その襖の向こう、祖父は臥せっていた。
今の今まで、祖父は毅然として、そしてなおかつ古都の支配者としてずっと健在だと思っていただけに、金枝は目の前の光景を信じられないでいた。
「金枝。顔をよく見せておくれ」
「……はい」
祖父の傍へと歩み寄る。
震える手を両手で握り締める。
記憶の中にあった黒く、そして何もかもを命じられてしまう絶対者の指先ではない。
枯れ枝のように皺くちゃの、どこにでも居る老人の手であった。
その眼差しは炯々としているかに思われたが、自分を見返す瞳には慈愛がある。
――本当に、こんな風に成るまで自分は祖父に心配をさせてしまっていたのだ。
「金枝。その顔をよく見せておくれ。もう一度だけでいい」
声も、対面してしまえばどこまでも柔らかい。
「はい、お爺様。金枝はここに居ます。ここに……居ますから……」
祖父の手がすり抜ける。
手を握り返す握力は弱々しい。
だから、金枝は精一杯、その手を取っていた。
「すまなかった。金枝。お前をいつの間にか、どこにも行けぬにしたのは、この儂だ」
「いえ……っ。いえ……!」
いつの間にどこにも飛べないのだと思い込んでいたのは自分のほうだ。
祖父とこの家が雁字搦めにしてくるのだと諦めて。
思えば、もっと我儘を言えばよかった。
もっと積極的に、友人に会いに行けばよかった。
両親が亡くなった時、もっと泣きじゃくって、物分かりのいい風を装わなければ。
それならばもっと早くに、祖父とこうしてゆったりと喋れただろうに。
「東京に行くのだな。あの者たちと一緒に」
「……はい。金枝は、東京に行きます」
「良い友人にも恵まれたのだな」
やはり、祖父は祖父だ。
何でもお見通しなのだろう。
「……はい。友人たちと……今日一日京都旅行を楽しんでから……金枝は行きます」
「そうか。金枝」
「……はい。お爺様……」
「儂は金枝の幸せを、ここで願っておる。最後まで戦い抜くのが金枝の選んだことならば、もう何も言うまい。――行ってらっしゃい、金枝」
ハッとして金枝の頬を熱が伝う。
どうして気づけなかったのだろう。
祖父は恐るべき暴君でもなければ、老練の影の支配者などでは決してない。
幼い頃に根付いた恐怖はこの時、すっかり消え去っていた。
ただただここに在るのは、祖父と孫の二人だけ。
血の繋がりがちゃんとある、親愛の証。
金枝は祖父の手を取って、自分の頬に寄せる。
涙の粒が、祖父の手を伝い落ちていた。
「……はい、はい……! 行って参ります。おじいちゃん……」
何年ぶりにこのような砕けた呼称を使ったのだろう。
金枝は祖父の手を握って、それから何度も頷く。
怖がることは何もなかった。
だって、祖父はいつも見てくれていたのだ。
自分がどれほど無茶をしても、どれだけ苦しもうとも。
その度に立ち上がれるのだと信じて。
後ろ髪は引かれるが、金枝は祖父の手を置いて襖を閉める。
もう二度と戻ることはないのかもしれない。
それでも――最後の最後に普通の関係性になれた。
普通がこんな風に馴染むなんて思いも寄らなかったのに。
「……終わったか?」
門前で待ち構えていた三人に金枝は首を縦に振る。
「お、終わったーって思ったわよ……私は……。何だってあのタイミングであんたらは私を除け者にするのよ!」
「だってさ、南ってばどう考えたって言い過ぎなんだもん。ねぇ、両兵」
「ああ。正直、ちょっと引いちまったほどだぜ」
「あんたらが! 一番失礼なこと言ったんだからね!」
両兵とエルニィの耳を引っ張る南に、金枝はくすりと笑いが漏れる。
ああ、こうして笑えるのならば上出来だ、と感じ入る。
「……どうしました?」
「いや……。吹っ切れたみてぇで何よりだ」
