「く、口で言ったって駄目なんですってば! その……今日は一緒には帰れないって言うか」
「……さつきのクセに、生意気よ。何だって今日は帰れないって言うの?」
「そ、それは……言ったじゃないですか。図書室に本を返しに行くんだって……」
「そこに私が付いて行ってはいけない理由は?」
「そ、それは……その。あ! そうだ、退屈だから……じゃないですかね?」
「何で自分で言っておいて疑問形なのよ。……まぁ、いいわ。じゃあ自称天才と一緒に買い食いしてくるから」
「あっ、ルイさん……! あまりお小遣いを使うと、赤緒さんに怒られちゃいますよ!」
「知んないわよ、そんなの」
どうやら完全にへそを曲げたらしい。
ルイは入口のところで待ち構えていたエルニィの白衣を引く。
「あれ? いいの? さつきもさー、守ったって得にもなんない校則なんて破っちゃえばいいのにー」
「そ、それ! 先生の立花さんが言っちゃ駄目ですってば!」
「ちぇー。じゃあ、ルイ。今日はボクが奢られる番ねー」
「……あのね、自称天才。今日こそ博打じゃ負けないんだからね」
何だか胡乱な言葉が漏れ聞こえてきたが、さつきは肩を落としてそれを飲み干していた。
「……もうっ。ルイさんも立花さんも、本当は付いて行きたいんですけれど……」
友情は素直に嬉しいが、さつきは図書室へと訪れていた。
「あら? 返却期限は三日も過ぎていますよ」
「そ、そのー……ちょっと今回は二回も読んじゃって……」
「何の弁明にもなっていませんよ、川本さん」
「い、いやー、その……ちょっとした理由がありまして」
「理由があれば図書室の本を延長していいわけではありません。……それとも、私が苛立つのを分かっていて、それでですか?」
黒髪を一本に結い、眼鏡越しの怜悧な瞳を向けた志麻涼子に、さつきは戸惑ってしまう。
「そ、そのですね……。えっと……」
「何です? 私はこれから貸出図書の管理をしてから帰宅しますので。……失礼。本の片づけをしないと放課後に間に合いませんので」
「そ、その……! これ! どうですか、ね……?」
さつきが取り出したのは映画のペアチケットであった。
目の前のそれに志麻涼子は戸惑ったように首を傾げる。
「……何です?」
「え、映画……その、志麻さん、ずっと図書室だから、もしかしたらこの作品! 原作知っているかもですけれど……」
「……あなたが借りていた本ですね」
ちょうど自分が今しがた返却した本の映画化だ。
話題作でもあるファンタジー作品の映画に、志麻涼子は心底理解できないように眼鏡のブリッジを上げる。
「……どういうつもりです?」
「いえ、その……ち、ちゃんと一回! 話してみたくって……志麻さんと……!」
自分が勇気を振り絞れたのはつい数日前の赤緒との会話があった。
「――あれ? さつきちゃん、その本って図書室のだよね?」
操主訓練を終えてさつきはベンチに腰掛けて本を読んでいた。
「あ、はい。……赤緒さんもお疲れ様です」
「あ、うん。でも、話題作だっけ。この間、テレビで紹介していたよ」
「その……これはおススメされた本なんです。思わず読み込んじゃって、実は返却期限を一日過ぎちゃってるんですけれど……」
それでも読み終わる気配はない。
読めば読むほどに染み渡ってくる空想世界の物語は、さつきの気持ちに爽やかな風を通していた。
「そっかぁ……。私、あんまり本とか読めないから、さつきちゃんのそういうところ、羨ましいかも」
「赤緒さんもどうです? 本っていいものですよ。いつでも違う世界に連れて行ってくれるんですから」
「うーん……私、国語の成績もよくないしなぁ……」
「でも、これファンタジーですから。取っつきやすいとは思いますけれど」
「あ! でもマキちゃんがそう言えば……!」
