そう笑ったことを、おぼろげながら覚えている。
どうしてなのだろうか。
世界は全て、静謐な数式に守られていて。
この世の合理性が全て、手の中にあったようなものなのに。
それでも、最後の一週間、合理性も、利己性も何もかもを捨てて、ただの子供に戻りたいなんて思えたのは。
誰かに自分の存在価値を投げるなんて大馬鹿者だ。
何かに自分の利用価値を託すなんて、それこそ損をしている。
だから、だったのか。
分かっての行動ではなかったのかもしれない。
理解できない世界の側面を、知ってしまったからだったのかもしれない。
「次はあれ! ペンギンが見たい!」
「おお、いいとも。ペンギン、だったな」
祖父と走ったその場所を、よく覚えている。
笑って、笑って、何でもないように振る舞って。
けれど、耳が、眼が、自分の十二年程度の経験則が告げる。
――ああ、もうこんなこと、二度とないんだろうな、と。
そう思えたのに、笑えたあの日はきっと、どうかしていたのだろう。
もう二度と帰ってこないと、知っていたというのに。
途端、記憶に靄がかかる。
覚えていたいのに、この思い出は。
醒めれば消えてしまう幻のように、手の中から滑り落ちていくのだった。
「――ペアチケット……ですか?」
「そっ。この間、懇意にしていた先生方のお土産でね。もーらっちゃった!」
エルニィが帰り道で差し出した水族館のペアチケットに、考えることはルイも自分も同じのようで、思わず声に出す。
「……誰と行くんです?」
「誰と行くのよ、自称天才」
「えーっ、まだ決めてなーい! 両兵とでもいいかなーって思ったけれどさ、せっかくの同じ中学なんだし、今回は二人に譲っちゃってもいいかなーって」
エルニィがこうしてチャンスをふいにするのは少し珍しい。
普段ならば自分たちを出し抜いてでも、いい目を見ようとするのが彼女のはずだ。
「……何を考えているの、あんた」
「なーんにも? 何で?」
「……別に。気に入らないって話よ」
ルイは相変わらずの喧嘩腰で、さつきは二人の間を取り持つ。
「ま、まぁまぁ! せっかくの水族館のチケットなんですし、そうですね……立花さんが行きたい方と行くのが一番なんじゃ……?」
「でもさー、ボクはどっちでもいいんだよねー。水族館なんて退屈じゃん? 魚が泳いでいるのを見るよりかは、食べたほうが何十倍も美味しいし……」
「そういう観点で水族館を楽しむ人って稀だとは思うんですけれど……。って言うか、立花さん、それ、誰かに渡しちゃっていいんですか?」
「うん? いいよー、別に。だって興味ないんだもん」
意外であった。
いや、エルニィにだって何にでも首を突っ込むわけではないと言うべきか。
「で、でも貰ったのは立花さんで……」
「あーもうっ。そんなに言うならさつきにあげる。……欲しいなら欲しいって言えばいいのにー」
唇を尖らせてエルニィはペアチケットを自分へと無理やり渡す。
その様子の異様さに、ルイが視線を振り向けて来ていた。
「……妙ね。雨でも降るのかも」
「……梅雨近いですしね……。でも……ちょっと変って言うか」
当のエルニィは流行歌を口ずさみながら帰路についている。
自分とルイはその後ろを少し下がって付いている形だ。
「……さつき。私、こういうおこぼれみたいなのって一番嫌い」
「……ですよね。ルイさんとー、ってちょっと思ったんですけれど」
先に制されてしまえば、それを言うのは憚られる。
とは言え、ほとんど棚からぼた餅の形で手に入った水族館チケットに縋って、では両兵とデートと言うのも何だか悪いことをしている気分になっていた。
「……あのね、さつき。私は別に、あんたがそのチケットをどう使おうと勝手だけれど、ま、後悔しない使い方を選びなさい。それ以上は関知しないわ」
それがルイなりの答えだったのだろう。
エルニィへと追いついて肘で小突く。
二人はいつものようにじゃれ合っているが、エルニィのその笑顔には翳りが見えたのは気のせいだったのだろうか。
「……ペアチケット……か」
「――えっ、さつきちゃん、ペアチケット貰ったんだ」
柊神社の台所にて、赤緒へと相談したのは後ろめたい気持ちがあったからかもしれない。
「はい。水族館……赤緒さんは……」
「私は貰えないよ……。それに、立花さんがさつきちゃんに渡したんなら、さつきちゃんの使いたいようにするべきだと思うし」
「……それ、ルイさんにも言われました。でも、私……これでみんなを出し抜くのは違うと思うんです」
