「けれど南……ああ、これ、日本から輸入して覚えた知識だったのかもね。私が行く先々で、旗を振ってくれたわ。どういうつもりだったのか、ようやく分かった。あれ、迷わないようにしてくれていたのね」
別段、南のことを思い出すつもりでもなかったが、ルイが幼少時の頃には既に南はいい大人の身分であった。
当然、人機のことも、それに手を引くこともきちんとこなさなければならなかったのだろう。
その手助けになったのが黄色い旗ならばそれはきっと、自分が迷わぬように。
「……南さん。誇らしかったんだと思いますよ? ルイさんをちゃんとその、導けて」
「どうなのかしらね、それも。南なりのぶきっちょな文化の模倣だったのかもしれないし、それに自称天才ほどでもないわよ。どうせ、南はいつだって考えついたことを何となくでやるタイプなんだし」
「……けれど、それがルイさんにとっては大事な記憶なんですね」
「……うっさい。恥ずかしいこと言わないで。さつきのクセに生意気よ」
暮れ始めた空を視界に入れていると、ようやく支度が整ったのか赤緒がエルニィに続いて格納庫から出てくる。
「だから、もっとちゃんと体力作んないと駄目なんだってば。赤緒は普通よりも運動神経ないんだからさ」
「……それを言わないでくださいよー、もうっ。《モリビトZ‐1》乗るのだって大変なのに、《テッチャン》はほとんどマニュアルじゃないですかぁ」
「慣れないとどうしようもないってば。……って、あれ? 何で二人とも帰ってないのさ」
こちらを見つけたエルニィにルイはベンチから立ち上がる。
「別に、何でもないわよ。……自称天才、あの旗はどうしたの?」
「旗……あー、さっきの。持って帰るけれど、要る?」
「そんなの要らな――いいえ、ちょっと寄越しなさい」
手を差し出すとエルニィは首を傾げながら自分へと手渡す。
「赤緒さん。……大変でしたね、《テッチャン》の操縦」
「さつきちゃん、分かってくれる? 本当に大変なんだよー、あれ……。シールさんや月子さんは慣れだって言うし、立花さんだって……無責任に旗を振るし」
「無責任とはとんだ言い草だなぁ。旗を振ったほうがいいってのは日本の文化でしょー?」
「だから、それは……私はよく分かんないんですけれど、小学生とかの話で」
ルイは手にした旗を掲げ、それからさっと振り下ろす。
「黙りなさい、赤緒に自称天才。帰るわよ」
旗を振って全員を促す。
その意味をエルニィと赤緒は分かっていないのか、お互いに視線を交わし合って怪訝そうにするが、さつきは意図が分かったのだろう。
「……そうですね。みんなで帰る時に、迷わないようにしましょう」
「迷わないようにって……そりゃー、迷わないでしょ。ここは東京のど真ん中だよ?」
「いえ、けれどでも……そのために黄色い旗はあるんですから。誰かが一人でも迷ってしまったら、嫌じゃないですか」
「まぁ、それもそうか……。じゃあルイに続くよー」
「私が班長よ。命令権は私にあるわ。さぁ付いてきなさい、従僕たち」
「従僕って……そういうための旗なんだっけ?」
「いえ、そこまでの意味は……」
エルニィと赤緒が言葉を交わしつつ、さつきはちゃんと二人の後に続いて微笑んでいた。
何だか全て見透かされている気分を味わいながら、ルイは帰り道にある屋台のラーメン屋からちょうど出てきたメカニックの三人娘と出くわす。
「おっ、何だよ。あの後すぐに帰ったんじゃなかったのか。……って、何でルイが旗を持ってんだよ」
「今日は私が班長よ。あんたたちも従いなさい」
「何だそれ。ま、腹ぁいっぱいだからちょうどいいか」
「あの、先輩方……今日の勝った分、ほとんど使っちゃって……」
「んだよー、秋。ケチくさいことは言いっこなしだぜー」
手を振るシールに月子は秋の肩をポンと叩く。
「シールちゃん、秋ちゃんに勝って欲しかったんだと思うよ? だからちょっとだけ手を抜いたのかもね」
「……も、もう先輩方とは賭け事はしません……」
しゅんとした秋を月子はフォローしつつ、全員が団子になって柊神社を一路目指す。
「なぁ。あの後《テッチャン》どうしたんだよ。ちゃんと格納庫に戻したんだろうな、エルニィ」
「そりゃー、もちろん。けれど、赤緒ってば酷くってさぁー」
