「それはこっちの台詞ですよ。何だって、教室に……? って、床に新聞紙敷いて何やってるんです?」
エルニィは新聞紙を敷きつめ、教室の中央に陣取って何やら準備を進めているようだ。
「何って、ほら、みんなやってるじゃん。ボクもやんないとなーって思ってさ」
「……半紙に、硯……?」
「そっ。ジャパニーズ書道……で合ってる?」
とは言え、エルニィは硯を削る段階でもう既に参ってしまっているのか、何度も筆に薄い墨を付けては頭を悩ませている。
「……合ってますけれど……立花さん、書道なんてしたことありましたっけ?」
「失礼だなぁ、さつきは。ボクだって、一応は先生なんだし、生徒ができることはやっとかないと示しがつかないでしょ」
エルニィが指差した先には書道の授業で書いたクラスメイトたちの作品が展示されている。
「……まぁ、確かにそうかもですけれど……でも立花さんは理科とか数学の先生じゃないですか」
「……理科とか数学の先生が書道しちゃ駄目なの?」
「あ、いや、それは……」
思わずまごついてしまう。
エルニィはと言えば、水っぽい墨で何やら漢字を書こうとはするものの、一筆目で躊躇う。
「……みんなさ、何だかんだで漢字書けるの、ボクはすごいなーって思っちゃう」
「そう……ですかね? あ、でも確かによくよく考えればそうかも。立花さんの母国語は英語だから……」
「うん。まぁ、普通に英語だよね、全然。だから日本に来たら、意味は分かるんだけれど読めなかったり、逆もあったりしてさ」
「でも、立花さんって日系も入っているんですよね?」
「……まぁね。元々じーちゃんも日本人だし。けれど、人機の開発における共通言語って基本的には英語なわけ。そりゃー、米国とやり取りしたりすることも少なくはないし、当然なんだけれどね」
エルニィが半紙に英語のスペルを書いていく。
何だか明らかに純和風のしきたりにエルニィの書く英文が乗っていくのが、どこかさつきには奇怪に映る。
「えーっと……あいきゃんすぴーく……」
「ジャパニーズ、ね。“日本語話せます”って、何だか書道でやるとちょっとマヌケだなぁー」
確かに日本文化でしかない書道なのに、英文で日本語がどうのこうのを言うのはなかなかにナンセンスだ。
「……でも、ちゃんと硯を使うところとか、墨をどういう風に使うのかは分かってるんですね」
「あー、これ? これってさ、ブラジルに居た頃に青葉がやってたんだよね。それの見様見真似って言うかさ」
「……青葉さん……それってモリビトの……?」
「うん。《モリビト2号》の元操主。そんでもって……南米で、まだ戦ってるんだろうなぁ、って。……この匂いを嗅ぐと思い出しちゃうね。青葉のこと」
「青葉さんは、書道とかお得意だったんですか?」
「書道が? うーん……って言うかまぁ、これ話し出しちゃうと、ちょっとブラジルで出会った頃のことになっちゃいはするんだけれど」
前置きしながら、エルニィは筆を走らせつつ回顧していた。
「――ったく、相変わらず納得できねーよなぁ」
《モリビト2号》のコックピットを掃除していると、格納デッキでぼやいたシールの声が漏れ聞こえて来て、青葉はひょっこりと顔を出していた。
「どうかしたのー」
「あっ、青葉ちゃん。モリビトの掃除は終わったの?」
追従する月子の声に青葉は大きく頷いてから、はたきを片手にタラップを駆け下りる。
「うん! このはたき、すっごくよく取れて……!」
「メカニックには専用のはたきがあるんだよ。カナイマの連中はどうか知らないが、人機ってのは精密機械だからな。静電気だとかに注意しねぇと大変なことになる。それも込みで、ちゃんと青葉にゃモリビトのメンテをして欲しいって思っただけさ」
お正月から明けてこの先、操主だけでも人機のメンテナンスを可能にする方法をいくつか教わってきたが、その中でも整備班に任せていた部分でもある。
「私……モリビトを自分で綺麗にできるって、すっごく感動したかも」
「アニメだとかじゃ、その辺メカニックに丸投げだろうが、現実はそうはいかねぇからな。……って言うと、両兵の野郎はどこに行きやがった?」
「あっ、両兵はまだ寝てるかも……」
「あいつ……寝正月を満喫してやがんな……」
「まぁ、まだ年が明けてそうそう経ってないし、いいじゃない。私たちは……ちょっと困ることになっているけれどね」
「困ること……? あっ、今も何かやってるの?」
