「分かっているさ。だからこそ、こうして甘んじている。わたしに、“何もするな”と言いたいんだろう?」
見た目だけはいたいけな少年であるが、その舌鋒は鋭い。
加えて射るような眼差しには、己が築き上げてきたこれまでの自負があるのだろう。
「……そうなのだと分かっているのなら、大人しくしていただけませんかねぇ。――ドクターオーバー」
「その呼び方は仰々しいな」
「ですが、それ以外の名称を使うと怒るでしょう」
「しかし、貴様らに捕まえられてもう十日だ。その間は外出禁止で、なおかつ端末の無断使用も禁じられているとなれば、退屈もする」
「……あなたが思っているよりも、その御身は重大なんですよ。聞いていませんでしたか? 我々、“ハイド”にとって、この一手は重大なのだと」
「ハイド、か。聞き覚えのある組織だな。確か、その拠点は米国本部にあると言う。それがどうして、このような諜報員紛いを招いて、極東国家に根を張る?」
「諜報員紛いではなく、諜報員ですよ。本物のね」
なずなはドクターオーバーとしばし睨み合いを続けたが、相手のほうが旨味はないとしてその緊張を取り下げる。
「……我らグリムの眷属は敗北し、その主兵装であった《ダークシュナイガー》及び《シュナイガートルーパー》も全滅。気象戦術特化型人機《グリム》の大破。……まったく。今日まで米国政府とキョムから隠れ潜みつつも、力を蓄えてきたのが馬鹿だとでも言われているかのようだ」
「言っておきますが、あなたに自由意思はありませんよ。我々にとって有意義に動くか、そうでないかだけの話ですからね」
「瑠璃垣なずな、だったな。わたしは別段、これでもグリムの眷属の崩壊に関してで言えば、冷静だと思っている。シャンデリアで遭遇したわたしの似姿に関しても、だ」
シャンデリアにてドクターオーバーは自らと同じ姿をしたセシルと既に遭遇済み。
その上で、彼は負けた。
敗北したのだ。
自分こそがオリジナルだと驕った結果、完膚なきまでに。
セシルと言う少年に読み負けた。
そして、世界という盤面を動かすドクターオーバーは見た目だけならばただの少年だと言う性質の悪い冗談がまかり通っている。
――曰く、不老不死の研究の結果だとも。
――曰く、その真の目論みを聞けば自分のような木っ端諜報員では長続きしないとも言われている。
ハイドの中でまことしやかに語られる噂話もちょうど聞き飽きたところだ。
なずなは少年の姿のドクターオーバーへと視線を合わせる。
「……あなたは本当に、グリムの眷属を使って東京の支配なんてできると思っていたんですか?」
「できるさ。実際に九割までそれは進んでいた。……だが、まさかあんな奥の手があったとはな。なるほど、《シュナイガーノルン》か。それに加えて、米国のお歴々の中にはわたしを何が何でも勝たせたくない一派が存在すると見える。これは奇妙だな。我らグリムの技術力のお陰で成り立った国家が、わたしをたばかるとは」
「米国はあなたたちの技術で成り立ったわけじゃない。それこそが敗北の遠因ですよ、ドクター」
「これは手厳しい。……しかし、わたしにとっては別にそれくらいはいい。裏切りには慣れているつもりだ。問題なのは、別だとも」
「別……? 一体何を企んで……」
「いや、何。全てを破壊してから改めて統治しようと思っていただけにね。……ここまでの扱いを受けるとは思わなかったよ」
その直後、ドクターオーバーの腹の虫がきゅうと鳴く。
何とも情けない有り様だが、彼は毅然として言い放つ。
「ミスなずな。わたしはね、如何にあらゆる手練手管を持っているとは言え、これでも人間の身体に身を落としているんだ。腹も減る」
何とも肩透かしの現実を前に、なずなはむっとしていた。
「……食事はちゃんと用意していたでしょう」
「あの味気のない、携行食糧かね? 正直、食っても食っても満足しないな。そもそも水をほとんど使うなと言っているのに、何故、ああもモサモサするものを食わせる? わたしに飢え死にして欲しいのか、それとも確保したいのかハッキリしたまえ」
