うっかりどころか失念していた小夜は対面のナナ子に視線を送る。彼女も心得ているのか、カリクムに悟られないように声を潜めていた。
「……分かってるわよ、小夜。七夕と言えば織姫と彦星。それに一年に一回、あの子が顔を出す頃合い。……小夜が悩まされている、その……カグヤのことよね?」
「まぁ、よくよく考えても私にしか見えないんだから、そのことを言い出さない限りどうしようもないんだけれど……厄介よねぇ。あの子とカリクムのことは私にしかどうしようもないってのは」
小夜はそれとなくカリクムのほうを気にかける。レイカルと一緒に勉学に励んではいるが、それもこれも限界が来ているのか、雑談交じりになっていた。
「なぁ、ヒヒイロー。店の前に笹と短冊が置いてあったぞー? あれって何だったっけ……たなば――」
「あーっ! 思い出したぁ……!」
大声でレイカルの失言を制したせいで変に注目を集めてしまう。
「な、何だ、割佐美雷……。デカい声を出して、変な奴だなぁ……」
「さ、最近さ! ボイストレーニングに通っていて……声の通りがよくなっちゃって……」「だからっていきなり大きな声を出すなよ。なぁ、カリクム。お前の創主、変だぞ?」
「そんなの今さらじゃないの。小夜が変じゃなかったことなんてないってば」
歩み寄り、後ろからごちんとその後頭部に鉄拳を振るう。
「痛って! 何すんだよ、小夜!」
「黙らっしゃい! あんたらねぇ……勉強はどうしたのよ。夏休みの宿題をどうにかして今年は少なくするために補習授業を受けてるんでしょうが」
「……とは言ってもさぁ。掛け算をどうにかできないと……」
「カリクムは掛け算だからまだマシだろ……。足し算って、上限がないとこんなに面倒なのか……? 前も言ったが、一の砂山の上に百の桁を足しても砂山の数自体は変わらないだろう」
「むぅ……そんな御託ばっかり上手くなって、ちゃんと学力が身につかないと、夏休み明けのテストで差が出ちゃうわよ?」
「……なぁ、割佐美雷。こういうのってどれくらい勉強すればいいんだ? だって、数には限りがないんだろ? 百の桁を学んだら、今度は千の桁か? でも千の上があるんだろ? じゃあ、際限ないじゃないか」
「……相変わらず、言い訳ばっかりが上手くなって。いい? そういうのって結局は応用なの。……ラクレスからも何か言ってあげてよ。この子たち、この調子じゃいつまでも小学校二年生くらいから進めないわよ?」
ラクレスはと言うとウリカルの専属教師となっており、艶やかな黒スーツに身を包んで教鞭を振るう。
「……できましたっ! これでどうですか……?」
「さすがはウリカルね。百点満点よ。もうちょっとで小学校のカリキュラムを終えられそうねぇ……。あらぁ? 文句ばっかりでちっとも進んでいない子たちが何か言っているわぁ……」
明らかにレイカルたちを馬鹿にした物言いに二人ともスパートをかけようとして、すぐに伸びてしまう。
「だ、駄目だぁ……、この季節は暑くって何にも手がつかないー! どうなってるんだ! 創主様はここなら涼しいって言ってたぞぉー!」
暴れ始めるレイカルに呆れつつも、小夜も思ったよりも涼しくはない削里の店内を見渡していた。
「……あの、せめて冷房の設定温度をもうちょっと下げません? どうせお店って経費とかで浮くんじゃないんですか?」
「経費って言うのは魔法の言葉じゃないんだ。使った分は結局請求されてしまうんだから。あと、別に暑くもないだろう。俺なんて長袖だぞ」
削里は将棋盤をヒヒイロと挟んで駒を打つ。まさかこんな異常気象でも長袖のスタンスを崩さないとは思いも寄らない。
「……ねぇ、小夜の言い分じゃないけれど、さすがにここ近年は暑いわよ。ヒヒイロはどう思っているの?」
「ふむ。ではここで」
ぱちんとヒヒイロが駒を打つと、途端に難しい顔になって削里は額に汗を掻く。
「……待った」
「よいですが、待ったは三回までですぞ。それと、小夜殿たちへの嫌がらせのために長袖を着るのはやめておいたほうがよろしいかと」
ヒヒイロの忠告でようやく削里は長袖を脱ぐが、着込んでいるのは同じのようで「克己心」と書かれた半袖のTシャツ姿になる。
「……削里さん、何だか今までで一番おじさんの格好ですよ……」
「……だから嫌なんだよ。夏って老け込んでしまうって言うか……」
