こういう時には、仕入れてもらった本でも読もうかと思っていたのだが、生憎、ちょうど読み終わったばかりだ。
「そうだ。モリビトの設計図見てれば、少しは落ち着いて来るかも」
《モリビト2号》の設計図は以前、ミキシングビルドでプラモを作った際に貰っておいたのだ。
それを取り出すも、うーんと思案する。
「……ここをこうして……ここがこうなってるから……やっぱりちゃんと作り直して、今度こそ初のスクラッチビルドに挑戦したいなぁ……」
そわそわとしてしまって、寝るに寝られない。
こうなってしまえば発想の逆転だと、電気を点けて布団の上でしばらく考え込む。
身体も頭も充分に疲れているはずなのだ。
ならば、電気を点けていれば自然と眠気が訪れるはず。
しかし、どうしてなのかまるで眠くならない。
「……こういう時ってどうしていたっけ……」
日本からベネズエラに運ばれ、そういえば心が休まるような暇もなかった。
思えば、カナイマアンヘルに慣れ始めた、と言う証なのかもしれない。
慣れてしまったから、こういう日もあるのだろう。
だが、明日は両兵と共にいつもの如く訓練だ。
少しでもぼんやりしていれば、どうせ上操主席からどやされるに違いない。
「……両兵ってば、私がちょっとぼんやりしているだけで怒鳴るんだもん。あんまりだよ」
とは言え、人機の操縦は一瞬の気の緩みが命取りになるのは間違いない。
青葉はお腹を押さえてみる。
小腹が空いているからかもしれない。
「……でも、勝手に厨房に入るとそれも怒られちゃうし……お菓子をつまむなんて、両兵やルイじゃないんだから……」
だが、眠れなければ明日に支障が出る。
板チョコくらいはあるかもしれない。
青葉はそっと寝室を出ていた。
足音を殺し、暗く沈んだ宿舎の廊下を歩む。
静まり返った宿舎はまるで別世界のようであった。
差し込むのは純正の月明かりと瞬く星ばかりで、東京の雑多な明かりに慣れた目にしてみれば、真っ暗がりに近い。
ただ、これでも眼は慣れてきたのか、廊下を歩くことに特段の恐れはなかった。
「……一応、懐中電灯は持ってきたけれど……」
普段から夜中にトイレを借りる際などは持ち歩くようにしている。
川本曰く、こういった時に遅れるのが一番危ないとのことだ。
確かに古代人機の強襲もそうならば、誰かと行き遭った際、懐中電灯で一瞬の眩惑はできるかもしれない。
青葉自身、宿舎で寝泊まりする人々に警戒心はまるでなかったが、あちらにしてみても困ると言う。
初日の風呂ではないが、確かにここでは男女比が極端だ。
要らないトラブルを避けるためにも、こうして月明かりの夜に行動するのはよくないのかもしれない。
「……でも、欠伸も出ないんだからなぁ……」
眠気が訪れる様子はまるでない。
やはり、多少何かを腹に入れる必要性はあるだろう。
夕飯はちゃんと食べたのに、こうしていると何だか盗人の気分である。
厨房に辿り着くなり、青葉は素早く戸棚へと手を伸ばしていた。
だが、あと数センチが足りない。
「んーっ……!」
背伸びして必死に戸棚の奥にある茶菓子を探ろうとしたところで、不意打ち気味の懐中電灯の光に照らされていた。
「……誰……?」
「わわ……っ」
よろめいて大仰に尻餅をついてしまう。
こちらを狙い澄ました光に思わず目元を覆っていると、見知った声が響いていた。
「……何だ、青葉じゃないの」
「……って、ルイ? どうしたの、こんな時間に」
ルイが懐中電灯片手にこちらへと歩み寄ってくる。
「それはこっちの台詞。あんた、さては厨房の食べ物を失敬しようとしたわね?」
詰められると、青葉は思わず言い訳を探す。
「そ、その……! ちょっとその……小腹が空いて寝付けなくって……」
「で、お菓子の棚を漁ろうとしたって言うこと」
真実を言われるとぐうの音も出ない。
項垂れていると、ルイは先ほど自分が探っていた棚へと猫のように素早く飛び込んで、二個三個、チョコレート菓子を取り出す。
「……あれ? 何でルイも……」
「何よ。あんたも同じ目的なんでしょう?」
「目的……?」
「夜中にチョコレートを食べると言う、背徳の関係よ」
まさか、思わぬところで同胞呼ばわりされるとは想定外だ。
「……ルイって普段からこういうことしてるの?」
「何よ、悪い?」
心底、何一つ悪いと思っていない声音に、青葉は少しだけ呆れてしまう。
かと言って見咎めるのには目的が同じなだけ性質が悪い。
「……ねぇ、ルイはこういう夜は結構あるの?」
「こういう夜って?」
板チョコを二等分し、ルイは問い返す。
それを受け取って頬張ると、なるほど確かに背徳の甘さだ。
「……寝られないみたいな夜。私ね、カナイマに来てからそういうのは全然なかったんだけれど、今晩が初めてかな」
「どうせ疲れて夜はぐっすりなんでしょ。羨ましい限りね」