「それは……と言うか、あなたの身体は不老不死の研究の賜物なのでは?」
「それならば空腹を克服したとでも? ミスなずな、君はそれこそナンセンスの塊だな。わたしはね、確かに必要のない機能は削ぎ落すべきだとは考えているが、食事は人間の三大欲求に強く結びついている。あえて切り離さなかったのだよ。分からないか?」
「……あなたは天才と謳われた人物のはず。それなのに、空腹の機能をわざと使っていると言うのも」
ドクターオーバーはやれやれ、と額に手をやって呆れ返る。
「凡俗の考えはこれだから困る。不老不死を研究しているからと言って、何一つ人間性を捨て去ってまで探究するかね? 答えはノーだ。わたしはあらゆる人間性と、そして機能美を愛している。愛しているからこそ、人形を造れるのだよ。いいかね? そこに探究心があるかどうかは、愛で決まるものだ」
まさかこのような歯の浮くような問答をするとは想定しておらず、なずなは困り果てる。
「……世界を支配しようとした男が愛なんて説きますか」
「説くとも。いけないかね? それに、愛は全てにおいて原動力たり得る。愛するがゆえに憎み、愛するがゆえに探求し、愛するがゆえに反目する。全て、愛だ。愛を理解できないと言って遠ざけるのは三下だよ、君。それとも、この世界を黒に染めようとした男はそうした行動原理であったのかな?」
ドクターオーバーの言い分は突飛なようで、彼なりの理念があるように思われる。
だが、自分は所詮、ハイドの諜報員。
何一つ自由ではない身であるのは疑いようもない。
「……私に何を……失礼」
インターフォンが鳴り、なずなは「表向き」の顔で微笑んで玄関を開ける。
「どうしましたかぁ?」
「ああ、瑠璃垣さん? いやね、何だか最近、君の部屋から君以外の声が聞こえるとかで……ちょっと近隣トラブルって言うか……」
人のいい様子の大家はこのアパートを管理しており、彼の機嫌を損ねることは日本での行動に支障が出る。
「何でもないですよぉ? それとも、クレームでも来ていましたかぁ?」
「いや、言いたくはないんだけれど、勝手に入居者を増やされると迷惑って言うか……。あ! もちろん瑠璃垣さんがそう言うんじゃないって言うのは知っているんだけれど……他の入居者の方も目もあるし……彼は……?」
大家の目に留まったドクターオーバーに、しまったと思う前に彼は微笑んで会釈している。
「すいません……。なずな姉さんがご迷惑をかけているみたいで……」
「姉さん……? ってことは……」
「弟です。多分、物音って言うのは僕のせいでしょうし、今回だけはお咎めなしにしていただけますか? 姉さんも昼間は教師としての勤務で大変でしょうし」
「弟さん……。瑠璃垣さん、弟居たんだ……?」
疑惑の目を向けられてしまったが、ここは乗ったほうが賢明だとなずなは首肯する。
「え、ええ……! まぁ……。年の離れた弟なので、大丈夫かなと思ったんですが……駄目ですか?」
「いや、近親者なら全然いいよ。……そうだ、ちゃんと伝えておかないとね。下の階の入居者に詰め寄られちゃって仕方なくなんだから。瑠璃垣さんが勝手に男を連れ込んでいるなんて、そんなわけないのにねぇ」
今の話を大家は信じたらしい。
しかし、そうなるとそれはそれで厄介だ。
ドクターオーバーはこちらの胸中は何のそので、大家と話を進めている。
「ごめんなさい。昼とか僕がうるさかったかもしれません。姉さんが居ない間はできるだけ者音を立てないように言われていたんですけれど」
「いや、いいよ! それに、弟さん……ちょうど中学生くらい……? 何か、ワケありなのかい?」
これ以上詮索されればボロが出かねないと、なずなは咳払いして応じていた。
「あ、いやー、そのぉー……私ぃ、ちょうど教師なのでぇー……」
「僕が無理言って田舎からこっちに来たんです。姉さんは教師だから、面倒を見てもらえって。なかなかの放任主義でしょう? うちの親」
笑い話にするドクターオーバーに大家はいやはや、と踏み込むのをやめる。
「ご家庭の事情があるもんねぇ……。瑠璃垣さん、じゃあ一応、弟さんと入居と言う形で書類には書いておくから。ごめんね、面倒かけて」