「だからって我慢してずーっと長袖で? ……それのほうがよっぽど無駄な努力だと思いますけれど……」
「言われ放題だな。……言っておくが、この店の冷房の設定温度の権利は俺が持っているんだが」
「……お願いします。もう1℃……いや、できれば3℃……下げてもらえれば……っ!」
「真次郎殿。あまりそういうことで相手よりも優位に立つのは感心致しません。あと、これは言う必要がないかもですが、私でも冷房の設定は下げられます」
ヒヒイロがハウルで遠隔操作し、冷房の設定温度を下げたようであった。小夜は頭を下げたのが馬鹿馬鹿しいとでも言うように、憮然と椅子に座り直す。
「……でも暑いのは確かよね。こんなに暑かったっけ? だってまだたなば――」
「あー! あーっ!」
言い出しかけたナナ子を大声で制する。ナナ子はギリギリで口を噤んだようだが、そのせいで舌を噛んだのか、お互いに悶える。
「……さっきから割佐美雷とナナ子は何をやっているんだ? それにしても涼しいー……! こんなに涼しいのを人間は文明として持っているんだな」
「……ねぇ、レイカル。もしかしてとは思ったけれど、作木君って家だと冷房を……」
「……いや、さすがに創主様も最近はどうしようもないと仰っていて……窓は開けっ放しだ」
それはこの時代ではいささか不用心だ。それに窓を開けた程度ではこの猛暑を凌ぐことは難しいだろう。
「……いくら作木君の家には盗るものもないとは言え、それはちょっと……」
「それに窓を開けたって夜中でも同じくらい暑いわよ。……はぁー、レイカルたちは暑くないの? 今年はちょっと異常だと思うけれど……」
ナナ子も手で扇ぎながら憔悴し切っている。
「ヒヒイロから習ったぞ! 今年はハウルで涼しくできるやり方を習得させてくれるって! えーっと……まずは……しんとう……? シントウ?」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、という心持ちでハウルを練り直してみよ、と。この間教えたであろう」
「そ、そうか……よく分かんないが、よぉーし……! これで……!」
だがレイカルを包んだハウルの位相は冷気ではなく熱気だ。まったく正反対のハウルが満ち満ちて店の中を包んでいく。
「ちょ、ちょっと! レイカル、それじゃせっかく気温下げたのに意味ないじゃないの! ほら! 下げて! 涼しく……!」
「よ、よぉーし……! ふんっ!」
しかしレイカルの持つハウルは熱くなっていく一方で、全く熱を逃がさない。
「……どうやら冬季に纏うハウルと間違えている様子ですね」
「あ、暑い……。何だってヒヒイロは平気なの……?」
「私はハウルで己を纏っていますので。レイカルのハウルは強力な分、循環しやすいようですね」
「こんなところで暖房なんて死んじゃうってば……! レイカル、ハウル解除よ、解除!」
しかしレイカルは意固地になって何度もハウルを練り直そうとする。
「な、何のぉ……っ!」
「カリクム!」
「レイカル……! 悪く思うな!」
首元に手刀を浴びせることでレイカルのハウルが解除されるが、店の中の気温は5℃ほど上がっている。
「あっつい……! もう、信じらんない……!」
ナナ子がポーチの中から携帯するタイプの扇風機を取り出したので小夜は思わずそれを掴む。
「あっ、ナナ子だけズルい……! 私にも……!」
「小夜は団扇で何とかしなさいよぉ……!」
「私のほうが暑いんだから……!」
「ごらんなさい、ウリカル。人間と言うのは醜いわねぇ」
ウリカルとラクレスが凝視していることに気付いて小夜は落ち着きを取り戻す。
「……こほん。けれど、こう暑いと、なかなか平常心も保てないわよ。ねぇ、ヒヒイロ。そのハウルでどうにかするのって人間じゃ無理なの?」
「できなくはないと思いますが、今しがたのレイカルのように自在に扱うのは難しいでしょうね。本来、ハウルとはオリハルコンが振るうもの。人間大になるとすれば、それこそ作木殿の無限ハウルのように上昇はできても下降にはコツが要るものです」
「上げるのは簡単でも下げるのは難しいってわけか……。そう言えば私が前に使った時も電撃だっけ? あれも今出せって言われても難しいわよねぇ……」
(大丈夫ですよっ! 小夜さんは毎週やっているじゃないですか!)
