メルJは予め塀に上っており、自分の身体を持ち上げてから周囲を見渡していた。
「誰も居ないな?」
「ええ、でもまさか私に言ってくるなんて……ちょっと意外でした」
「そうか? トーキョーアンヘルで最も泳ぎがうまいのはさつきだろう? ならば当然の帰結と言うものだ」
「……でも、ちょっと悪いことしているみたいですよね、これ……」
「セキュリティは全部黙らせておいたんだ、別段、後から咎められることはあるまい」
それは暗に不法侵入と言うのではないか、とさつきは思ったが口には出さないでおく。
「……けれど、自衛隊の駐屯地にプールがあるなんて、よく知っていましたね、ヴァネットさん」
「何度か見たことはあったからな。それに、敷地の下調べを行っておくのは基本中の基本だ」
メルJは月夜に揺らめくプールの水面を撫でる。
しなやかな指先が水飛沫をさらっていた。
「……でも、それなら真っ当な手段で、お昼にやればよかったんじゃ? ここまでやらなくっても……」
「……しょうがないだろう。今回は事が事なんだ。昼間にやると言い出せば、立花や黄坂ルイの眼だってあるだろう」
それはその通りなのであるが、自分をこうして秘密裏に誘ったのも同じ理由なのだろうか。
「……でも、こうしてプール開きの時期でまだよかったですね。ちょっと前ならまだ涼しかったですし」
「まぁ、まだ本格的な夏には早いが、水温もこういう場所では調節されているものだ」
自衛隊のプールは適切な水温であり、温水プールに近かった。
「えっと……じゃあ、その、始めますか……」
少しだけ戸惑いながら口を開くと、メルJも当惑した様子である。
「あ、ああ……よろしく頼む」
さつきは誰の眼もないのを確認してから、割烹着を脱ぎ、中に着込んでいたスクール水着姿になっていた。
メルJもコートをプールサイドに置いて、競泳水着姿になる。
「では、その……泳ぎ方のコーチと言うことで」
「あ、ああ……よろしく頼みたい」
メルJが一礼する。
さつきは、そもそも何故このようなことになったのかを顧みていた。
「――そろそろプールシーズンだよねぇ、さつきー」
軒先で筐体を組み上げつつ、テレビを眺めていたエルニィの言葉にさつきは洗濯物を畳みながら応じる。
「そうですねー。前に海に行った時はちょっと涼しかったですけれど、今ならちょうどいいかもしれません」
「プール開きってことはさ、やっぱり先生とかであるボクも、プールに入れるってことなのかな?」
エルニィは何かと期待しているようだが、そう言えば、とさつきは思い至る。
「立花さん、数学と理科の先生じゃないですか。それと私たちの副担任も、でしたっけ? ……さすがにプールの授業は体育の先生ですよ」
「えーっ! つまんなーい! プールの授業もやるー!」
「……それは学校に言ってくださいよ。私に言われても何もできないんですから」
「じゃあさ! また海とか行かない? 今度こそ、本格的なサマーシーズンって奴でしょ?」
「うーん……いいですけれど、なかなか最近、お休みを取れることも少なくなったんじゃないですか? 平日は学校ですし、休日は訓練じゃないですか」
キョムの脅威は日々、迫っているのだ。
それに自分自身、《ナナツーライト》と《キュワン》の同時並行での操縦訓練はなかなかにハードでもある。
他のメンバーも新型人機のシミュレーションがあるなど、なかなか自由な時間は取れないでいた。
「海はもうちょい先かぁー……。けれどさ、そう言えばさつきっていい成績だったよね、泳ぎが特に」
アンヘルの体力測定の際、アンヘルの中で一番泳ぎが得意だったのだけは自慢の一つではあった。
ルイやエルニィを超えたのはその項目一つであったが、それでも充分に誇りである。
「……まぁ、泳ぎだけは昔から得意でしたから」
「意外だなー。さつきみたいなタイプって泳げないんだと思ってたよ」
「……それって印象だけで言ってます? 泳ぎなら、私だって一人前なんですから」
「そうなって来ると、一番アレなのは赤緒だなぁ。カナヅチなんだもん」
肩を竦めたエルニィにさつきは笑いかける。
「誰だって得意不得意はありますよ。赤緒さんはちゃんと頑張っているじゃないですか。立花さんはその点、一番分かっていると思いましたけれど」
「……そりゃーね。赤緒の頑張りは評価するよ。けれどさ、なんて言うかその、そろそろ梅雨も来るし、そうしたらすぐに夏でしょ? 忙しないなぁ、ジャパンってさ」
「そうですか? 私はこの忙しさ、ちょっと好きですけれどね。この時期特有の夜の匂いだとか、夏が近づくと涼しくなってきて気持ちいいですから」
「変わってるなぁ。いや、さつきはずっと日本だったんだから、それが日本人特有の感覚って奴? ま、どっちにしたってボクの仕事には差し支えはないんだけれど。おっ、メルJが帰って来たみたいだね」
玄関が開いた音がしたので、さつきは居間から顔を覗かせる。
すると、メルJは少しだけ顔を伏せて帰宅していた。