「あ、いえ……! この子は――!」
「うん? いい弟さんじゃない。何か不審なことでも?」
「あ、いや……」
完全に弟なのだと信じ込んでいる大家に無用なことを告げて、疑念を生むのもよくない。
「すいません。姉さんってばおっちょこちょいでしょう? ご迷惑をおかけするとは思いますが、姉さんも頑張っていますので」
「よくできた弟さんだねぇ……。まぁ、そういうことならいいよ。瑠璃垣さんも春に来たばっかりだし、なかなか東京には馴染めないでしょ? 弟さんのほうがしっかりしていそうだし、安心したよ」
「お世話になります」
大家にドクターオーバーは頭を下げる。
その姿は、東京を死の雪で染めようとしていた支配者と同じだとは思えない。
「兄弟仲良く、ね」
笑いながら大家が立ち去っていく。
その足音が完全に遠ざかってから、なずなはアパートの扉を閉めていた。
「……何であんなことを言ったんです?」
「ああ言わなければ君も困っていただろう。まったく、妙な身分に身を落としたものだな、ミスなずな。いや、“姉さん”、と呼んだほうがいいかね?」
「張り倒しますよ……まったく」
しかし、これでドクターオーバーを匿うことに関してで言えば、余計な弊害がなくなったのもある。
ドクターオーバーは少年の身体を持て余しているのか、椅子に深く座り込んでふむと思案していた。
「それにしても、独身女性と言うのはこういうものなのかね? あまりにも汚らしいから少しだけ掃除しておいた」
そう言われてみればキッチン周りが小奇麗になっている。
「……何でそんなことを? 目的は何です?」
「目的? ……そんなものをわざわざいちいち行動に求めるのかね? 単に理路整然としていないものが気に入らないだけだよ。そうだな、今度はクローゼットを掃除してみせようか?」
「結構です。……と言うよりも、あなたにしてみればこれは不利な状況下なのでは? 単純に、軟禁されているのですよ。ドクター」
「軟禁? この状態をかね。まぁ、確かに十日分の食糧のはずだったメシはまずいし、水もほとんど使うなと言われれば軟禁同然か。だが、君らは知らんのだろう? ロストライフの地平では、このような有り様、当たり前であったとも」
この少年は――否、この男はロストライフを超えるさらなる厄災、ライフエラーズを画策した張本人。
だが、それをアンヘルに阻まれ、そしてキョムからも妨害されてこの身に甘んじているだけだ。
いつ再起を図ろうとしていてもおかしくはない。
なずなは懐に入れた拳銃を意識していた。
いつでも殺せる――それだけの優位性がなければこの状況を覆されてしまいそうな不安に駆られたからだ。
「しかし、真っ当なものを食ってみたいものだ。わたしはこれでも美食家でね。味気のない栄養食なんて真っ平御免なんだ。ミスなずな、わたしを連れ出して欲しい」
「それは脱走の手引きをしろと言う意味で……」
「違う、違う。逸るな。……この部屋の空気はまずい。食糧もほとんど買い置きがないと来た。少しだけ外の空気を吸いたい、それも駄目なのか?」
「駄目に決まっているでしょう……。あなたは捕虜なんですよ」
「では翻って。真っ当な捕虜の扱いを受けたいものだ。この極東国家は民主主義の法治国家なのだろう?」
なずなは先ほどの大家とのやり取りを思い返す。
ドクターオーバーを家に置くとなれば、必然的に自分の居ない昼の間に行動を起こすであろう。
その時、大家を含むこのアパートの人々に危害が及べば、なずなの潜入任務自体がご破算になりかねない。
それだけのリスクを背負っていることをようやく理解する。
ドクターオーバーは自分の考えなど透けて見えているのか、不敵に微笑んでいた。
「どうだ? 天秤にかけてみれば、わたしをちょっとだけ外に出せば、随分と心労が減るのではないかね?」
なずなは大仰に嘆息をついてから、アパートの鍵を回す。
「……ちょっとだけですよ。それに、東京の街並みは雑多で勝手なことをされれば困ります。これを」
差し出したのは首輪型の発信器である。