そう言って赤緒はポーチを探る。
取り出されたのは映画のペアチケットであった。
「あ……これ、私が今読んでいる……」
「うん! すっごい偶然! マキちゃんが期限までに使えないって言うんで、ペアチケット貰ったの」
「じゃあ、赤緒さん。それで映画を観に行ってくださいよ。きっと面白いですから」
「うーん、でもこの日程だと、訓練と被っちゃうから。……うん、さつきちゃんにあげる」
「そ、そんなの悪いですよ……」
「いいんだってば! ルイさんとでも観に行ってくれれば、それで少しは話題作りにでもなるだろうし」
ペアチケットの題材である映画はしかし、ルイはあまり興味を持たないであろう海外物のファンタジー作品。
そう言えば、とさつきの脳裏を過ったのは志麻涼子の姿であった。
いつも図書室で静かな面持ちを湛えている、深窓の令嬢を思わせる横顔。
どうしてなのだろうか。
記憶の中にあるその相貌が、今は酷く寂しく乾いて思えたのは。
「……あの、赤緒さん! 私……この本を勧めてくれた人が居るんです。でも……」
「じゃあその人と一緒に行くといいよ。さつきちゃんの好きに使って!」
しかし、志麻涼子の姿は確か八将陣、シバと瓜二つ。
自分がこうして軽々にプライバシーに踏み込むことで、何かアンヘル側に不利益が発生する可能性がある。
それを、当事者である赤緒には口にできない。
「……その……もし、ですけれど。その人が来てくれるなんてこと、あるのかな……」
ついつい弱気になってしまう自分に、赤緒は両手を握ってくれる。
「大丈夫っ! さつきちゃんの想い、ちゃんと気付いてくれるから! その人がどんな人なのかは知らないけれど、どうでもいい人に本って勧めないと思う。……まぁ、読書家でもない私が言っても説得力って皆無だろうけれど……けれどっ! 頑張って! さつきちゃんの思うようにするのが一番なんだから!」
「赤緒さん……」
自分の懸念はこうして赤緒の想いを踏みにじってしまうかもしれない。
だが、夕映えの校舎でずっと窓の外を眺め続ける少女一人を、救えると言うのならば。
「……分かりました。このペアチケット、絶対に渡してみせます!」
「――シバ。何やってるのよ」
背中にかかった声にシバは髪を解き、眼鏡を外していた。
「……ジュリ、か。こっちの校舎に来るのは確か、不可侵条約とやらに関わって来るのではないのか?」
「そんなの知んないってば。……さっきまでアンヘルの子が居たんでしょ? あんたも酔狂ねぇ。赤緒にさっさと会いに来ちゃえばいいのに」
「そういうわけにもいかんのでな。赤緒には……最も残酷な方程式をくれてやらなければ気が済まんのだが……今はその時ではない」
「それで? 外堀から埋めようって言うの? その映画のチケットはその証拠と思っていいのかしらね」
さつきから差し出された映画のペアチケットにシバは嘆息をつく。
「……無知とは恐ろしいな。それとも……私が八将陣、シバだと分かっていてなのだろうか。こんな見え見えの変装で、騙せてしまうのも」
「……言っておくけれど、あんたそれ、性格悪いわよ? それに、中等部の校舎でわざわざずーっと図書室に居るって言うのもね。何だか婉曲って言うか」
「そうか? 本はいい。本には嘘がない。剥き出しの言葉と知性だ。それをどう使うのかはヒトに託されている。……どう使うのか、か。まるで私そのもののようだ」
ジュリが歩み寄り、自分の肩に手をやる。
「……あんた、まだ気にしてるの? 言っておくけれど、あんたが造られた意味だとか、そういうのに足を取られそうになってるのなら……」
「ジュリ、随分と感傷的だな。それとも、これは同情か? ……どっちも無用な感情だと言わせてもらおう」
「けれど、それ、行くつもりなの?」
「……川本さつきに罠の意図などないだろう」