味噌汁の味見をしつつ、さつきは小さくこぼす。
「……立花さんが気になるの?」
「はい。何だかちょっとだけ……いつもの考えなしの行動じゃないような気がして……。私の気のせいかもしれないんですけれど」
「でも、さつきちゃんは立花さんをよく見ているから、何でもない違和感じゃないと思うよ?」
「ですかね……。勝手に先生になって、勝手にテストとか管理されちゃっていますけれど」
「きっと、何かあるんだと思う。私は、さつきちゃんの想い、大事にして欲しいな」
赤緒は大根を切りながら憂いを帯びた眼差しを落としていた。
「……赤緒さんも、立花さんのことは大事に思っていらっしゃいますよね……? 私、何だかこれ……変な予感かもですけれど、簡単に流しちゃいけないと思うんです」
「……さつきちゃんなりの、立花さんへの?」
「……はい。私なんかができることは少ないかもですけれど、トーキョーアンヘルの一員としてできること、ちゃんと模索していきたいですから」
「……けれど、さつきちゃんはよくやっていると思うよ? 人機の操主としてもだし、私たちの仲間としてもそう。何にもできないなんて言わないで。さつきちゃんにしかできないこと、たくさんあるはずだから」
赤緒の優しさに甘えてしまっていいのだろうか。
それとも――自分なりの答えのために、今はエゴを貫くべきなのだろうか。
「……私、ペアチケットの使い道、決めました。これが正解かどうかは、分からないけれど」
赤緒は微笑んで、それを受け入れてくれる。
「うんっ。さつきちゃんの提案はきっと、誰かを幸せにできると思うから」
「――いやー、悪いねー。待った?」
こちらに向けて駆けてきたエルニィはラフな格好で、普段より少しだけ女子力が高い。
「……三十分遅れですよ、立花さん」
「だってぇー、赤緒がせっかくだからこの間買ったの着ろって言うんだもん。南も一緒になっちゃってさー。ボクは着せ替え人形じゃないんだけれどぉー」
文句を垂れるエルニィの格好は白いワンピース姿に青い上着を着込んでいる。
「……何だか今日の立花さん、ちょっと清楚っぽい……」
「そぉーれ。いつもはそうじゃないみたいな言い草なんだけれどぉー」
覗き込むようにしてじとっと睨まれて、さつきは話題を変えるために視線を逸らす。
「そ、そろそろ行きましょうか。水族館」
「……いいけれどさ。さつき、何でボクなんかを誘ったのさ。そのペアチケットをどう使うかは自由って言ったよね?」
「……言われました。だから自由に使ってるんです」
「ふぅーん……。ま、いいけれどさ。暇してたのは事実だし。でもさー、水族館なんて退屈じゃんねぇ? 泳いでるの見るよりかは食べたほうがよっぽど建設的だよ」
「立花さんは、刺身とか大好きですもんね」
「やっぱ、食べるんならサーモンかなぁ。あ、この間食べたかつおのたたきって美味しかったかも!」
「……それ、水族館に入場する前の会話じゃないですよ」
これから魚を見ようと言うのに食べ物の話ばかりになってしまう。
さつきはチケットで入場すると、まず飛び込んできたのはイルカのイラストが跳ねるゲートであった。
「ようこそ、だってさ。イルカは喋んないよ」
「でも、すっごく頭がいいって、この間テレビでやっていましたよ?」
「そう? クジラとかイルカは頭いいって言うけれど、どうなんだろうね。喋ってみれば分かるかも」
まず入場してから水族館の序盤であるところの小さな魚たちの暮らしが再現されている。
「こっちの魚、すごく小さいですね」
「本当にちっこいなぁー。……食べても美味しくなさそう」
「立花さん。食べることから、まずは離れて……。って言うか、食べられない魚みたいですよ、これ」
「……何でもかんでもボクが食べる食欲魔神だとでも思ってる? 食べれないのくらいは知ってるってば」
応答しつつ色とりどりの魚と、そして水中を舞い遊ぶその姿を楽しんでいたのはさつきのほうであった。
「へぇー……この魚は性別が変わるみたいですよ」
「それって男にも女にもなるってこと? 器用なのも居るんだなぁ」
「あっ、こっちのは滅多に顔を出さないとか……」
「あのさー、もしかしてさつきってばおのぼりさん?」
問いかけられ、さつきは頬を掻きつつ応える。
「あっ……分かっちゃいますかね……。水族館に来るのなんて、すごく久しぶりで……。昔、本当に小さい頃、お兄ちゃんが連れて来てくれたのは覚えているんですけれど」
「その時からさつきは、お兄ちゃんっ子だったんだ?」
