ようやく顔を上げたマキへと勝世は諦めずに声をかける。
「へぇー、上手いじゃないですか。オレも昔は絵を描いていたもんですけれど、お嬢さんほど上手くは描けなかったですよ」
「えっと……だから、誰……ですかね?」
「マキちゃん、すごく警戒していますけれど……」
これまでにないほど、マキは警戒心を注いでいる。
勝世は爽やかな笑顔を浮かべてマキの隣に座ろうとする。
「隣、いいですか? いやー、それにしてもいい夕日だ」
座った勝世からマキがちょうど一人分の距離を取って座り直す。
「あの……私、あの人たち……あっ、友達なんですけれど、そっちで忙しいんで……」
完全に街中でキャッチを断るトーンのマキに、勝世は怯まずに声をかける。
「まぁまぁ! 何ならスケッチ見せてくださいよ。漫画家さんなんですか?」
「……あれで普通なら折れちゃうと思うんですけれど……」
「あいつはしつけぇからな。南米からずーっとそうだったもんだ。……さて、ヴァネット。そろそろ仕込みは上々だろ?」
何を、と思っているとメルJは立ち上がり、つかつかとマキと勝世の下へと歩み寄るなり、ドスの利いた低い声を発していた。
「……その子から離れてもらおうか」
「あ? ……って、ヴァネット、お前何言って――」
勝世の腕をメルJがひねり上げ、一瞬で封殺する。
「黙っていろ。この少女に危害を加えさせるわけにはいかないのでな」
その立ち振る舞い、そして悪漢を一撃で抑えた姿は、まさに理想の――。
「こ、これだよ! これ!」
マキが立ち上がり、スケッチブックへと目にも留まらぬ速度で描き上げていく。
「どういう……」
「赤緒、ありがとっ! 何だか、掴めた気がする……! 目の前で弱者を助けることに何の抵抗もなく、そして報酬も受け取らない! これが……私の理想のクールキャラだよ!」
こちらへと駆け寄って来るなり手を握って何度もぶんぶんと振り回され、赤緒は理解できずに頭上で疑問符を浮かべる。
「えっと……どういう……」
「またね! 赤緒、今回の原稿は会心の出来になりそう……! 楽しみにしておいて!」
そう言い残すや否や、マキは河川敷を駆け上がって帰路につく。
「……もういいだろ。ヴァネット、加減はしたんだろうな?」
「無論だ。……それにしても荒療治を考えたな」
「痛ってて……。ヴァネット、ちょっと本気が過ぎるぜ」
勝世が肩を回してこちらへと歩み寄ってくる。
「お前とて諜報員だろう。きちんと痛めないような封じ方をした」
「……それが厄介だって言ってんだがなぁ」
メルJが勝世と話したことで、両兵の目論みがようやく赤緒にも理解できていた。
「……もしかして小河原さん、はじめから?」
「まぁな。クールな奴ってのは引き立て役ありきだ。ただ単にヴァネットの生活風景を切り取っても、まぁ見れるもんにゃなるだろうが、漫画表現ってのはそうじゃねぇ。リアルにゃあり得ないことが起爆剤になり得るだろ?」
笑みを浮かべた両兵に、何だか担がれたような気がして赤緒は嘆息を漏らす。
「最初から言ってくださいよ……。勝世さん、貧乏くじじゃないですか」
「言えば自然にはならんだろ。それに、こいつのアホっぽさを引き立てるにゃあれくらいじゃねぇとな」
「おいおい……オレはとんだ三枚目を赤緒さんのクラスメイトの前で演じさせられたってことかよ。あっ、赤緒さん。言っておきますけれど、オレはこれでもちゃんと弁えていますからね? 赤緒さんのクラスメイトに言い寄るわけがねぇってのに、こいつって奴は……!」
「だがモテてぇのは本音だろ?」
「そこだけは死ぬほど悔しいが本音だよ、チクショウ……!」
涙を流しながら勝世が項垂れる。
何か悪いことをしてしまっただろうか、と考えているとメルJが呟く。
「漫画家と言うのは私には分からぬ世界だが、リアルなだけでは成り立たないのは窺える。ある意味では夢を売る……私のモデル業と同じだな。理想の側面を見せるのには多少の嘘は必要だろう。だから、な?」
メルJは彼女にしては珍しく悪戯っぽく微笑んで唇の前で指を立てる。
今の舞台裏は、自分たちだけの秘密、と言うことなのだろう。
確かに、漫画家と言う職業が成り立つのは描かれていない側面ではなく、明らかなフィクションとのせめぎ合いなのだろう。
「……じゃあその、今日のことは……」
「私たちだけの、だな。まぁ、クールに振る舞えと言われて困っていたところだ」
そこから先はいつものメルJで、何だか赤緒は安堵したのもある。
「……両兵。今日は上物の酒が入ってんだろ? 後でちゃんと振る舞えよな」
「あいよ。ったく、それにしても。格好がつかねぇ部分は見せねぇ。これが何だかんだ一番大事なのかもな。夢を売るってのはよ」
「――赤緒ー! 今月号に載せてもらえたよー!」
後日、マキが少年誌を学校に持ち込んだので赤緒もそれを同じように読んでいた。
「へぇ……結局クールなキャラってこんな風になったんだ……」
「自分の経験が一番大事ってね! 赤緒には感謝してるんだ、もちろん、あのイギリス人の人と、それに悪漢役を買って出てくれた人にもね!」
その言葉は想定外であったので、赤緒は瞠目する。
「ま、マキちゃん……? もしかして全部、分かって……?」
「まぁ、仕込みが全部だとは思っていないけれど、あんなにいい経験、やっぱりね。安心して! 舞台裏を言い触らすような野暮はしないってば!」
思えばマキも作る側の人間だ。
即興の舞台は見透かされていたのだろう。
赤緒は素直に感嘆しつつ、マキの漫画を泉と共に読みふける。
背の高い暗殺者だと言う設定の金髪の女性キャラが危機一髪のところでヒロインを助ける様は、なるほど、間違いなくクールな立ち振る舞いだ。
「マキちゃん、また一歩、人気漫画家に近づけたんですね」
「赤緒と泉の手助けのお陰だってば! それに……出会いも大事に、ね。今度、このお兄さんをモデルにして主役の漫画、描かせてよ。この人にも興味湧いちゃった!」
マキはどうやら自分が思うよりもずっと大人なのだろう。
「……うん。いずれは、そうだね。マキちゃんの漫画道、私も応援したいな」