そう返答するとジュリは興味深そうに微笑む。
「……何だ」
「別っにー。何かあんたも、ちょっとばかし悪意とかからは離れたほうがいいわよ。そのほうがヒトの本質とか言うのに、少しは近づけるのかもね」
「ヒトの本質は隠し切れない暴力性と、そしてお父様が願った野性そのもの。……そうなのだと、私自身は思っているのだがな」
「まるでその子は違う、とでも言いたげね」
「それを見極めるための眼のつもりだ。そして見極めた上で裁決を下すための指だとも」
シバは再び眼鏡をかけ、「志麻涼子」へと変わる。
「そうね。あんたも少しは……ヒトに生まれた意味とか言うの、知ったほうがいいのかもね」
「――ま、間に合ったー……!」
息を切らしてさつきは待ち合わせの噴水公園に訪れると、既に待ちくたびれていた様子の志麻涼子の横顔が視野に入る。
彼女はベンチに腰掛け、文庫本のページをたおやかな指で捲っていた。
黒髪を結い、愁いを帯びた瞳を落とす彼女は紫色の服飾に身を包んでいる。
「十三分四十五秒遅刻です。川本さん」
「ご、ごめんなさい……。その、ちょっと色々ありまして……」
出かける直前になってルイとエルニィに絡まれたことは言わないほうがいいだろう。
困惑に頬を掻いていると志麻涼子はすっと立ち上がる。
そう言えば学校外で会うのは初めてだ。
制服以外を纏ったところを見たことがないさつきは、流麗で清楚なその立ち姿に息を呑んでいた。
眼鏡のブリッジを上げて志麻涼子は歩み出す。
「……あっ、その、怒ってます?」
「怒っていません。それよりも、上映時間に余裕を持っては来ましたが、そんなので間に合うのですか?」
噴水公園の時計を見やると、上映開始までもう十分もない。
「あわわ……っ! い、行きましょう!」
「言われなくってもそのつもりです」
落ち着き払った志麻涼子と共にさつきは街に繰り出していた。
「でも、本当に来てくれたんですね。……何だかんだで断られちゃうかなって思っていましたので」
「何故です? 誘われたのに約束を反故にするような人間だと?」
「あ、いや……その、志麻さんは私の知っている人によく似ているので、そういうのって興味ないのかなって」
自ずと八将陣、シバならばこのような俗事に関心がないような気がしていた。
だが、目の前の少女は志麻涼子なのだ。
ならば、勝手に色眼鏡で見るのも失礼だろう。
「……私もこの原作は好きでずっと追っていますので。個人的な興味です」
「……よかった。志麻さん、ずっと図書室に居ますし、身体も丈夫じゃないのかなって思っていたから」
「休日くらいは図書室から出ることもあります。学校もずっとやっているわけじゃないですし」
その返答に微笑んでいると志麻涼子はじっと見据えてくる。
「……何です? 笑って……」
「あっ、いやー、何ででしょう……。冗談とか言うんだって思って……」
「私も冗談の一つくらいは使えるつもりですが」
「……あ、いや! その……! 私、アンヘル以外だとあんまり友達とか居なかったので……そういうのちょっと新鮮……」
正直に返すと、志麻涼子は凛として歩みを進める。
「映画館は時間通りなのでしょう? 早く行きましょう」
「あ、はい! そうですね……!」
「――どうしたんです? さっきからこっちをじーっと見て」
「あ、いやその……」
ついついまごついてしまう。
映画自体は二時間で纏まった第一章として構築されていたが、その最中、志麻涼子の横顔を眺める時間も多かったのもある。
――もしかして本心では迷惑だったのではないか。
そのような疑念が映画の上映中、ずっとあったのは否めないが、それでも映画のクライマックスシーンで志麻涼子の眼鏡の奥の瞳が揺れたのをさつきは見逃さなかった。
