって朝早くに出て夜遅くなんてこともあるんですね……」
メルJは衣装合わせで早朝に出立したかと思えば、夜遅くにフラフラになって帰ってくることも多い。
「……衣装合わせだけならいいんだが、その衣装を取りに都内を行ったり来たりだ。まったく、楽な仕事なんてものはないんだな」
「それって自慢みたいに聞こえるんだけれど……」
エルニィの文句に赤緒はメルJの擁護をしていた。
「何を言ってるんですか! モデルさんは大変なんですよっ! 立花さんももうちょっとヴァネットさんを見習ってください!」
「……メカニックの苦労もちょっとは考えてよね。まぁ、メルJは大変だとは思うよ? 朝早くに出て、夜も十時くらいに帰って来たんじゃ、相当に疲れるだろうし」
そのせいで最近はメルJと食卓を囲むことも少ない。
こうした昼食も限りなく貴重であった。
「ヴァネットさん、せめてお休みはちゃんと休んでくださいね? 私、協力できることならしますので……」
「むっ、すまんな。何だか気を遣わせてしまって……」
メルJは箸がまだ馴染まないだろうと予想して、スプーンとフォークもちゃんと用意している。
「では、いただきます」
「いただきまーす! ……うん、まぁさつきのメニューに比べるとちょっと評価は落ちちゃうけれど、たまには赤緒のチャーハンも悪くないね」
「……もう。下手に舌だけは肥えちゃってるんだからなぁ……。あれ? ヴァネットさん? どうしました?」
どうしてなのだか、メルJは硬直したまま食卓を睨んでいる。
「……赤緒。私はこの昼飯を食わん」
理由なくそう告げて、メルJが席を立とうとしたので赤緒は思わず声をかけていた。
「えっ……その……チャーハン駄目でしたか……?」
「そういうのではないのだが……」
「じゃあ、お腹痛いとか……?」
「いや、身体は何ともないんだが……」
「メルJ、嫌いなのでも入っていたんじゃないの? 駄目だよー、好き嫌いは」
そうならば自分はメルJのことを考えずに献立を立ててしまったのだろうか。
「その……苦手なものがあるのなら、ハッキリと言ってください。次から気を付けられますので……」
「いや、嫌いとか……そういうものじゃなくってな……」
煮え切らない態度に、赤緒は一つずつ問いかけていた。
「チャーハン……その、美味しそうじゃなかったですか?」
「いや、チャーハンが苦手とかではなく……」
「じゃあ、サラダですか?」
見たところサラダに使ったのは生鮮野菜だったので、もしかすると西欧人であるメルJには火を使っていない食事には忌避感があったのかもしれない。
「いや……別に……」
「メルJ、この間普通に刺身食べていたじゃん。生が駄目ってことじゃないでしょー」
では何が気に食わないのだろうか。
赤緒はスプーンとフォークの配慮だろうか、と尋ね直す。
「お箸で食べたかったですか?」
「……いや、その……言うほどじゃない。とにかく、私は食わん」
そこまで頑として何が駄目なのかハッキリと言われないのも、赤緒にとってはプライドを傷つけられたようなものだった。
だからなのか、少しだけ糾弾する物言いになってしまう。
「そ、そんなに私のご飯は食べられませんか……?」
「いや、だからそういうわけでは……」
「そういうことじゃないですか! 食べられないって、何だかヴァネットさん……ワガママですっ!」
「あっ、やべ……赤緒、キレちゃった……?」
その言葉を発したエルニィへと威嚇の目線を振り向けると、彼女は大急ぎでチャーハンを平らげ、サラダも完食する。
「ご、ごちそうさま……。ほ、ほらさ! メルJ、大丈夫だって! チャーハンもサラダも毒なんて入ってないよ……?」
「私が作ったものには毒でも入っていると……?」
一睨みでエルニィは即座に台所へと食べ終わった食器を持って行く。
「そ、そんなことは断じて……。メルJさ、正直に言えば赤緒だって許してくれると思うんだけれど……」
「何度も言わせるな。それは食えんのだと……」
「何でですか? 納豆みたいにちゃんと理由を言ってくださいよ」
以前、納豆を腐っている食べ物だと言ってメルJは嫌煙していたが、それは解消されたはずだ。
「そ、それは……言えん」
何だかその様子が意地を張っているように映って、赤緒は声を張る。
「じゃあ食べないでいいですっ! 好き嫌いはよくないんですよっ!」
「あーあ……オカン発動しちゃったよ……」
「た、食べんと言えば食べんのだ……! 他に理由が要るか?」
「要りますっ! ……さつきちゃんが作ったのならいいんですか?」
「……さつきは関係ないだろうに」
何だかその抗弁が何よりも自分には分かるはずがないと言われているようで、赤緒は拳を固めていた。
「じゃあ、好き嫌いですね! ……もう、いいですっ! 好き嫌いする子にはちゃんと言い聞かせないと!」
「――と言った具合で……言い争いになってしまって……」
その争いの渦中に自分の食事があったことに気づいて、さつきも口を噤む。
「……そ、その……でも赤緒さん、ちゃんと理由を言えば許してくれるんじゃないですか? 理由を言いましょうよ」
「そうだぜ、ヴァネット。今聞いた限りじゃ、お前が意地張っているようにしか思えん。……柊も何だかんだで面倒見過ぎなんだろうが」