先ほどのシールのぼやきが思い起こされる。
当の彼女は困り果てた様子で頬を掻いていた。
「……オレらは師匠に色々と詰め込まれている、ってのは前にも言ったよな?」
「あ、うん……。一人前のメカニックになるためなんだよね……?」
「その中でも……年明けには絶対にやれって言われていることがいくつかあってだな……。まぁ、今年は免除になったが、そのうち一個が着付けって奴だ」
「着付け……って、着物とかの?」
「私もシールちゃんも二十歳超えたし、そろそろ自分で着付けの一つくらいできるように成れって言うのが先生たちの教えでね。けれど、これが大変なの」
「着物なんて普段着ねーからそもそも構造なんざ分かんねーし、それを一回や二回見ただけでやれって言うんだから、毎年困ってんだよ……。まぁ、今年はモリビトのこともあるし、カナイマもやべーって言うんじゃ、別にやらなくってよくなったがな……」
それでもシールの悩みは尽きないようで、彼女は陰鬱なため息をつく。
「……えっと、何かあったの?」
「青葉ちゃん、お正月って言えば日本人なら思いつくものがあるんじゃない?」
「お正月……えっと、お餅食べたり、お年玉だったり……?」
「餅も毎年作らされていたよなー、オレら……。あれも正解が分からないのに、今年は白味噌でやれだの赤味噌でやれだの色々……」
「調理のための材料も分からないから探り探りだったね。けれど、他にもあるでしょ?」
「他に……えーっと、凧揚げとか、羽根つきとか……あ、あとは書初め?」
「その書初めだよ……ったく、やってらんねぇっての」
まさか日本の反対側まで来て書初めの言葉を聞くことになるとは青葉も思いも寄らない。
「えっ……けれど書初めなんて……」
「花嫁修業の一環とか言って、毎年やらされるんだよなー、それ……。確かによ、オレも月子も日本人の血は入っちゃいるが、ほとんどこっちで過ごしてるんだ。書初めって言われてもよく分かんねーよ」
「でも、書初めって……完全に日本の文化だよね? こっちでもやるんだ」
「先生たちの指導方針でね。“いずれ日本文化に精通する大和撫子なら、着付け、書初め、料理くらいはお手の物にしておけ”って」
「着付けと料理はさすがにそんな場合じゃねぇってなったんだが、書初めもなぁ……。オレ、苦手なんだよ。墨汁の匂いだとか……」
「えっ、そう……かな? 私は結構好きだけれど」
そう呟くとシールが信じられないものを見るような目つきを向ける。
「……マジかよ。あんなの嫌になんねぇのか? だって墨汁の匂いなんてほとんどカビ臭だろ?」
「私は……うーん、接着剤の匂いとかセメダインの匂いとかも好きだし、ちょっとクセのある匂いで結構好きかな。あ、それに……日本に居た頃を思い出せるし」
「日本人だからって何でもかんでも好きってのも変だよなー。……って言うか、聞いた話なんだけれどよ」
シールがどうしてなのだか声を潜ませる。
その雰囲気に青葉も自然と小さな声になっていた。
「……う、うん……」
「……日本だと書初めが衆目に晒されるっての、あれってマジなのか……?」
どうしてなのだかシールは書初めを極端に恐れているようであったので、青葉は自分の知識で応えていた。
「ま、まぁ……衆目って言うか、クラスにはバレちゃうかな……。冬休みの宿題とかでもよくあるし」
その答えにシールはゲッと、とてもではないが耐えられないとでも言うような声を出す。
「嘘だろ……。書初めを何十人に見られるってのかよ……。そんなの地獄じゃねぇか……」
「シールちゃん、特に苦手だもんね、書初め……」
「月子さんは……? 書初め得意そうだけれど……」
勝手なイメージで言ってしまっていたが、月子は思案する。
「そうだなぁー……私ってそう言う風に見られがちだよね、多分……」
今度はシールが面白がる側になって自分へと耳打ちする。
「青葉、後で月子の書いた作品見せてやるよ。笑えてくるからな」
「もう! シールちゃんには漢字のとめはねの書き方教えてあげないから!」
「ああ、悪い悪い。冗談だって、冗談」
とは言え、二人とも書初めが苦手とは意外であった。
てっきりそれくらいは器用にこなすのだと思い込んでいたからだ。
「……でも、二人とも普段は結構器用なんじゃ……?」
「メカニックに限った話なだけだっての。……そもそも、あれって硯で墨を出す段階からやるだろ? ……時間かかる作業って設計だとかならどうとでもなるんだがなー……あの時間だけは……」