「えっとぉ……何だか締まんないわねぇ……」
「南は反省すべきだよー!」
何をぅ、と言い返そうとした南からエルニィが逃げおおせる。
「……これからはこれが……普通になるんですよね」
「おう。何だ、連中のフツーなんざこれから先、馬鹿ほど浴びることになるぜ。そん時にびっくりすんなよな」
「……それはこっちの台詞です。小河原両兵。これでも金枝は高貴な出なんですよ? さぁ、敬ってください」
「何言ってんだ、このじゃじゃ馬は。……行くぞ、金枝」
「……三宮です」
憮然として言い返すと、両兵は微笑む。
「おう。頼んだぜ。三宮金枝よ」
離れる間際、もう一度だけ邸宅へと振り返る。
思えば、こんなに小さかったか。
いつでも外に出られたのに、自分から鳥籠を作っていたのだ。
背丈も、いつの間にか門扉の高さに追いついてきた。
きっと、まだまだ背は伸びるだろう。
その時に、もしかしたらもう一度、戻ってくるかもしれない。
――だって、帰って来るなとは、言われていないのだから。
「……行って来ます」
その一言で、自分はどこまでも自由になれた。
遅い気づきだ、と自嘲する。
「何やってンだ。とっとと宿に戻らねぇと、柊がまたうっせぇぞ」
両兵に呼ばれ、金枝は駆け出す。
その足取りは、これまでの不自由さをまるで感じさせなかった。
「はい……! 今行きます……!」
「――金枝ちゃん。……その、どうだったかな……?」
帰りの新幹線で、赤緒は声をかける。
思えば長いようで短い修学旅行であった。
マキと泉は旅疲れのせいか寝息を立てている。
窓の外を眺めていた金枝は、こちらに気づいて視線を振り向ける。
「どう……とは?」
「あ、いや……。私たちなりに修学旅行を楽しんだつもりなんだけれど……」
「……京都タワーに上ったのは初めてでした。展望台ってあんなに見えるものなんですね。何だか……京都ってそんなに広くなかったんだって。金枝が思ったよりも世界はまだまだ広いんですね」
「……うん。金枝ちゃんは、まだ東京のこと、よく知らないとは思う。けれど、私……! 私もね、いっぱい教えられると思う。金枝ちゃんが教えてくれたことに負けないくらいっ……いっぱいのことを……!」
何故ならば、自分は出会えたのだ。
トーキョーアンヘルのメンバーに。
誰かを頼ってもいい、もし躓いたら肩を貸してもらえばいい、親友たちに。
「……何だか癪ですね。赤緒さんのほうがたくさん知ってるみたいで」
「あっ、もちろん……金枝ちゃんしか知らないこともたくさんあるよね……」
しゅんとした自分へと金枝は顔を覗き込んで微笑む。
「赤緒さん。東京タワーを案内してくださいよ。それに、柊神社の周りも。まだ……金枝はよく知りませんから」
その口振りから今の言い草は確信犯だったらしい。
「も……もうっ! 金枝ちゃんまで、私をからかうの……?」
「からかい甲斐があるんですよ。それに……いっぱい教えてもらえるのなら、金枝はまだまだ知りたいことばっかりなんですからね。……小河原両兵と赤緒さんはどんな関係なのか……とか」
「ふぇ……っ? 何で、小河原さん……」
「……何でもありません。金枝も焼きが回りましたね。要らないことに気を遣うなんて」
「えーっ! ねぇー、金枝ちゃん。教えてよー。どういう意味なの?」
肩を揺すると、金枝は悪戯っぽく舌を出す。
「べーっだ。赤緒さんには教えてあげません。金枝だけの……ヒミツなんですからね」
「むーっ。金枝ちゃんは意地悪だー」
むくれると、金枝は笑い出す。
「――あら、コネ宮。あんた、そんな風に笑うのね」
「わっ……! ルイさん、ここは高等部の車両……」
「知んないわよ。ねぇ、さつき」
ルイとさつきはわざわざ車両を跨いでここまで来たらしい。