両兵は釣竿を肩に担いでちゃんと向き合っていたが、メルJはその理由に関しては口を固く閉ざす。
「それは……言えん。言えば……その、馬鹿だと思われてしまう」
「馬鹿だなんて! ヴァネットさんの理由に馬鹿なんて思いませんよ!」
「そうだ。ちゃんと言え。話はそれからだろうが」
「……絶対に笑わないな?」
言い含められ、さつきと両兵は目を合わせて同時に頷く。
「信じてください! 私たちはヴァネットさんの理由を馬鹿にはしません!」
「おう、その通りだ。何でもいいから言ってみろ。言えば楽になるかもしれん」
「じ、じゃあ、その……。サラダなんだが……」
「生野菜が駄目だとかですか?」
「冷えたサラダが食えンだとかか? あっ、立花みてぇにマヨネーズがねぇと食えねぇとかか?」
確かにエルニィは度の過ぎたマヨネーズ信者だ。
同じく外国人であるメルJもマヨネーズのような調味料がないと食べられないと言うことかもしれない。
しかし、真実はまるで違うところにあった。
「……いや、違って……。トマトが駄目なんだ。プチトマトが……」
頬を紅潮させて放たれた告白に、さつきと両兵は二人して固まる。
「……トマトが……」
「駄目って、そりゃあお前……」
思わず頬が緩みそうになって、メルJの追及が飛ぶ。
「笑わんと言ったな?」
ハッとしてさつきと両兵は今にも笑い出しそうなのを必死に堪える。
「え、ええ……笑いません……」
「あ、ああ……笑わないぜ……」
「……何故、二人して必死に堪えている……。そう言われると思ったから、言い出せなかったんだ」
嘆息をついてメルJは告白したのを後悔しているようであったが、さつきは問い返す。
「でも……何でですか? トマトケチャップだとかは大丈夫ですよね?」
「あ、そうだ。お前、ケチャップだとかは普通に食ってるだろうが」
「そ、それとこれとは別だ……。トマトの……特にプチトマトの青臭さと言うのか……それがどうしても駄目で……」
言わんとしていることは理解できるが、その物言いがまるで子供のそれだったので、さつきは吹き出しそうになる。
「いや、でもそれは……」
「ああ。もうちょっと深刻な理由を考えていただけに……」
「……笑うなよ? お前ら、笑わんと言ったんだからな?」
そう繰り返されると思わず笑いそうになるが、さつきは目を逸らして笑いを堪えていた。
「……ま、まぁ人の好き嫌いはあるものですから。でも、トマトなんて別に、日本特有のものでもないですし」
「……私が故郷で食べていたのはもっとすっきりとした味だったんだ。日本のトマトの、あれは何だ。青臭いだけではなく、何だかちょっと食感も気色が悪いではないか」
「ガキが言うみてぇな理論だな……ったくよ。でも、それならそうと柊に言えばもうちょいマシだったんじゃねぇの?」
「そ、そうですよ。どうしてもトマトだけは食べられないって言えば、赤緒さんだって無理強いしないと思います」
「……直前までモデルの話をしていたものだから、言い出せなかった……」
要は格好つけていた手前、トマトが食べられないなどと言う子供の理屈が通らないと思ったのだろう。
そのすれ違いも、何だか凡庸めいている。
「……トマト自体が嫌いじゃねぇんだろ? たまたまサラダで出てきたから、嫌いな部分がまるっと出てきたもんだから……」
「だ、だが、私は最近、モデル業でアンヘルの仕事をしなかったりや、そうでなくとも夕食時には帰ってこないんだ。……これ以上赤緒の心証を、悪くしたくなかったんだ。それに、これはあいつの言う通り、ワガママだからな……」
確かにプチトマトがどうしても食べられないと言うのは、メルJにとってはただのワガママだろう。
しかし、そのワガママがきっかけで関係性が崩れてしまえば元も子もない。
「……ヴァネットさん。赤緒さんに言いましょうよ。本当はプチトマトが食べられないだけだったって」
「……そ、そんなことを言えるか……。あいつは私がモデル業で成功していると思い込んでるし……夜食も作ってくれているんだ。そんなことで厄介な文句を言い出したと思われたくない……」
なるほど、メルJの側にも理屈はあるわけだ。
しかし、関係がこじれてしまえば、今後はお互いへの理解も難しくなるだろう。
「……ヴァネットさん。下手に格好つけたってしょうがないですよ。誰だって苦手なものくらいありますし……それに、私、ちょっとホッとしました」
「ホッと……? 一体何が……」
「いえ、ヴァネットさん、モデルで成功してすごく立派だなって思っていたので。……ちょっと庶民的なところもあるんだなって、一安心って言うか」
自分の中ではメルJが手の届かないところまで行ってしまったのだと思い込んでいただけに、プチトマトが食べられない程度で喧嘩してくれたのが少し微笑ましくもある。
赤緒にそれが素直に言えないのも、彼女のことを配慮しての結果だろう。
その結果のすれ違いの喧嘩なら、むしろこれまでよりも自分たちと彼女の距離は縮まったと言えるはずだ。
「……怒られるだろうか……」
「怒るでしょうね。赤緒さんは真っ直ぐな人ですから」
「まぁ、間違いなくあいつなら怒るだろうな。……ただ、何つーんだ? それと同時に、ちゃんと安心させてやれ。言葉を交わすのも一個の安心材料だ」
「安心……」