「知るかよ! ……ってか、そもそも何か誤解を受けてねぇか? 元々は、お前が……!」
言いかける前に今度は寝間着のおススメを開示される。
「あっ、奥さまはとてもすらっとされているのでこっちの寝間着がおススメですよ! 上から下まで、ぽっきり一万円でご提供します! もちろん、素材にもこだわっておりまして……」
完全に買わされる空気の中で両兵は奥で控えているさつきへと助けを乞う。
「さつき! このままじゃオレ、すかんぴんになっちまう……! どうにかこの状況を逃れる術はないのか……?」
さつきはと言えばメルJと両兵を交互に見やってから、寝具コーナーのネグリジェに視線をやってぽっと赤面する。
「そ、その……! 私にはまだ早いかもですからー!」
「待て! さつき! ……お願いだから逃げないでくれ! このままでは私たちはとんでもない物を買わされかねない……!」
さつきをメルJが引っ張る。さすがに体格差があるからか、さつきはすぐに諦めてこほんと咳払いする。
「……そもそもですよ? 何だってここまで大ごとになっちゃったんですか!」
「……とは言っても……流れと言うしかない」
「……だな。第一、お前だって別にここに至るまでは想定していなかったんだろうが。何だって高級店で寝間着なんざ買わなくっちゃならんのだ」
「な――っ! それは私の台詞だ! このままではお前がその……は、伴侶ということで話が進んでしまう……!」
自分にしてみれば想定外の降って湧いたような話ではあるが、それでも戸惑いのほうが勝る。そもそも、こんな形で両兵を掠め取ったところで後になって赤緒たちにこってりとしぼられるのがオチだ。
「……じゃあ、まぁよぉ……。最初の衝動って言うか、話の最序盤に戻ろうじゃねぇか。まずははじめに! ……ほんの大したことのない悩みだったはずだよな?」
両兵の確認事項にメルJとさつきは顔を見合わせる。そう、本当に最初は、些細な出来事であったはずなのだ。だと言うのに、最大のレンジまで行けばキングサイズのベッドを買うかもしれないのだから笑えない。
「……その、落ち着いて一個ずつ……そうだな。事象を解きほぐしていくとしよう……。まずは、だ。私がモデル業を終えて、帰宅してからの話だな……」
――玄関が開いたので誰かが帰宅したのだと思い、さつきはぱたぱたと駆けていく。すると玄関先でメルJがちょうどブーツを脱いだところであった。暑さが近づいてくる最中、本革のブーツは蒸れていて見るからに暑そうであるが、以前赤緒より「オシャレは我慢!」と聞かされたことを思い返す。
「……何だ、さつき。こっちをじーっと見て……」
「あ、いえ……! 暑そうだな、って……」
ついつい気にかかってしまったのだろう。無節操な視線になってしまったことを反省していると、メルJはブーツを脱いで重いため息をついていた。
「暑いのもそうなんだが……」
いつもよりも少しだけアンニュイなメルJにさつきは何かあったのだろうか、とそれとなく探りを入れる。
「あの、何かありましたか? モデルの仕事で大変なこととか……?」
「……まぁ、あるのだがな。水着の撮影が押してしまって、私は半日ほど水着姿で置いてけぼりを食らったこともある」
それはさつきにしてみれば業界の裏話としてとても貴重なものであったが、当のメルJは心底参り切っているようだ。
「水着で半日……。何て言うか、すごい世界ですよね、モデルって」
「それでもまだいいほうだ。……聞いて驚くなよ。陽射しで日焼けしてしまっては撮影に支障が出ると言うので、できるだけ肌を晒さない服装を選んで着させられたこともあったな……。あれは地獄だった……」
そろそろ暑さが本番になりかけている梅雨の季節。湿度は日夜上がり続け、気温も油断ならない。だと言うのに厚着をさせられるのはモデルならではの苦労話だろう。
「……そんなことさせられるんですね……。でも、ヴァネットさん、先週のマンガ雑誌にもグラビア載っていましたし、人気なんですね」
「……あれも見るなと何回も言っているのだが、一向に誰も聞く耳を持たん。そもそも、マンガ雑誌の主役はマンガだろう。何で裸の女が載っている必要がある……?」