「私はやめておこうって言ったんですけれど……」
「何よ。さつきのクセに生意気……」
「んぁ……っ? あれ? アンヘルの美少女たち……? ってことは、これは夢……ぐぅ」
「マキちゃん、寝ないで! これは現実だからー!」
新幹線の車窓に流れていく景色を他所に、自分たちは騒がしくかしましく。
「……こんなのが普通……なんですね」
「コネ宮、トランプで勝負よ。そこの二人も。寝てないで勝負に参加なさい」
ルイに起こされてマキと泉は寝ぼけ眼を擦る。
「……うーん、寝起きで勝てるかなぁ」
「赤緒さん。勝負は何にしますか?」
「うーん、そうだなぁ……じゃあ、人数も集まったし、ババ抜きはどう?」
「ふふーん、甘いですね、赤緒さん。金枝はババ抜きで負けたことはないんですよ?」
「言ってなさい。赤緒、コネ宮にだけは勝つわよ。……ジョーカーの位置をまず私に……」
「ルイさん! ズルは駄目ですよ!」
注意を飛ばすさつきにルイが突っかかる。
「何よ。さつきのクセに……真面目ぶっちゃって」
「いいけれどさー……赤緒、イカサマはなしで頼むよ?」
「分かってるってば。えっと、ハウスルールでいいのかな?」
「どんなルールでもドーンと来いです。金枝は負けませんよ」
ふふーんと自慢げな金枝に、赤緒はシャッフルを終えたトランプを配る。
修学旅行の帰り道の新幹線で、まさかこうしてトランプ勝負とは思いも寄らない。
いや、これくらいでちょうどいいのかもしれない。
だって、自分たちは女子高生。
何よりも青春を謳歌する義務があるのだから。
ババ抜きで早速、金枝はジョーカーを引き当てたのか、その困惑が顔に出ている。
「コネ宮。馬鹿みたいに分かりやすい顔をしてるわよ」
「む~……っ。金枝に仕込みとかないですよね?」
「まぁまぁ。まだまだゲームは始まったばかりですから」
宥めるさつきにマキと泉がゲームに立ち向かう。
「負けないよー!」
「はい。私たちも負けません。楽しみましょうか」
「……そうだよね。私たち、もっと楽しまないとね」
帰り道までが遠足とは言え、帰る場所は一路決まっている。
東京行きの新幹線の窓で景色があっという間に流れていく。
「あーっ! 今、富士山見逃したぁ! こっちならまだ見えるかも……」
中等部の車両から流れてきたのはエルニィで忙しくシャッターを切っている。
「た、立花さん……? えっと、ここ高等部の車両……」
「あれ? ああ、分かってるってば。ボクは教職員として、写真撮影に回ってるの。……ルイとさつきは?」
「ちょっと遊びに来ちゃいました」
「自称天才、あんたも混じりなさいよ。今ならコネ宮をカモり放題よ」
「何……っ! それは参加せざるを得ない……って、写真を撮らないとね。赤緒たちはちゃんと写真は撮った?」
「あっ……はい。私たちも一応は……」
「じゃあもう一枚、パシャリと行っちゃお! 思い出なんていくつあったっていいんだから! はーい、笑ってー!」
エルニィがカメラを構える。
赤緒は金枝へと視線を流し、肩を引き寄せる。
「あ、赤緒さん……? 近い……」
「うんっ! だって友達なんだもんっ!」
ならば写真を残すことに何の躊躇いもない。
マキと泉、それにルイとさつきとエルニィを交え記念撮影のストロボが焚かれる。
――きっと、一生忘れない。
その感慨だけを噛み締め、列車は向かう。
帰るべき場所――東京へと。
「……本当に……恥ずかしいんですから、赤緒さんは……」
「一生の思い出にしようね! 金枝ちゃんっ!」
頬を紅潮させつつも、金枝はぎこちないながら笑顔を向けていた。
「じゃー、はい! チーズ!」
走り出した思い出の鼓動は、きっと鳴り止まないはずなのだから。