「うーん……けれどあれも精神統一って言うよね、先生たちは。私たちにはあまり馴染みのないやり方って言うか……」
「二人とも! こんなところで油売ってるんじゃないよ!」
不意に上層から声がかけられ、シールと月子だけではなく青葉まで畏まってしまう。
「は、はい……っ!」
「書初めの準備はできましたか? 二人とも。できたのなら、すぐにでも向かうように」
柿沼に続いて水無瀬が声をかけてから、シールと月子は二人の背中が完全に遠ざかるまで気が気ではないようであった。
「……参ったよなぁ……。書初めの文字をオレらで決めろって言うんだからよ」
「えっ? それも決めさせられちゃうんだ……」
「そうなんだよね……。私たち、一応英語も日本語もできるけれど、書くってなると英語が母国語だから……」
なるほど、馴染みがない文字を上手く書けと言われれば確かに自分でも思い通りにはいかないだろう。
加えてそれを採点されるのならば、二人にしてみれば気が重くなる用件のはずだ。
「……けれど、そんなに難しく書けって言われているの?」
「いや、漢字二文字。……ただなぁ……漢字二文字ってのがまた……」
「ややこしいんだよね……。こうやって普通には喋ってるけれど、私たちって漢字ほとんど知らないし……」
「えっと、それこそ書初めなら、何て言うのかな……よくある組み合わせとかあると思うんだけれど」
「例えば何だよ?」
「例えば……“賀正”だとか、“新年”だとか……」
「ガショウ……? 何て書くんだ?」
青葉はシールの差し出した設計用紙の隅に“賀正”と書くと二人とも青ざめる。
「む……無理無理……! 何だ、この複雑な字は……! 何で、青葉、そんな普通に書けちまうんだよ!」
「何だかめまいがして来ちゃった……。見てるだけで疲れちゃいそう……」
「えっ……だって一応、習うし……。それにこれくらいなら小学生でも書けちゃうけれど……」
シールと月子は顔を見合わせてから、何度か言葉を交わす。
「……なぁ、月子。オレ、今ちょっと妙案を思いついたんだけれど」
「……奇遇だね、シールちゃん。私もだよ」
青葉が戸惑っていると、シールと月子はこちらの手を握って懇願する。
「お願いがあるんだ! 青葉!」
「な、ななな……何……?」
切羽詰った声で言われるものだから、青葉は緊張する。
「私たちと一緒に、書初めに付き合ってくれない……?」
「――あれ? 何だい、シールにツッキー。遅かったじゃんか」
水無瀬と柿沼が用意した部屋には和洋折衷の正月の装いが成されており、おめでたい空気の中でエルニィは墨で自分の頬にバッテンを書いている。
「え、エルニィ……? それ……」
「ああ、これ? 何だか面白そうなボディペイントだから使ってたんだけれど、まずかったかな?」
「まずかったも何も……それ、書初め用……」
「知らないとは言え仕方ありません。二人とも、精神統一です。硯からちゃんと、心を込めて墨を作りなさい」
水無瀬の言葉にシールと月子は項垂れる。
「……はい。……くっそー……墨汁が使えりゃ楽なのによー……」
「硯から墨作るの、時間かかるもんね……。け、けれど……先生!」
挙手した月子に柿沼が発言を許す。
「どうしたんだい、月子」
「そ、その……! 青葉ちゃんにも書いてもらって、いいでしょうか……」
「青葉さんに? あなたたち、まさか巻き添えにしようと言うんじゃ」
「い、いえ……! その、私、一応日本人ですし! ……少しはお役に立てるんじゃないかなって……」
作戦はこうだ。
――自分が先陣を切って書初めの見本を見せ、シールと月子はそれを真似することで少しでも平均点を上げる、というもの。
しかし、そもそも書初めが許されなければこの作戦はご破算となる。
緊張の一瞬が流れた後に、エルニィが何でもないように口を挟む。
「いいんじゃない? ばーちゃんたちもさ、シールとツッキーばっかイジメんの飽きたでしょ?」
「……別にいじめているつもりは……。花嫁修業の一環です」
「まぁ、それに青葉さんのお手並みも拝見したいところだからねぇ。どれ、書いてみなさい」
柿沼に促され、青葉は硯を削っていく。
「うへぇ……もう腕疲れてきやがった……。何で墨汁使っちゃ駄目なんだよ……」
シールが泣き言を漏らすものだから水無瀬はぴしゃりと言い放つ。
「墨汁は硯をちゃんと使えるようになってから。最初から使おうなんて甘えですよ」