「……ヴァネットさん? 帰って来たのなら、何か言ってくれないと」
「……ん? ああ、さつきか。すまないな、ちょっと気分が……」
「具合でも悪いんですか?」
「いや、少しあってな。仕事上の話でしかないんだが」
「メルJの仕事ってモデルでしょー? いいよねぇ、いい服着られて、色々な雑誌に引っ張りだこじゃん。お金も入って来るんだろうなぁ……」
遠い目になるエルニィはつい最近も赤緒の前で粗相をしたせいでそう言えばお小遣いを減らされる運びになったのだったか、と思い出す。
「……もう、それは立花さんのせいじゃないですか。赤緒さんに後ろから抱きついてびっくりさせちゃったから、って」
「……あれでびっくりする赤緒も赤緒だし、それでお小遣い減らされるの納得いかないんだけれど……」
エルニィとルイの悪戯ぐせも度を過ぎると赤緒が怒るのは定番の流れとなりつつあった。
「……赤緒は居ないんだな」
「あ、今は買い出しで……赤緒さんに用でもありましたか?」
「いや、今は……そうだな。さつき、ちょっといいか?」
「え、私……? でも赤緒さんのほうがいいなら……」
「いや、ちょっと相談事なんだ。……何だ、立花。じとっとこっちを見て」
「……別にー。何でボクは最初からハブられてんのって思っただけー」
「た、立花さん。へそを曲げないでくださいよ」
「へそなんて曲げてないよーだ。……ボクはこっちの筐体を組むのに忙しいから、静かにしてよねー」
すっかり不機嫌モードになったエルニィにさつきは呆れ返る。
「……あれで構って欲しいんですから、立花さんも」
「……立花に相談するのは少し憚られてな」
メルJと共にさつきは台所へと向かっていた。
自室ではないのか、と思っているとメルJが深刻そうに切り出す。
「……その、さつきはそう言えば、泳げたか?」
「はい? ええ、まぁ……数少ない長所って言うか……」
「そこまで謙遜するものでもないだろう。……そうか、そう言えば泳げていたな、この間の体力測定で」
「あの……ヴァネットさんも泳げますよね? 何で私に聞くんです?」
「いや、そのだな。えっと……」
何故なのだかもじもじとするメルJにさつきは問いかけていた。
「……もしかして、モデル業と何か関係が?」
「……まぁ、そうなんだ。分かってしまうか?」
「あれだけ暗い顔で帰って来たと言うことは、お仕事で何かあったのかな、とは。……でもモデルさんって泳げるとか関係あるんですか?」
メルJは渋い顔をしてコートの内側に仕舞っていた雑誌を差し出す。
それを手に取って捲ると「夏の水着モデル特集!」と銘打たれた見開きが続いていた。
「へぇー……皆さんスタイルがいいんですね……あれ? これってヴァネットさん?」
次回の特集欄には白い競泳水着のメルJが写り込んでいる。
「み、見るな、あまり……。その、変じゃないだろうか?」
「いえ、それどころか……とってもお似合いじゃないですか」
メルJは背丈が高くすらっとしているのもあって、競泳水着がよく似合っている。
しかし、当の彼女は暗い面持ちをしていた。
「……その、だな。競泳水着を着てみたまではよかったのだが……。マネージャーに泳ぎに自信はあるか、と聞かれてしまって」
「泳ぎに……? あれ? でも泳げますよね?」
体力測定の際、普通に水泳はこなしていたはずだ。
しかし、メルJは頭を振る。
「……撮影現場で……緊張し過ぎて泳ぎ方を忘れてしまったんだ。それで泳げないのなら、次の撮影までに泳ぎの練習をするように、と言われてしまっていてな。……赤緒なら泳げない人間の気持ちが分かるはずだから、一緒に、と思っていたんだが……」
頬を紅潮させたメルJの告白に、さつきは戸惑いを隠せないでいた。
まさか、メルJほどの落ち着き払った人物が緊張で泳げなくなるなど想像もできない。
「……でも、それを私に話してくださった、ということは……」
「あ、ああ……泳ぎを、その、教えて欲しいんだ。いいだろうか、さつき」
頬を掻いて途切れ途切れに提案するメルJに、さつきは思案する。
「でも……どこで練習しましょうか。泳ぎ方ってなると、やっぱり一度立花さんに話を通して、それで練習の場を――」
「ま、待ってくれ! 立花には……言わないでもらえると助かる。格好悪いだろう? モデル業をやっているのに、今さら泳ぎ方が分からなくなってしまった、など……」
確かにエルニィは格好の叩き文句にして来そうではある。
「……でも、じゃあどうしましょうか……。プールなんて、誰にも気づかれずに使うって言うのはなかなか……」
「一箇所だけ。心当たりがある。その、今夜あたり……付き合ってもらえないだろうか? さつき、お前は泳ぎが上手かったはずだな?」
「う、上手いだなんて……。ちょっと他人よりもできるって言うだけで……」
「それが必要なんだ。今の私には、誰よりも……!」
熱っぽい眼差しで懇願されてしまうと、自分の性格では断れない。
さつきは少しだけ困惑しながらも承諾していた。