舌鋒鋭いルイに辟易しつつも、青葉は厨房から格納庫へと目線を振る。
「……まだお仕事してるんだ……」
「夜に仕上げるとかもあるみたいよ。それと、一応は見張りの意味もあるみたい。《モリビト2号》も《ナナツーウェイ》も、何だかんだであれ一個で国家機密みたいなものらしいから」
確かに人機レベルの技術が流出すれば、それだけで危ういバランスもあるだろう。
「……私、恵まれてるのかな」
「体型は貧相だけれど?」
「そっ……そういう意味じゃないよ……。こうして、さ。カナイマのみんなによくしてもらって、人機の操主に……まだまだ途中だけれど一応成れて。それでモリビトに乗れるように訓練までして……。日本に居た頃に比べたら信じられないもん」
「それを恵まれていると思うかどうかは別よね。差し迫った危機に対して、単純に気持ちの面で鈍くなっているのかもしれないし」
言われてみれば、古代人機の強襲もすっかり慣れたとは言い難いが、ここで暮らす以上、日常の一部になりつつある。
両兵との関係性もそうだ。
相変わらず上操主席から怒鳴られるのは同じだが、《モリビト2号》を動かす時には頼り甲斐のある先輩操主である。
「……私、でも結構楽しいかも……。なんて言うのかな。こういうのってなかなか縁がなかったって言うか、何て言うか」
「友達少なそうだものね、あんた」
グサッと来ることを相変わらず何でもないように言うのだな、と思いながら受け流しつつ、青葉はチョコレートを頬張っていた。
「……でも、ルイはそう言えば何をしに? チョコレートを拝借するだけに来たの?」
そこでルイがびくりと硬直する。
それから思い出したように棚を漁り始めていた。
「……すっかり忘れてたわ。南がカレーパーティーをするから、その材料を持って来いって言われていたんだった」
「か、カレーパーティー……? って、あのカレー?」
「そうよ。他に何があるのよ。えっと、カレーのルーは……」
「で、でもルイ! こんな夜更けだよ?」
「……何よ。夜更けにカレーを食べちゃいけないルールなんてあるわけ?」
それはもちろんないが、そんなことをすると――。
「勝手に食材を持って行くと、整備班のみんなが困っちゃうよ……。それに、カレーなんて結構材料が要るでしょ?」
「ええ、そうね。だから、夜更けに行動しているんじゃないの。回収部隊として普段は決まった量以上は食べられないから、こういう時に言い出すのが南なのよ」
南とルイは回収部隊ヘブンズを運用している手前、資源が大事なのは分かる。
恐らく、今回のような補給以外では切り詰めているのだろう。
「……じゃあ、久しぶりに贅沢ができるって言うこと?」
「まぁ、それみたいなものね。けれど、南はいつだって、みんなが寝静まった頃にカレーを食べるのが好きなのよ。補給でアンヘルに寄る時にはいつでもそうしているわね」
いつでも、と言うことを鑑みるにこれが初めてでもないのだろう。
「……それって何で?」
「あんたがチョコを美味しそうに頬張っていたのと同じ理由じゃないの?」
なるほど、何よりも雄弁にその理由が理解できてしまっていた。
深夜の背徳ほど、ヒトの好奇心を刺激するものもない。
「……けれど、そんなのバレちゃうんじゃないの?」
「まぁ、バレてはいるでしょうね。黙認みたいなものでしょ」
冷蔵庫から鶏肉と豚肉を取り出し、野菜をいくつか抱えたところで思わず青葉は手を貸す。
「……何やってるのよ」
「何って……ルイだけじゃ持てないじゃない」
「……さては美味しいところを貰うつもりね?」
そのような下心はなかったのだが、知ったからには戻れないのだろう。
「……そんなことは……」
「ま、青葉もこうして夜更けに起きたのが運のツキよ。付き合いなさい。それに、南のことだから、あんたが来れば喜ぶわよ」
ルイと共に寝静まった廊下をカレーの具材を抱えて足音を忍ばせる。
ただ単に小腹を満たすために厨房で失敬するだけのつもりだったのだが、随分と大きな話になったものだ。
「……先生とか起きて来ないかな……」
「先生はよく寝ていると思うわ。この時間帯で遭遇するとすれば……」
そこまでルイが口にしたところで、青葉は不意打ち気味に懐中電灯で照らされて硬直する。
まさか、当直の整備班に見つかったか、と爪先まで凍り付いた青葉は直後の声を聞いていた。
「……何だ、青葉かよ。それに黄坂のガキか。……てめぇら何やってンだ? 今はもう深夜三時だぞ?」
「り、両兵かぁ……」
「両兵かとは何だ、その言い草は。ったく、宿舎の見回りも楽じゃねぇっての。ふわぁ……眠ぃ……」
欠伸を噛み殺した両兵に、青葉は何か言い訳を見つけ出そうとして、こちらの抱えているものを指差される。
「何だ、それ。カレーの具材か?」
一発で看破されるとは思っておらず、言葉をなくしているとルイが挙手する。
「……カレー。交渉材料」