「これは?」
「それを首に装着してください。あなたが私から百メートル圏内以上にはなれた場合、起爆します」
「手厳しいな。そんなにわたしは信用がないかね?」
「少なくとも、日本をライフエラーズに染めようとした男です。これくらいでは足りないほどに」
「さもありなん。賢明だよ、ミスなずな。さしずめ、わたしは君に飼われた子犬と言うわけだ」
首輪をつけ、ドクターオーバーは自嘲する。
「子犬ならば、子犬らしく付いて来てください。言っておきますが、現状日本には無数の諜報機関が暗躍しており……身の安全の保証はできかねます」
「それくらい、自分でやってみせろ、か」
なずなはドクターオーバーを連れ出して、東京の夜の街並みに埋没する。
思えば夜に出歩くのは久しぶりだ。
昼間の諜報活動と教師としての顔のせいで、ここ数週間は家に帰れば泥のように眠るのが定例であった。
「ミスなずな」
「その呼称は目立ちます」
「では、姉さんと、呼ばせてもらおうか」
「……お好きにどうぞ」
「姉さん。あれを食ってみたい。美味そうな匂いがする」
指差した先にあったのは――。
「あれ……? ハンバーガーショップ……?」
どんな高級食材を買わされるのかと思っていただけに、少し意外であった。
「ハンバーガーと言うのか? ……ふむん、悪くない。早速予約を取ってくれ」
「予約なんて要りませんよ……。って、ハンバーガーを食べたことは……」
「ない。食事は給仕とJハーンがやってくれていてね。いちいち食べたいものを考える前に、わたしの人形が用意してくれていたのだ。その日に合うものを、ね。それを十日間も考えなしの栄養食に頼っていたのだ。わたしなりの嗅覚で選ばせてもらった」
その嗅覚はまるで間違っているのでは、と思いつつもなずなは肩を落とす。
「……まぁ、ハンバーガーでしたら、私の財布も少しは……って、あれ? さつきさん?」
ハンバーガー屋の前でさつきが何やら躊躇いがちに入ろうとしては何度も中断している。
「あれは誰だ? 小娘のように映るが……」
「……あなただって、今はただの子供の見た目でしょう。トーキョーアンヘルの血族操主です」
「ほう……それは悪くないな」
そう言うなり何を思ったのか、ドクターオーバーは駆け出していた。
「君! 何をやっているんだい?」
さつきへと声をかけるものだから、なずなは心臓が飛び出すかと思ったほどだ。
「ちょ……っ! ちょっと、ドクター!」
「あれ……? なずな先生……? どうしてここに?」
「そ……っ、それはこっちの台詞ですよぉ……。何だってさつきさん、こんな夜更けにハンバーガー屋に……?」
「えっと……それは答えたくありません。だって、なずな先生、学校の外なら……」
そうだ。学校の中だけの協定関係だったものだから警戒されてもおかしくはない。
しかし、声をかけたのはこちらが先。
どうしたものかと当惑していると、ドクターオーバーがこちらへと振り返る。
「ちょうどいいじゃないか。姉さん、彼女に僕を紹介してくれ」
「姉さん……? あれ、なずな先生、もしかして弟さんですか……?」
ここでさつきがドクターオーバーの姿を知っているのならば、あるいはシャンデリアのセシルと顔見知りならば完全にアウトだったのだが、どうやら彼女は知り得ていないらしい。
なずなは冷や汗を掻きつつ取り繕う言葉を探す。
「あ、いえ……えっとぉ……」
「はじめまして。姉さんの学校の生徒さん、だよね?」
にこやかに挨拶をするドクターオーバーになずなは寿命が縮まる感覚を味わう。
「あ……日本語お上手なんですね……って、これも失礼……?」
二人の間でいつ何が爆発するか分からない以上、なずなは判断を迫られていた。
「ハ、ハンバーガー屋の中で話しましょう! さつきさんもこんな時間に外に居ると危険ですから! ね?」
いつになく切羽詰った様子に映っただろうが、さつき自身、何か咎めるものがあったのかこちらの提案を素直に受け入れる。
「あ……まぁ、そうですよね……はぁ」
ため息交じりの声に、やはり何かあったのだと確信しながらも、なずなは二人をハンバーガー屋に導く。