正論でありながらも、ある意味では反論でもある言葉にさつきは愛想笑いを返すほかない。
「でも、すごいですね。この一か月ほどでほとんどトップモデルじゃないですか。私、業界には詳しくないですけれど、これってとても名誉なことだったり……?」
「仕事を貰えるのはありがたい。……ただ、最近、ちょっとした悩みがあってだな……」
「悩み、ですか……?」
メルJの悩みを自分などが聞いてもいいのだろうか。仕事に起因するものならばマネージャーなどが適任だろうし、操主に関係があるのならばエルニィや整備班と言う手もある。
だが、ここで恥を忍んでメルJが打ち明けてくれたのだ。ならば、自分のような門外漢でも喋ってもらえるだけでも意味があるのかもしれない。
「あの……! ヴァネットさんの悩み事、よければ聞かせていただけますか……? 役に立たないかもですけれど……」
一応は保険のための言葉を述べると、メルJはうーんと呻ってから、よし! と気合を入れる。
「……誰かに話せば案外解消されるかもしれんからな。話すとしよう」
ごくり、と固唾を呑む。思えば、メルJの悩みなど真正面から受けてしまえば、自分のちっぽけさが浮き彫りになりそうで少しだけ怖い。
しかし、今受け止められるのは自分だけなのだ。ここは大船に乗ったつもりで相談を聞くのが一番だろう。
「ま、任せてください……!」
「では。……実はな、メイクに言われたんだが……どうやら私はここ最近……」
「こ、ここ最近……?」
とんでもなく深刻かもしれない予感に震えつつ、さつきは耳を傾ける。
「ここ最近……――満足に眠れないんだ」
ぽかんと、開いた口が塞がらなくなる。
それも当然だ。
仕事でも操主としてでもなく、まさかメルJほどの傑物の悩みが、眠れない、など。笑うつもりはもちろん毛頭なかったが、それでもぴくぴくと頬の表情筋が今にも笑い出しそうで必死に我慢する。
ぷるぷると震えていることに気づいたのか、メルJはたちまち不機嫌になっていた。
「……やっぱりいい。相談するだけ馬鹿だった」
「あっ、すいません! 笑いませんから……! せっかく相談して下さったんです。最後まで言ってみてくださいよ!」
平謝りしてメルJの悩みの真相を聞き出そうとする。彼女自身、ほとんど完璧の立ち振る舞いに近い自分がまさか凡俗めいた“眠れない”と言う悩みを抱えているのはブランドイメージに関わるのだろう。
「……三宮が来てから、寝室をその時々で変えるだろう?」
そう言えば金枝がトーキョーアンヘルに訪れてから、日替わりでアンヘルメンバーの寝室を変えることも多くなってきた。それもこれも金枝の寝相の悪さが原因で、部屋をあてがっても結局は他人の布団に潜り込んでしまうのならば先んじて毎日違う人間と一緒に寝たほうがいいのでは? とエルニィが提案したのだ。
その結果と言うか、試行錯誤の甲斐あって金枝の睡眠は安定しているようだが、それとメルJの何の関係があるのだろうと思っていると、彼女は憮然と腕を組む。
「……三宮の寝相の悪さがとびきり酷いのは、お前も分かっているだろう? 仕方がないから枕を渡してやって、掛布団もほとんどあいつにくれてやって、それで眠っているのだが……。睡眠の質が落ちているんだ」
確かにそこまで金枝のために尽くしてしまえば、メルJ自身の睡眠の質は下がる一方だろう。それでもさつきには疑問があった。
「……えっと……三宮さんに言えばいいのでは?」
「言ったところで奴は聞かん」
シンプルな言葉だが、金枝の人格を知っていれば自ずと頷けてしまう。
しかし、とさつきは考えてしまう。このままではメルJのモデル業に差し支えるだけではない。寝不足は女子にとって大敵だ。このままだと、メルJのパフォーマンスは落ちていくだけだろう。
何とかして歯止めをかけなければならないはずだ。
「……えっと、じゃあどうでしょう。枕を二つ買うとか……」
「枕だけならいいんだがな……。いくら暑くなってきたとは言え、掛布団がないのは厳しい。……そもそも、私は欧米圏の人間だ。何と言うのか……地面に直で眠るのは……少し」