「……お兄ちゃんは、色んなことを知っていて。でも、その時、本当はすぐにでも日本を離れないといけなかったんです。南米に行っちゃう前に、一回だけ水族館に行こうって……。私、本当は嬉しかったんです。けれど……何ですかね。変にすねちゃって。お兄ちゃんは必死に、私に魚の説明をしてくれて……楽しそうにしてくれていたのに、私はそんな空回りも、嫌になっちゃったって言うか……」
さつきはその時のことを回顧する。
もっと甘えればよかった、もっと兄の話を聞ければよかったと、今さらに考えてしまう。
兄なりの自分への最後の愛情だったのだろう。
一生会えないかもしれない、取り残される自分への精一杯の言葉を、想いを受け入れられなかった。
この時が終われば、兄はもう、自分に振り向いてくれない――その事実だけが浮き彫りになってしまうようでその時間を受け入れたくなかったのかもしれない。
「……さつきにしては珍しいエピソードじゃん」
「その時、一回だけ言っちゃって……。お兄ちゃんはもう、さつきなんて嫌いなんでしょ……って」
タツノオトシゴがふわりと水槽の中で浮かび上がる。
小さく取られた円筒の水のすみかで、その場所でしか生きられないと言うのに、必死に遊泳している。
「……それは結構な話だなぁ。さつきはそれで嫌いって言っちゃったの?」
「……いえ。お兄ちゃんは、“そんなことないよ”って……アイスを買って慰めてくれて……。その時、イルカショーを……大慌てで行ったんですけれど観そびれちゃって。何だか忙しなく、そこから日々は過ぎて行っちゃいまして。……水族館のことは、結局、最後まで謝れなかったなぁ、って」
自分の失敗エピソードを聞いたところで、エルニィには関与しないところだったのかもしれない。
しかし、エルニィは飽きた様子もなく、言葉の穂を継いでいた。
「……後悔、みたいなのがあるんだよね? さつきは」
「そう、かもしれませんね」
「嫌じゃなかったんだ? ボクが水族館に行けば、って言ったの」
その言葉にはきちんと頭を振って否定する。
「だって……立花さんとの思い出、大事にしたいじゃないですか。一回の失敗エピソードで誰かとの関係まで振り解いちゃうのは変ですよ。立花さんは、そういうの、ないんですか?」
「失敗エピソードかぁ……。言っておくけれど、面白みなんてないよ?」
「いいんですよ。だって、私のだって面白くはなかったんですから」
「それは確かに。……じゃあ、ちょうどいいかな。水族館だし」
エルニィは暗色に沈んだ水槽の表面を指先で撫でながら、穏やかな光を放つ地面の光源を踏み締める。
「ボクがブラジルに居たのは、知っているよね? その時……じーちゃんとずっと一緒に住んでいたんだ」
「立花さんの、おじいさん……」
「そっ、ボクの自慢のじーちゃん。立花相指って言って……名前なんてどうだっていいか。その頃、さ。ボクってばちょっとひねていたって言うか、厄介な子供でね。何でも分かっちゃうもんだから、色んなことを引いた目線で見ていたんだ。……たとえば、あそこで楽しそうにしている一家が居るじゃない?」
エルニィが指差した先には一家団らんを楽しむ家族の姿があった。
父母が幼い少女の手を引いている。
「それが何か……」
「ああいうのが……そうだな。縁がなかったって、言えばいいのかな。母親は死んじゃったし、父親には捨てられちゃった。それで誰も引き取り手が居ないって言うんで、じーちゃんのところで過ごしていたんだ」
何故、エルニィはそのような過去を自分に話すのだろうと思いつつ、さつきは黙りこくって続きを待つ。
「でさ、じーちゃんは変な人で……まぁ、ボクみたいなのを引き取るんだから変人なんだけれど、ボクを笑わせようとしてくれて、さ。毎日毎日……ボケ倒すんだ。それで……何日目だったかな。不意にボクは笑っちゃって……その時、ボクは笑うなんてことは、人間の脳が生み出す神経のまやかしみたいなものだと思っていたんだ。だから、笑うなんて機能は人間社会の潤滑油みたいなもので、誰かとのコミュニケーションを円滑にするためだけのシステムなんだろうって。……嫌な子供でしょ?」
問いかけられてもさつきは返事に窮する。
「でも、ボクがやれるもんならやってみろって言う風に言ったもんだから、笑った日からボクの負け。そこから、かな……。じーちゃんの勧めでサッカーやったり、人機のことを少しだけ教えてもらえたり……。それでボクは極東の地でメカニックをやってるんだから、人生よく分かんないよねぇ」