「あン? どういうつもりだ?」
「……お腹が空いてないか、っていうことよ」
ぶきっちょなルイの言葉を補足するように青葉も声を発していた。
「これから南さんと深夜のカレーパーティーをするの。……でも見つかっちゃったから……」
さすがにこれはどやされるか、と思っていると両兵は落ち着き払って応じる。
「何だ、まだあれやってたのかよ。……ったく、しょーがねぇなぁ。材料はそんだけか?」
「……水だとか、色々と重たいものはあるけれど」
「よっしゃ。じゃあ力仕事は任せとけ。……ったく、あいつも困ったもんだ」
思ったよりもすんなりと話が進んだので、青葉は目を白黒させる。
「あれ……両兵、知ってるの?」
「知ってるも何も、よくご相伴にゃ預かったもんだぜ。たまーに夜中に腹ぁ減ることがあンだよな。その時とかにな」
まさか両兵までカレーの共犯だとは想定しておらず、青葉は肩の力が抜けたのを感じる。
「……もう。夜中に食べると健康に悪いでしょ?」
「そういう割にゃ、てめぇも手伝ってンじゃねぇの。大方弱みでも握られたか?」
当たらずとも遠からずなので、青葉は押し黙る。
「……材料を集めてちょうだい。南には私から説明しとく」
「おう、頼んだぜ。あいつの夜更けカレー旨いんだよな」
両兵は厨房へと戻っていき、自分とルイは南が待つと言う調理場まで材料を運んでいく。
「……けれど、ちょっと意外……。南さんとルイと……両兵は長いの?」
「それなりに、よ。……大概は小河原さんと南の酒盛り大会になるけれどね」
お酒は二十歳からのはずだったが、ここカナイマアンヘルで日本の法律はあまり意味がないのかもしれないと思い始めていた。
「……ルイ。あのね、カレーってどんな味のを作るの? 辛口だとか、甘口だとか……」
「それは南のその時の好み次第。目が覚めるほどの辛さの時もあれば、優しい味の時もあるわよ」
「それって、南さんの目分量ってこと?」
「と言うよりも、経験則ね。よく回収部隊で野営する時にカレーは作って来たし」
回収部隊ヘブンズのことを、自分はうっすらとしか知らない。
だからなのか、今尋ねればルイは答えてくれるような気がしていた。
「……ルイ。回収部隊は楽しい?」
「大変なことのほうがよっぽど多いわよ。楽しいと思うことなんて十回に一回くらい」
「……でも、十回に一回は楽しいんだ」
「……何が言いたいの?」
立ち止まってルイが目線を振り向ける。
そのエメラルドグリーンの眼差しに浮かんだ詰問の気配に、青葉は思わずうろたえてしまう。
「う、ううん……! 悪い意味とかじゃないの。ただ……私って《モリビト2号》しか知らないし。回収部隊として色んなところを飛び回るのってどんな感じなのかなって……」
「どんなも何もないわよ。同じような苦労が、同じような頻度で回って来るだけ。……まぁ、たまにはお宝を手に入れることもあるけれど、ほとんど空振りね。そんな時に、南はカレーを作ってくれるのよ」
「それが夜更けカレー?」
ルイは首肯して前を進む。
「……気が付いたら星が瞬く夜更けになっているものなのよ。そんな中で、火を焚いて、ゆっくりとした時間の中で食べるカレーはそれなりに美味しい。だから私も不本意ながら協力しているの。悪い?」
ルイの物言いは所々から南への愛情が窺える。
きっと、これまでたくさんの経験を重ねてきたのだろう。
「……ううん、悪いことなんてないよ。何よりも……ルイは南さんのカレーが大好きなんだよね?」
「……恥ずかしい奴」
「……とは言え、だ。これはオレらだけの秘密にしておかねぇとな。ただでさえ、カナイマアンヘルはひっ迫してンだ。そこで資材を持って行く不届き者が居るってなれば、穏やかじゃねぇだろ」
確かに資源の大事さに関してはよく現太の授業でも触れられている通りだ。
「えっと……水がどれくらいあれば何日サバイバルできるか、とかも聞かされるけれど」
「オヤジも一般教養教えてるって言っている割にゃ、結構な専門筋じゃねぇの。ま、その通りだがな。オレらの敵は案外、強い古代人機とかよりも飢えや水の問題だ。人間、腹ぁ減ったまんまで動ける範囲なんざたかが知れてる。その上、水も抜きってなると、もうほとんど地獄の拷問だよな。オレもいっぺん、モリビトで崖から落っこちた時にゃ死ぬかと思ったな」
「その時は両兵はどうしたの?」
「どうって……そン時はまだリバウンドフォールも完成してなかったからな。必死に救難信号打って、座して待つだけさ。それが一番しんどいかもしれん。座っていると、要らんことも考えちまう。腹が減っていると余計だよな。静まり返っているってのが効くってのもあるもんだ」
平時の両兵の様子を思い出せば何だか納得するような、それでも厳しい境遇のような気もする。
考えてみれば、両兵はこれまで《モリビト2号》の上操主として何度も死地に赴いてきたのだろう。