言われてみれば、柊神社は木造建築で和室のほうが多いためにベッドを置くスペースはほとんどない。メルJ自身も自分の好みだけで通すわけにはいかないと我慢していたのだろう。
「……じゃあその……布団をもう一枚分大きくするとか……」
「それでも奴の寝相の悪さは異常だ。恐らくはしてやられるだろうな」
諦めの混じったメルJの言葉に半分は同意するものがありつつ、さつきは考えていた。メルJが安心して眠りにつけるように――金枝が居たとしても夜を満足に過ごせるように、と。
「……あっ。ヴァネットさん。もしかしたら心当たり……あるかもしれません」
「なにっ。……それならば私は願ったり叶ったりなのだが……本当に大丈夫なのだろうな?」
警戒心マックスのメルJにさつきは大丈夫なはずと自身に言い聞かせる。
「ヴァネットさんのおやすみを向上させるために……私も頑張ります!」
――訪れたのは橋の下でメルJは途端に胡乱そうな面持ちになる。
「……ここに私の睡眠をどうにかしてくれる奴が居るとは思えんが……」
「まぁ、見ていてください。えーっと、今日は居るはずだよね。お兄ちゃん! また眠りこけちゃって!」
ソファに寝そべった両兵が顔に乗せていた雑誌を退けて、こちらを視界に入れる。
「……誰かと思えば、さつきにヴァネットかよ。何だっつーんだ? まだ真っ昼間だろうが」
「もう昼間だよ……。あまり寝てばかりいると病気になるよ?」
「なんねーよ。寝る子は育つって言うだろうが」
さつきは両兵の身の回りを確かめる。少し前に掃除をしたはずだが、雑誌や置物、さらに言えばよく分からないゴミの類などが散乱していた。
「それに、前にお掃除したのにもうこんなに散らかしちゃって……。駄目じゃない、ちゃんとしないと」
「うっせぇなぁ……。今日は天気もいいし、のほほんと寝ているつもりだったんだよ。悪いか?」
「……さつき。見たところ、ただの怠惰ないつもの小河原に映るが、これでどうしろと……?」
「あっ、そうだ。今日はお掃除に来たんじゃなくって、ヴァネットさんのお悩みを聞いてもらいに来たの」
「悩みぃ? ……言っておくがモデル業に関しては口を出さんからな。下手なことを言って仕事が減ったなんて言われてみろ。とんだとばっちりじゃねぇか。オレが聞ける程度の悩みなんてあってないようなもんだとは思うが」
「それでも、お兄ちゃんはヴァネットさんのお悩みをこれまでもちゃんと聞いてくれたじゃないの。ヴァネットさん、自分から言えますか?」
メルJは両兵の上から下まで眺めた後に、ふぅむと呻る。
「……こいつに私の悩みが通用するとは思えんが……」
「結構失礼なこと言いやがンな、お前も。まぁ、モデル業以外の悩みなら聞いてやるよ。聞くだけはな」
そうは言いつつも両兵は聞く姿勢に入っているところを見るに、きっちりと問題解決まで付き合ってくれるつもりなのだろう。さつきは目線でメルJに促す
「……その、な。最近、うまく眠れないんだ。季節柄のせいなのかもしれんし、日本にまだ順応していないのかもしれん。……もしくは、だがモデル業が忙しくなったせいで休む暇もなくなってしまったのか、と言う……」
少しだけもごもごと言い辛そうにするので両兵は腕を組んで考え込む。
「……まぁ、眠れねぇってのは確かにストレスになるよな。しかし、それだけか? 恐らくは他にも原因があるんじゃねぇのかと思うんだが」
やはり両兵は鋭い。メルJは金枝によってスペースを圧迫されていることを素直に告白していた。それを聞くなり両兵も今回の問題は一筋縄ではいかないことを認識したのか、より深刻顔になる。
「……三宮の奴、柊神社でも迷惑かけてンのかよ。じゃあ、早い話だ。たとえ三宮が潜り込んできたとしても、お前の寝るスペースを確保できりゃいいんだろ?」
「そうだが……今のところ柊神社の布団は人一人が入るのが精いっぱいの大きさだ。あまり無理は言えん」
「じゃあよ。お前の財布から布団一式を買っちまえよ。どうせ、欧米式の寝具が合ってはいるんだ。それにモデル業で稼いだ金なら柊も文句は言わねぇだろうし」
両兵の提案にメルJは難しそうな顔になる。
「……赤緒たちに迷惑はかけられん。一人だけサイズの大きい布団で眠るのも何と言うか……居心地が悪い」