「わ、分かりましたよ……。でも、夜にやっているプールなんて、あるんですか?」
「――……って言っていたら、まさか自衛隊の駐屯地のプールだったなんて……」
「さ、さつき……。バタ足はできているだろうか……?」
不安そうにバタ足を行うメルJの手を引いて、さつきは二十五メートルのプールで先導する。
「大丈夫ですよ。それどころか……教える必要がないくらい、上手いじゃないですか」
「い、今はお前だけが見ているから……かもしれん。実際、モデルの現場に行くと、ほとんど動けなくなってしまうんだ。普段ならばカメラマンの指示に従って立っていればいいのだが……泳ぎも込みとなれば事情は変わってくる」
何だか今日のメルJは少しだけ弱気で、可愛げもある。
普段はあれだけクールに振る舞っていても、やはり苦手なことの一つや二つはあるのだな、と思えてくるのだ。
「……でも、泳ぎなんてなかなか教えられることじゃないですから、ちょっと嬉しいかも」
「嬉しい、か?」
「私でも役に立てるんだなぁ、って思いまして。……普段は足を引っ張ってるような気もしちゃいますから」
「……そんなことはない。お前だってよく頑張っているじゃないか。新型機の試験や、それに学業との並行もあると聞いている。何も卑下することはないんじゃないか?」
「そう……ですかね。でも私がヴァネットさんに教えられることがあるなんて思ってもみなかったですから」
「……少なくとも今は私にとっては一番の教師だ。謙遜しないで欲しい」
「……私が、ヴァネットさんの先生、ですか……」
何だか想像できないと思っていると、メルJの身体が沈みそうになる。
「わぷ……っ! さ、さつき……! 溺れる……!」
「わわっ……! ヴァネットさん、落ち着いてください! 落ち着いて、余計なことは考えずに、力を抜けば自然と浮きますから!」
その教え通りにメルJは力を抜こうとするが、そもそも自分よりも背も高い生徒なのだ。
なかなか難しいらしく、バタ足は中断の運びとなった。
メルJはプールに足をつき、何度か転びそうになりつつも自分が手を引いて誘導する。
「……何故なのだろう。以前までは考えなくともある程度身体は動いたのに……」
プールサイドで月明かりを浴びるメルJはまるで精緻な芸術品のようであった。
普段から見慣れている同性の自分から見てもそうなのだから、雑誌の読者はドギマギとするだろう。
「……その、力が入り過ぎている感じがします。人間の身体って、水面に対してもがけばもがくほど不利になっちゃいますから、必要以上の力はできるだけ抜いて、リラックスしましょう」
「リラックス、か。……それができればいいのだがな……」
金髪が水気を纏って、きらきらと輝く。
麗しいとは、まさにこのような様を言うのだと思えてくる。
「……ヴァネットさんは、お仕事、大変だと思われることもあるんですか?」
二人っきりでこんな機会はなかなか訪れないかもしれない、とさつきはそれとなくメルJへと問いかけていた。
「まぁ、大変と言えばそうだな……慣れんことばかりだ。人機に乗って戦っていればよかった日々とはまるで違うな」
「……後悔とか、してるんですか?」
「後悔、か。……いや、それはしていない。ハッキリと言える。私はこの職業に……誇りみたいなものを抱き始めているのかもしれん。……可笑しいだろう? トリガーを引くほうが何倍も身に馴染んだ所作だと言うのに、何だかんだでこういった非日常を捨て切れんのだ。モデルなんてガラじゃないと言われてしまえばそこまでだが……」
「いえ、私はヴァネットさんのモデル業……応援したいです。だってとっても……その、綺麗だから……」
てらいのない感想を述べたつもりであったが、彼女は自嘲する。
「綺麗……か。そう言われるのも何でなのだろうな。悪い気はしなくなって来てるんだ。前までなら、チャラついたことなんて言うなと断じていたところなんだがな」
きっとメルJは今の仕事を好きになろうとしているに違いない。
だからこそ、迷うのだろう。
好きになるのには、ただの憧れや適切かどうかだけでは難しいから。
プールサイドで三角座りをしたさつきは、ぽつり、と口にする。
「……昔、なんですけれど、お兄ちゃん……あ、小河原さんじゃなくって本当のお兄ちゃんが……褒めてくれたんです。泳ぎのこと」
「さつきの泳ぎをか?」
「……はい。さつきは泳ぎがとっても上手だね、って。別に特別習い事をしていたわけでもないんですけれど、泳ぎだけは誰かに誇れる自分自身だなって、思っていたので。それだから、なのかな……。泳ぐのは何だか……ちょっと大げさかもしれないけれど自己表現みたいな感じで。泳いでいる間だけは、何もかも忘れられるって言うか、無心になれるんです。私は泳ぐぞーって思って泳いでいるわけじゃないって言うか……それこそ水と一体化するみたいで心地いいって言うか。きっと、そんな感じなんでしょうね。好きになるってそういう、理屈じゃない部分の話だと思うんです」