店内に赴くなりドクターオーバーは自信満々に告げていた。
「この店で一番高いものをくれ」
その調子になずなは思わず声を裏返す。
「はぁ? 何を言っているんですか、あなたは……!」
「あ、なずな先生。多分、欧米の文化なんですよ。って言うか、なずな先生の弟さんなんでしょう?」
「いや、それにしたっていきなり……!」
「御託はいい。すぐに持ってこさせてくれ」
生来の人の上に立つ者としての在り方か、あるいは自然と育ったものなのか、ドクターオーバーに腑抜けた様子は見られない。
むしろ、こういった場であれば逆に自身を喪失するほうが、彼の矜持には合わないのだろう。
なずなは赤面しながら二人を引率して、列に並ぶ。
「……その……この店で一番高いバーガーと、それと……」
「あっ、私は別に……」
「い、いえ……っ! さつきさんにも一番高いものを!」
ここまで来て引けるものか、とやけくそ気味になずなは言い放つ。
「そ、そんな……いいのに」
「遠慮しないで、さつきさん! ……それと、今度からは店に入る前に私に許可を取ること。いいですね?」
「承諾しよう。しかし、一番高いと言ってもこんなものか。千円もいかないじゃないか」
「……そういうコンセプトなんですよ」
東京に仕掛けたのだから全知全能かと思いきや、ところどころ彼の認識は歯抜けのようである。
席に座り、ハンバーガーを待っている間になずなはそわそわとするさつきを認めていた。
「……何かあったんですか?」
「あ、いえ……そ、それこそ! なずな先生こそ何かあったんですか……! 弟さんなんて……」
「嫌われたものですねぇ、私も。何もないのに往来を闊歩してはいけないんですかぁ?」
「そ、それはぁ……! 私もトーキョーアンヘルの一員です! それに、ここは学校外……!」
「狭く考えるものではないですよぉ? ……それと、何かあったんですか? さつきさん」
「えっ……何で……」
「これでも教師ですからっ。まだ見習いですけれど、何となくいつもの様子じゃないのは分かりますぅ」
「そ、それはその……言いたくないです!」
「随分と嫌われているな、姉さん。こんなので東京に馴染んだと言うのだから笑わせる」
「あっ……それは……っ!」
「弟さん……ですよね?」
やり取りが異様に映ったのだろう。
何か言葉を探っていると、ドクターオーバーは言い放つ。
「見紛うことのない、弟です。あまり似てないとは言われるんですけれどね」
にこやかに応答するドクターオーバーに、先ほどからなずなは気が気ではない。
「あっ……何かワケあり……?」
「ワケありなのは、さつきさんもですよねぇ? ……何があったんです? 新米教師とは言え、聞けることはあるはずでしょう?」
こちらが誠実な声を作ったからだろうか。
さつきはぼそっと呟く。
「……そ、その……誰にも言わないでくださいね? ……お兄ちゃんが……」
「お兄さん? ああ、小河原両兵さんですか」
「し、知ってるじゃないですかぁ……だから嫌だったんですよ、もう」
つんと澄ましてしまったさつきに、少しだけ急ぎ過ぎたかとなずなは反省する。
「すいませんってば。ついつい、諜報員のクセが抜けなくって……」
「で、その小河原両兵さんと何があったんです?」
ドクターオーバーは澱みなく問い質す。
聞かれればまずいのはこっちの身分のほうなのだと言い聞かせたかったが、今はぐっと我慢する。
「その……ちょっとした喧嘩……ううん、喧嘩でもなかったのかもですけれど……。いつもいい加減なものばっかり食べているから、たまにはちゃんとした献立作ってあげるって言ったら、ハンバーガーがいいって言い出して……」
「ああ、それでハンバーガー屋に……?」
「お兄ちゃん、赤緒さんたちがどれだけ苦労しているか分かってるの? って言ったら……知らねぇとか言い出すから……ついカッとなって……。でも、言い過ぎちゃったかなと思って、買いに来たんです」
「ハンバーガーを?」
こくりと頷くさつきは心底、人がいいにもほどがあるのだろう。