その後、喫茶店で軽食を取ることにした自分はと言うと、目の前でサンドイッチを頬張る志麻涼子の振る舞いをついつい目で追ってしまっているのだ。
「……映画、よかったですね。特に原作の、一巻に相当する部分のディテールには目を瞠るものがあったかと思います」
「あ、そう……ですよね……! 特撮とかは、立花さんのほうが詳しいのかな……ちょっと私には映画の用語とか分かんなかったですけれど、原作のイメージ通りでした!」
「……何です、それ。褒めてるんだかよく分からないですよ」
諌められてさつきは思わず恥じ入ってしまう。
そう言えば、映画館に訪れたのはトーキョーアンヘルに所属してからでは初めてだったのかもしれない。
ルイやエルニィとも来たことがない映画館で、少なからず気になっている少女と二人きりとなれば、どことなく胸も高鳴る。
「……えっと……私、映画の感想とか言い合ったこと、ないかもしれません……」
「そうなんですね。私も映画はほとんど初めてでしたが」
「あれ? そうなんですか? ……都会の映画館ってすごいですよね。人もいっぱいだし、それに……」
「けれど私、あの原作のイメージだとヒロインはもうちょっと気丈な感じだと思ったのですけれど」
「あっ、それは私も……! って、映画の感想会ってこれでいいんですかね?」
「どうなんでしょうね。お互いに映画初心者ですし」
穏やかに微笑む志麻涼子にさつきは時折、この関係がいいものなのかどうかをはかりかねているのを思い浮かべていた。
――志麻涼子は八将陣、シバと同一人物ではないのか。
何度か逡巡はあった。
もし、キョムが日常まで攻めてきているのならば、と。
赤緒の担任教師がキョムであった、と言う報告もある。
なずなのことも油断ならない。
だが、志麻涼子まで嘘、虚飾なのだろうか。
自分の身の回りが嘘ばかりで、そんな世界に生きていくのが正しいのだろうか。
「川本さん?」
小首を傾げた志麻涼子に、さつきは頼んでおいたホットサンドを口に運ぶ。
「……私……志麻さんを誘って、よかったのかなって思っていたかもしれません」
「……それは私が出かけるような性質に見えなかったからですか?」
「いえ、その……。こんなことを唐突に言うのは失礼だとは思ってるんですけれど……。私、何も信じられなくなるのは嫌なんです。だって、信じるから何でも力を持つんだと、そう思うんですから。少なくとも私は……東京に来て、柊神社でみんなと過ごして……信じて来ました。色んな仕事を、巻き込まれながらやっているのも、信じたいからなんです。“自分の力で、足掻いてみせろ”って、そう言ってくれた人を知っているから。……だからこれが、私の力なんだと思いたいって言うか」
「信じることがですか?」
こうして対面してみても、志麻涼子が完全にキョムのシバと無関係とは言い切れない。
だからこそ、ルイやエルニィ――そして誰よりも赤緒には打ち明けられないでいる。
彼女らはきっと、志麻涼子と自分の関係が危なっかしく見えるはずだ。
自分自身もそれは分かっている。
こんな危うい綱渡りをする必要性はない。
だが、閉じた関係性でいいのだろうかと時折感じる。
柊神社だけの友愛に満足しても、誰も咎めやしないだろう。
しかし、自分の信じるこの力をくれた相手は。
両兵はきっと、もっと大きな世界を知って欲しいと願うはずだ。
それは自分の引っ込み思案な気性そのものを変えることを信じてくれるのならば。
――私もまた、この気持ちを信じたい。
「志麻さん。私、こういう風な……何て言うのかな。出かけるの、また誘ってもいいですか?」
「それはデートのお誘いですか?」
何でもないような澄ました顔で言うので、さつきは思わずむせてしまう。
「で、デート、って……?」
「違うんですか? こういうのをデートと」