「いや、あのエフェクトだとかは特技監督とかが後で付けてくれるもので、現場じゃ何も……」
そこまで口にしたところで小夜は傍らへと視線を振る。
想定していた通り――浮遊したカグヤがトリガーVの変身ポーズを取っている。
(あっ、ポーズ間違っちゃった。えへへ……うらめしやーですね!)
改めて幽霊のポーズを取るカグヤに小夜が青ざめながら後ずさると、感付いたのかカリクムが疑問符を挟む。
「……小夜?」
「ちょっと野暮用……!」
駆け出して小夜は店を出て駐車していたバイクの傍でようやく息をつく。
「……カグヤ。あんた出るんなら出るって言いなさいよ……」
(えー……でもあれはフリって言うか、押すなよ押すなよと同じじゃないんですか?)
「……幽霊のあんたにフリだの何だのって言われるのって変な感じね。って言うか、やっぱり! この季節に出るんじゃないの!」
(そんな、まるで虫みたいに……あっ、でも考え方次第じゃ、これはノリだと思っても?)
しゅんとしたかと思えばすぐに持ち直す辺り、生粋の天然なのだろうと小夜はがっくりしてから陰鬱なため息をつく。
「……あんたに真っ当さを期待したのが間違いだったわ。それで? 出てきたってことは、明日が七夕なことと関係があるんでしょ?」
(よくお分かりで! ……まぁ、でも夏ですし。ちょうどいいかなーって思うんですよね。幽霊が出て来てもみんなびっくりするだけじゃないですか? そろそろ違うトレンドが必要って言うか……あっ、そう言えば小夜さん、この間のお仕事お疲れ様でしたっ! 夏ごろに公開されるんですよね? 心霊トークショー……!)
「……まぁ、そうだけれど。事前に撮影しているとは言え、そういうことを言わないでよ。夢がないじゃないの」
(でも小夜さんと居ると飽きないって言うか、芸能界ってこういうのなんだーって思いながら見ていますよ?)
「……私にプライバシーってないのかしら……」
(安心してくださいっ! 普段はできるだけ見ないようにしてますから!)
「何の安心材料でもないわよ、もう。……で? 七夕が近づいてきて、カリクムの深層意識の……言ってしまえば寂しさみたいなものがあんたを作ったと思っていいのよね?」
(さすがは小夜さん! 私の扱いにも慣れてきましたね! あっ、でも……幽霊としてはちょっとだけ残念だったり? ふふっ、うらめしやー)
カグヤの幽霊ムーブには心底参るものを感じながらも、小夜は考えを巡らせる。
「……思い出さないようにしていても、あの子にとっては大事な創主だもの。そりゃー、意識するなってほうが無理よね」
(私にしてみればカリクムにはできるだけ、今を生きて欲しいんですけれど……。それも小夜さんとナナ子さんの生活を見ていれば何の心配もないかなとは思うのですが……)
「……忘れろって言うのは残酷よ。けれどまぁ、あんたのことが見えるのは私だけだからね。責任があるのかもしれないわ」
(……じゃあ責任……取ってくれますか?)
上目遣いのカグヤに耳元で囁かれると小夜は少しだけどきりとして後ずさる。
「な……っ! あ、あんた……」
(なぁーんて。一回言ってみたかったなぁ、生前に。えへへっ、幽霊ジョークですっ)
「……頼むから。あんたのジョークは心臓に悪いのよ……」
小夜は燦々と降り注ぐ太陽光から逃れるようにバイクの駐輪場の影に隠れる。それを理解できないようにカグヤが浮かび上がる。
(小夜さん……? ああっ、そうでしたね。生きていると暑いんでした)
「……それも幽霊ジョーク……?」
(かもしれませんね! 小夜さん、さすがです!)
上機嫌のカグヤに比して小夜は疲れてしまう。
「……けれど、こんな真っ昼間でもあんた……平気なのね」
(うーん、他の幽霊の方は分かんないですけれど、私の存在ってふわふわしたハウルの力そのものですから。昼間だとか夜だとか関係ないんですよねー。お望みなら夜に化けて出ますけれど)
「もういい、分かった。また幽霊ジョークって言うんでしょ」
(えーっ! 小夜さん、今のはとっておきだったのにぃ!)
頬をむくれさせるカグヤにとことん参りつつ、小夜はハッと気づく。
「……カグヤ、あんたはカリクムのハウルそのもの。そうよね?」
(……まぁ、みたいなものですけれど……何か思いついたって顔ですね)
「……まぁね。ちょっとした……慈善事業じゃないけれど。ちょっとばかし、そのハウル、借りさせてもらうわよ。幽霊だって言うんなら、これから言うこともお茶の子さいさいでしょうしね」