「その……立花さんのおじいさんは……」
エルニィはこの話の終末を、何でもないように打ち明けていた。
「それがね、そんなに時間がしないうちに、ぽっくり死んじゃった。……その後だったっけ。両兵と青葉がボクん家にやってきて、人機に関わるようになったのは」
何も言えなくなっていた。
エルニィの境遇にも、その運命にも。
自分と言う個が言葉を差し挟むのには、あまりにも苛烈で。
なおかつ、彼女と言う人間を構築するのには、その出会いと別れは必然であったのだろう。
エルニィは水族館の館内ライトをまるで定められた舞踊のようにステップし、踏んでいく。
「……でもさ、変な話ついでなんだけれど、じーちゃん、死ぬ前にボクを水族館に連れて行ってくれたんだ」
「……えっ……」
意想外な言葉に硬直していると、エルニィは近場の水槽を指先でなぞる。
「本当に唐突だった。けれど、ボクには何となく、じーちゃんの死期って言うのかな。いつ頃、この人は世を去るんだろうなってのが、分かっちゃっていたから。じーちゃん本人もそうだったのかもしれないけれど、“エル坊、水族館に行くぞ”って言い出して。ボクはじーちゃんに笑わされた、言っちゃえば“一回負け”状態だったもんだから、仕方なしに、すごーくつまんなさそうに付いて行った記憶がある」
エルニィの水族館の思い出が、まさかそのような寂しいものだとは思いも寄らない。
彼女は何でもないようにその後の話を紡ぐ。
「で……まぁ、すごーくつまんないもんだから、じーちゃんが言うんだ。“あれはナポレオンフィッシュって言うんだ”って。ボクもつまんなそうに、返すの。“へぇ”だとか、“どうでもいい”だとか。……そこまでは覚えてないかもだけれど。けれど、何だかすっごく損な態度だったのは、よく覚えてる。……今にして思えば、どういう意地の張り方なんだって話だけれど。きっと、じーちゃんが死ぬ前にボクと孫らしいことをしたかったんだってのは、今なら理解できるんだ。でも、ボクにはそういう……真っ当なコミュニケーションって言うの、全然だったからさ。すごくつんとしていたと思う」
「そのことを……立花さんは後悔しているんですよね?」
「……どうだろ。失敗エピソードって言ったでしょ? だから、この話はお終いなんだと思う。どうしようもない、ボクの取り返しのつかない失敗。どんだけ頑張ったって、じーちゃんは蘇らないし、その時の思い出が取り返せるわけじゃない。だから、これって全然意味ないって言うか――」
その言葉振りが、あまりにも脆く崩れてしまいそうに映ったからなのか。
さつきはエルニィの背中から抱き締めていた。
呼吸が止まる、レイコンマの静寂。
「大丈夫……ですから。私の前で、強くなくったっていいんですよ。だって、立花さんは頑張ったんです。今日までちゃんと……強くあろうって思えたんですから。その時の立花さん本人の思い出を……駄目だなんて思う必要性なんてないんです」
「……何だかなぁ。そう言われちゃうと、立つ瀬ないって言うか。ボクが水族館を嫌だって言ったのは、別にそういう思い出が……。いや、これもウソ、か。そうだったのかもね。……ボクは過去の自分に、負い目を感じているんだ。何であの時、素直になれなかったんだって。もっと言えばよかったじゃないか、もっと甘えればよかったじゃないかって。……馬鹿だよね、こんな考え。ほんの十二年ぽっちしか世の中を知らなかったかつての自分に、何を期待するんだって言う。ごめん、こんなことにさつきを巻き込むつもりでペアチケットだとか言い出したんじゃないんだ。本当だよ? ……本当に、ボクの思い出を塗り替えて欲しいだとか、そういうことを期待したんじゃ……」
「分かってます。……分かって、ますから」
溢れ出す涙を抑えられない。
エルニィは困ったように両手を上げて声にする。
「……何だかなぁ……。何で、さつきが泣くのさ」
「だってぇ……っ。立花さんが泣けないなら、私が泣かなくっちゃ……それがアンヘルの……仲間じゃないですか」
「困るなぁ……。ボク、後ろから女の子に抱き付かれて、勝手に泣かれちゃってるんですけど……」
「あっ……すいません……私……」
勝手にエルニィの痛みを分かった風になっていたのかもしれない。一度離れて涙を拭っていると、エルニィは手を差し出す。
「さつきや赤緒には強く出られないんだからなぁ、もう……。ほら、別に失敗エピソードなんていいんだからさ。ここから成功エピソードに変えて行こうよ。ボクらにはそれができる、そうでしょ?」