「変なところで繊細だな、てめぇも。まぁ、じゃあそうと決まりゃ布団屋にでも行くか」
膝を叩いて立ち上がった両兵にさつきは問いかける。
「お兄ちゃんも付いて来てくれるの?」
「まぁ、布団って言えばまぁまぁ重いだろ。男手が必要になることもあらぁな」
メルJは、と言えば少しだけ困惑を隠せない様子で自分たちに追従する。
「布団屋……布団の専門店などあるのか……? 日本は不思議だな」
「……まぁ、そうなのか? 海外って布団っていちいち買うもんでもねぇのか」
「私はこれまで有り物だけで過ごしてきたからな。……わざわざ買うと言う発想がない」
そういうものなのだろうか。しかし、寝具一式を買い揃えればきっとメルJも快適に眠れるはずなのだ。
――そうだと信じて、布団の専門店に入ったところまでを思い返し、両兵は困り果てているようである。
「……ヴァネット。そもそも、だ。寝具一式を買うってなると、結構な値段だが……当てはあるんだろうな?」
「一応は……軍資金は用意してあるが……。何で小河原が買う流れになっているんだ?」
「オレが聞きてぇよ! ……何つーか、そういう“しきたり”めいたもんなんだろうな。寝具は男が買うって言う……」
「お客様。お客様は高身長でいらっしゃいますので、こちらのネグリジェもおススメですよ。これから暑くなりますから」
にこやかに応対する店員にほとんど気圧される形で最初こそは寝間着程度だったのが、今度はじわじわとキングサイズのベッドや照明器具、果ては羽毛布団まで買わされようとしていた。
「……さつき。この店員、布団を売りつけるのが妙に上手ぇからよ。ためしにお前の立場で対応してみてくれよ」
「えぇ……私はでも何だと思われているのかな……。だって、お兄ちゃんとヴァネットさんがその……夫婦だって思われているんでしょう? なら、えっと、私は……」
「いいから行けって! ……物は試しって言う奴だ」
さつきは不承気にしながらも店員に向かっていく。メルJが固唾を呑んで見守っていると店員は屈んでさつきの視線に合わせてにこにこと接客していた。
「妹さんですね? お兄さんと奥さまに合わせてコーディネートされるのなら、こちらの寝間着は如何でしょう?」
ほとんど透けた向こう側の景色が見える薄いネグリジェに完全にさつきは参った様子で目を丸くさせている。
「あ、あの……私にはそういうの……ちょっとえっちだし……」
完全に店員に敗北を喫したさつきが赤面しつつとぼとぼと戻って来るのをメルJは認めて嘆息をついていた。
「……これじゃ埒が明かねぇ。ヴァネット、買うもんをまずは決めろ。店員のペースに飲まれると、要らん買い物まですることになる。必要なものを精査するんだ」
「……必要なもの……か。元々私は布団が欲しくってきたはずなんだが……」
その布団も簡素な敷布団なのかベッドなのか、それともキングサイズの仰々しい代物なのかで話は変わってくる。
「ヴァネットさん。とりあえず、色んなものがありますから絶対買わないものだけを決めておくといいかもしれません。……そうじゃないと、その……。寝具一式を買うとさすがにモデルで稼いだお金もなくなっちゃいそうですし」
三人でひそひそと作戦会議をしてからメルJは意を決して立ち上がる。
「……よし! ……ささやかなものを買えばいいんだな?」
「ファイトです! ヴァネットさん!」
「オレに請求すンのはやめろよ、絶対にな。布団一式で……三万だとか五万だとかしやがるんだ。何年かかるんだか分かったもんじゃねぇ」
とは言え、布団を変えればこの問題は根本的に解決するのだろうかと言えばそうとも思えないのが実情だ。元々は金枝が布団に入ってくるせいで眠り辛いと言うものであったはず。
最低限の支出で、最大の効果を発揮するのには――。
「こちらのネグリジェもおススメですよ? 通気性バツグンですから!」
自信満々に商品解説をする店員のペースに飲まれるのだけは絶対に駄目だと己に言い聞かせ、メルJは寝具を見渡す。
布団一式に目線を留めていると、すぐさまマシンガンのようなセールストークが飛んでくる。