「先生ー……。これ、削っても削っても薄いんですけれど……」
「それは精進が足りんからだろうに。心を込めて削りなさい」
とっとと終わらせようとしたのはシールからで、薄い墨で筆を執り、半紙を前にして硬直する。
「……どうしたのです。早く書きなさい」
「いや、その……」
作戦上、自分が先に書いて手本を見せてから、であったが、どうやらシールはこれ以上硯と向き合うのは限界らしい。
とっとと書いて楽になりたい思惑が透けて見えている。
青葉は追いつかなくては、と硯を削り、墨を作り出していく。
「……青葉、慣れてるんだ?」
ほっぺにバツと丸のボディペイントを施していたエルニィが覗き込んでくる。
「うん……。まぁ、お正月ならよくやっていたことだし。それに……」
「それに?」
「……墨の匂いも好きだし、こうやって濃度とか濃淡だとかを考えているのが一番楽しいかも。ほら、プラモの塗装も同じだから」
「なるほどねー。青葉にしてみれば書初めもプラモも同一線上ってわけか」
けれど、とくんくんとエルニィは墨の匂いを嗅ぐ。
「……何だか独特だなぁ。こういうのって日本人はみんなそうなの?」
「うーん、どうだろ……。苦手って人も居るけれど、私は好き……かな。これからちゃんと、書初めを書くんだ! って気持ち作りって言うか」
「わざわざ時間かけて色を作るのも変っちゃ変だもんねぇー。しかもモノトーンだし」
エルニィは硯を削りながら今度はお腹の辺りと二の腕に文字を書き始めている。
ここで一番自由なのは間違いなく彼女だろうが、青葉はと言えば、集中していた。
――思えば書初めをするのも、誰かと一緒にこうしてお正月を祝うのも久しぶりな気がする。
以前、カナイマで祝ったこともあったが、それでも自分のような存在は異物ではあったのだろう。
こうして“花嫁修業”の一環でまさか、文字を書くとは思いも寄らない。
青葉は半紙へと筆をすっと掲げ、文字を書き込む。
とめはね、墨が薄くならないように気を遣いつつ、漢字の力強さをはらいで表現していた。
書かれたのは、予め決めておいた“賀正”の二文字。
最後のとめまで完璧に終えると、ほうと感嘆の息が水無瀬から漏れる。
「上手ですね、青葉さん。習い事をされていたのですか?」
「あ、いえ……。その、プラモとかにシリアルナンバーとかを書いたりとか、機体名を刻印することとかよくあったので……その延長線で……」
「それにしたって立派な書初めさね。さて、二人はどうなっているのかねぇ」
柿沼の追及が飛ぶ前に、シールと月子はメカニックの持つ観察眼で瞬時に青葉の書初めを模倣しようとする。
「できました!」
月子が最初に完成品を掲げたが、文字がへにゃへにゃだ。
一個ずつのバランスが崩れており、象形文字に近い。
「こ、こっちだ!」
シールが続けてようやく書き終えるも、漢字のバランスが悪く、一文字目と二文字目が倍近く異なる。
そのアンバランスさに水無瀬が嘆息をつく。
「……なるほど。あなたたちの作戦は分かりました。青葉さんにお手本を書いてもらって、それを基にして楽をしようとしたのですね……」
「あっ……モロバレだった……?」
「それくらい分かるとも。しかし、それにしたところで青葉さん。誰かに教えてもらったわけでもなく、これで?」
柿沼が自分の作品を凝視するので青葉は少しだけ生きた心地がしない。
「あ、はい……」
「ふむ。日本人だということを加味しても、これくらい書けるんなら最初から言ってくれればよかったのにねぇ。シールに月子!」
不意打ち気味に名を呼ばれ、二人は硬直する。
「は、はひ……っ!」
「書初めは改めて、青葉さんから習うこと。別段、こんなに難しいものを書けとは言わんさ。二人が納得できる書初めができれば、今年の花嫁修業は終了としようか」
「そ、それって……」
「何度も言わせるんじゃありませんよ。書初めは青葉さんに習いなさい、と言っているのです」
その言葉があまりにも衝撃的であったのか、二人とも口をあんぐりと開けている。
「じゃあ……今年の花嫁修業は……」
「言っておきますが、免除ではありませんよ。納得いくものを教えてもらいなさいと言っているのです」
水無瀬が立ち上がる。
柿沼も青葉の書初めをこちらへと返し、それから微笑む。
「この二人はまだまだ未熟だからねぇ。青葉さん、こんな不肖の弟子たちだが、少しだけでも導いてやっておくれ」