「わ、私がひどいとか言いっこなしじゃないですかぁ……。立花さんだって全然苦労分かってくれませんし……」
「《モリビトZ‐1》の調整は大変だから、赤緒さんも頑張っていると思いますよ? 私もちょっとだけ挑戦しましたし」
「さつきは才能あるから、赤緒とは比べちゃいけないかもなぁ」
ふとこぼしたエルニィの言葉に赤緒は大げさに傷ついて項垂れる。
「わ、私だって頑張ってるのに……」
「赤緒さんっ! ファイト!」
月子がそれを慰める循環を、ルイはふと振り返って目にしていた。
誰もが各々の日常を挟みつつ、自分がそれを先導する。
「……誇らしい、か」
呟いて、ルイは黄色い旗を振っていた。
こうして皆が日常に回帰するのもそうなら、誰もが皆足取りを合わせて帰路につくのも、全て。
自分たちの毎日なのだと実感できる。
さつきはこの感覚には名前がないのかもしれないと言っていた。
何となく今のルイにはそれが分かるような気がしていた。
たとえ順繰りに回ってくるだけの出番だとしても、それでもこの感情は。
仲間たちが迷わないようにする、胸に湧いたちょっとした責任感は。
「……あんたたち。よそ見したり、道草は食わないことね。ちゃんとみんなで……帰るわよ」
「――あっ、黄色い旗じゃないの。へぇー、懐かしい」
軒先に置いたままの黄色い旗を拾い上げた南に、エルニィは問いかける。
「あれ? 南ってでも南米出身でしょ? 日本の文化って聞いたけれど」
「そうねー。これ、でも確か持ち込んできたの川本君だったっけ。日本じゃこれを振って、上級生が登下校の時に下級生が迷わないようにするのよ」
「迷わないようにって……日本の街並みで普通迷う?」
「まぁ、ちょっと分かりづらいか。これ、別に道に迷うって意味だけじゃなくってさ。人生、とか、そういう大きな規模の話でもあるのかもね。進級したばっかりの一年生って、これを振って前を歩く班長の背中を見るから。いつか役割が回って来た時に、それを引き継げるように、みたいな意味合いもあるのかしらね」
「ボクはこれ、黄色いから好きだけれどねー。ブラジルカラーだし」
旗を振る南はふと、そう言えばと口にする。
「ルイにもこれ、やってあげたっけ。それも含めて懐かしいかも」
「カナイマアンヘルで登下校なんて概念あったの?」
「そうじゃなくってさ。カナイマってちょっと間違えると獣道に入ったりするから、小さい頃のルイが危なくないようにってね。本来の用途とは違うかもだけれど、そういう風に使ったこともあったわね」
「……何だか南にとってはそれも思い出の品なんだ?」
頬杖をついたエルニィに南はそうね、と旗を振る。
「思い出、なのかもね。けれど、こんなのが必要な子って、アンヘルに居たっけ?」
「何言ってんのさ。みんなそうじゃん。……ちょっと危なっかしいのもそうだし、何なら手を引かないと駄目なのも居るし、そうだな。思い出とかをちゃんと抱えられないのも居る。かと思ったら賭け事したり、道草食ったり。問題児ばっかりのトーキョーアンヘルを率いるのに黄色い旗は必要でしょ?」
「問題児ばっかりって、あんたもそうでしょ。エルニィ」
「かもねぇ。だからこそ、黄色い旗を振る人間が要るんだと思うよ? 誰かが旗を振っている間は迷わずに済むからね」
南は夏の気配をはらみはじめた夜風にすっと旗を掲げる。
黄色い旗は宵闇でもよく映えてはためいていた。
「そうね……どんな時でも、迷ったりしないように。誰かが旗を振って、その後に続く。そんな関係性が、もしかすると理想なのかもね」
「それに、アンヘルのみんなって結局のところガキンチョだし。旗を振る役目は、南? それとも、両兵とか?」
エルニィの問いかけに南はふふんと鼻を鳴らす。
「馬鹿おっしゃい。今は私や両が旗を振っている立場かもしれないけれど、いずれはあんたたち自身が旗を振るのよ。それがこの黄色い旗の意味なんだからね」
「そりゃー、手厳しいや。いずれは黄色い旗を、か。そんな日が来るのかな」
「きっと、来るわよ。その時に、あんた、迷っているヒマなんてないんだからね? 旗を振る、その時まで、きっと……」
誰一人迷わないように、指針となるものがあればいい未来を描けるはずなのだから――。