「こちらは羽毛布団になっております。最高級品質の羽毛を使用しており、雲の上のような寝心地ですよ? お客様のような高身長の方なら、もうワンサイズ大きいほうをおススメしております。それに、旦那様と一緒にお眠りになられるのなら、こちらに取り揃えております。試してみますか?」
「だ、旦那様とは……一体誰のことだ……?」
思わずうろたえていると店員は何でもないかのようににこやかに続ける。
「旦那様も大柄な方でいらっしゃいますので、お二人で、となるとダブルベッドでもかなり手狭になるかと思いますよ。やはりキングサイズをおススメしますが、如何でしょう?」
どうやら完全に店員は自分と両兵が夫婦なのだと誤解しているらしい。だからと言って誤解を解くためにここで言葉を弄しても仕方ないのだろう。
「……その、だな。私はよく眠れる寝具が欲しいだけなんだが……」
「でしたら、こちらの夏用布団がおススメです。これから先、寝苦しくなってきますので、通気性の高いものをご用意しております。お客様は海外の方ですよね? 日本の夏は湿度が高いですから、少し薄すぎるくらいでちょうどいいかと」
相変わらず衰えもしない営業トークだ。どうしたものか、とメルJは視線を逃がしていると、ふと一つの商品が目についていた。
「……失礼。これは?」
「ああ、これは――」
――その夜の金枝の担当はさつきだったので、一応は、と言いつけておく。
「三宮さん。今日は他の皆さんの部屋にお邪魔しないようにしてくださいね?」
「……失礼な。それだとまるで金枝が夜半にどこかにうろついている寝相の悪い人間みたいじゃないですか」
実際にはその通りなのだが、とさつきが困惑していると金枝は寝つきだけはいいのか、すっと眠りにつくとすぅすぅと寝息を立てている。
「……一応は、心配だから……」
さつきが学習机について一時間ほど勉強していると金枝がやおら立ち上がっていた。
「……三宮さん?」
「……ううん、おしっこ……」
返答はあったもののほぼ寝ぼけているのは確定だろう。さつきがその後ろ姿を尾行すると、トイレに行った後に訪れたのはメルJの部屋であった。何の疑いも持たずに入っていくのでさつきも抜き足差し足でその背中を追い、メルJの部屋へと足音を殺して入る。
「……ヴァネットさん?」
「しっ。眠ったようだな」
メルJは立ち入った金枝に気づいて起き上がっていた。金枝はと言うと、既に寝入った様子だが、いつもならば布団を占領するところが少し違う。
「……効果はあったんですかね……」
「さぁな。だが……今日はよく眠れそうだ」
金枝がぎゅっと抱いているのは人間大の抱き枕であった。メルJが寝具店で買ったのは大きく三つだ。
替えの布団と、それに抱き枕と、よく眠れるとセールスされていた安眠枕である。
抱き枕は対金枝専用の武器として無事に機能したらしい。金枝はうぅん、と寝言を漏らしつつ抱き枕を抱いて寝返りを打つ。
「金枝はぁ……もう食べられませんよぉ……むにゃむにゃ……」
「……お手本のような寝言を言うのだな、こいつは」
「けれど、よかったんですか? だって替えの布団は……」
さつきの懸念にメルJはそうだな、と首肯する。
「世話にはなったんだ。いい買い物だろう、と私は思ったんだがな。果たして使ってくれるだろうか」
――橋の下に訪れるといつものように両兵がソファの上で寝そべっていたので、メルJは顔を覆っている雑誌を取り払ってやっていた。
「……うぅん、何だよ、ヴァネットかよ。……一体、何だって言うんだ?」
「何だも何もあるか。……私が買ってやった布団はどうしたんだ」
「ああ、それならこっちにあるぜ」
両兵の身の回りは相変わらずの汚れっぷりだが、その中で存在感を示しているのはシングルサイズの布団一式である。他の物品が黒ずんでいるのに対し、真っ白の清潔な色を誇っている。
それも当然、自分が買った新品の布団に他ならないからだ。
「……何でこれで寝ない」
「お前も分かンだろ? 慣れてねぇ布団で寝ると寝つけるものも寝つけねぇんだよ。オレは当分、ソファの上で大丈夫だ。こっちのほうが熟睡できる」
ふわぁ、と欠伸を噛み殺した両兵にメルJは憮然と言い放つ。
「……使うつもりはないのか? 感心せんな」