JINKI 264 ナイショの水泳授業

「……理屈ではない、か。そうなのだろうか……私は今の、モデル業を、好きになろうと思えているのだろうか」

「きっとそうですよ。そうじゃないと努力なんてしませんし……緊張するのも、多分ですけれど、ヴァネットさんの中で向上心みたいなのがあって、それで時々、上手くいかないこともある、みたいな。……あっ、ちょっと偉そうなこと言っちゃいました、かね……」

「……いいや。今の私には必要な言葉だ。何だかんだで好きだから、もっと上を目指したいから、か。好きと言うのは恐ろしいな。一面じゃ呪いにもなると言うのは」

「ええ、でもだからこそ……すごいパワーも出ると思うんです。それって何だか……素敵なことじゃないですか? 自分の中にある、大きなうねりみたいなの。そこに自分でも想像できないくらい大きな力が働いて。それで前に進めるんだって言うのは私、とっても尊いことだなって思えてきて。それは人機の操縦もそうですけれど、こうするんだって決めたことを、一直線にやり抜くのって多分、すごく難しいんですよ」

 難しい、何度も壁に躓く。

 でも、だからこそ――超えた時の達成感は自分でしか味わえないのだろう。

 さつきはプールサイドに寝転んで天井から差す月光に目を細める。

 こんなにも綺麗な月夜に、二人分の吐息しかない。

「……もう少し練習したい。いいか?」

「もちろんです。それに……何だかヴァネットさんとこうして、ちゃんと話して、ちゃんとお互いのことを言い合えるのってあまりなかったかも」

「私は何と言うか……お前になら少し弱いところを見せても、いいんじゃないかって思えたんだ。何でなんだろうな。泳ぎが上手いからだけじゃない。そういう風に……誰かを導けるのはきっと、才能なんだろうさ」

「私の才能……ですか?」

「ああ。現にお前のコーチで、私は少しずつだが泳ぎを思い出しつつある。それに、だ」

 メルJが手を伸ばす。

 さつきはその手を取って起き上がっていた。

 明かりもない月明かりだけの静謐なプールサイドで、メルJが微笑みかける。

「先生と呼べる相手は、私の人生では少ない経験でな。今日は頼むぞ。“さつき先生”」

「私が……先生……?」

 不思議な気分であったが、嫌な心地ではない。

 むしろ、満たされたような。

「……泳ぎは一朝一夕の代物ではないのだろうが、私はお前がアンヘルでは一番、泳ぎが上手いから買ったんだ。さぁ、深夜の水泳授業に付き合ってもらおうか」

 もう一度、メルJはプールへと入る。

 少しだけ緊張が和らいできたのか、先ほどまでより泳げない恐怖は薄らいでいるのがその挙動から窺えた。

 さつきはうんと一呼吸ついてから頷き、プールに揺れる星々と白銀の月を眺める。

 まるで人魚姫のように、しなやかな肢体でメルJはゆっくりと水面へと漕ぎ出す。

 呼吸を整えてから、さつきは踏み込みプールへと飛び込んでいた。

 水飛沫が跳ね、メルJが目を細める。

「……やったな、この!」

 さつきはメルJからの応戦を受け流しつつ、首肯していた。

「やりましょう、ヴァネットさん。……泳げるようになって、モデル業、頑張って欲しいんです」

「……ああ。じゃあ、頼むぞ」

「――さつきさぁー……隠し事してない?」

 軒先で筐体をいじくるエルニィにそう問いかけられ、洗濯物を畳んでいたさつきはどきりと硬直する。

「な、何がです?」

「いや、何となく。……そろそろ泳ぎに行きたいなー」

「梅雨明けまで待ちましょうよ。水着とかもその時にみんなの分を買って」

「……うーん、そうなんだけれどさぁ。屋内プールってあるじゃん? 自衛隊の駐屯地に」

 またしてもさつきは不自然に硬直してしまう。

「そ、そうなんです、か……?」

「うん、あるんだよ。まぁ、それなら温水だし? シーズン入る前に遊べるんじゃないかって思うんだけれど、どうかな?」

「そ、そうですねぇー……いいんじゃないですか?」

 目線が泳ぎ出しているのをエルニィは看過していないはずがないが、彼女は筐体の作業に戻っていた。

「……まぁ、ほどほどにね」

 見透かされているな、と思いつつ、さつきは洗濯物を畳んでいると玄関が開く音がする。

「……あれ? この時間だと……メルJかな?」

「わ、私! ちょっと見てきますね!」

 ぱたぱたと玄関先までメルJを出迎えたさつきは、彼女に尋ねる。

「ど、どうでした? 撮影……」

「あ、ああ……そのことなんだが……ちょっと台所まで、いいか?」

 足音を殺してメルJとさつきは台所に向かうと、コートの内側から雑誌を取り出される。

 さっとページを捲ると――そこにあったのは本来、白い競泳水着を纏ったメルJが遊泳している様子が撮影されているはずだったが。

「あれ? これって……」

「……撮影のほうの気が変わったらしくってな。カッコいいモデルよりも、そういったものが好まれるのだと。ギャップ? なんだとか。分からんことを言い出すものだ」

 メルJは次回予告の白い競泳水着ではなく、パステルカラーのビキニを身に纏って子供用プールで水飛沫を向けている。

 営業用の笑顔だったが、微妙に引きつっているのが窺えた。

「……これ……」

「次週のほうで全体通してクールな水泳をやるらしいんだが……今回はそれらしい。まったく、舐められたものだ……いや、そもそもマネージャーの伝達ミスじゃないか? これ」

 オレンジ色の手狭な子供用プールに収まったメルJの姿に、さつきは思わず吹き出す。

「わ、笑うなよ……。これでも仕事なんだ」

「あっ、すいません……。でも、これはこれで貴重なような……」

「……言っておくが、他のメンバーにバラすなよ。私の沽券に係わるのだからな」

 ならば、この号のメルJの無邪気な姿は自分と彼女だけの秘密だろう。

 さつきは唇の前で指を立てて、それを誓う。

「……ええ。ヴァネットさんのこういうの、ちょっと新鮮ですけれど、じゃあ秘密で」

「……それで、でもないんだが……また時期が開いて泳ぎ方を忘れてしまった。……教えてもらえないだろうか、“さつき先生”」

 ふふっ、と悪戯っぽい笑みを浮かべて、頬を紅潮させたメルJへと言葉を投げる。

「いいですよ。何度だって教えてあげます。だって私、あなたの先生ですからっ」

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