真面目一本筋なだけが取り柄の自分でもこういうことは儘あるものだ。掃除機を使うのはさすがに近所迷惑な時間帯なので赤緒はぬいぐるみやクッションの場所を変え、机の上の小物を整理する。
こんなことをしている間にも、優等生は問題文の一つや二つは解いているもの。それが分かっていながらも、自分だって勉強だけではどうにもならない部分もある。当然、こういう時に引き伸ばしたところで何もいいことがないくらいは自明の理だ。
「……けれど、どうしても……頭に入んなくって……」
夏も近づき、少しだけ水分不足なのかもしれない。階下へ通り、水をコップ一杯飲もうとして赤緒は鉢合わせた影にびくつく。
「……何よ。赤緒じゃないの」
「ルイさん……。ルイさんもその、勉強ですか?」
「勉強? 何を言っているの?」
「あれ、違うんだ……。中等部でも小テストはあるんじゃ?」
「馬鹿ね。あんなの一夜漬けでどうとでもなるものでもないわよ。結局のところは積み重ねよね」
それは、何と言うか意外そのもので赤緒は絶句する。ルイのような人種は一夜漬け、カンニング何でもありのタイプだと思っていただけに返答に困っているとエメラルドグリーンの瞳が細められる。
「……赤緒。あんた、私なら一夜漬けもカンニングも辞さないとか思ったでしょ」
「お、思ってませんよ……?」
ついつい目線を逸らしてしまったのでルイは嘆息をつく。
「いい? 勉強なんてものは二種類に大別されるわ。やらなくってもある程度の点数が取れると目されるものと、そうじゃないもの。そうじゃないものに関してリソースを割くなんてもってのほかだし、得意なら別にさらさらっと読むだけで勉強する必要性なんてないじゃないの」
うん? と赤緒は疑問符を浮かべる。積み重ねこそが勉強において大事だと言っていた先刻の言葉とは相反している。
「それって……今の発言と矛盾しません?」
「矛盾なんてしないわよ。結局のところ、適切な努力を取捨選択できるかどうかが勉強においては大事なんだから。得意なら、それを突きつめる。苦手なら、ある程度の点数以上は諦める。定石でしょう」
ルイなりの試験に際しての心構えなのだろう。確かに、得意ならさらに高得点を目指すのではなく、ある程度の点数の目算をつけ、苦手科目ならば赤点を取らないようにだけ頑張る。一件理にかなっているようだが、これは――。
「……それだと一生、百点とかは取れませんよね……?」
「赤緒も馬鹿よね。百点なんて一回や二回取ったところで大した成績にも成らないのは日本の学習要綱を見てみれば分かるでしょう。要は平均点を求められているのだから、平均より落ちなければ問題ないのよ」
そう懇々と言い聞かせつつ、ルイは茶菓子を取り出す。どうやら勉強の合間のちょっとしたブレイクタイムにはなりそうだと赤緒は冷やしておいたお茶に手を伸ばしていた。
とくとくとお互いのコップに注ぎながら、赤緒は問いかける。
「けれどそれって……一生努力しないってことでもないんじゃないですか?」
「努力は適切な時に、適切な量だけでいいのよ。過度に勉強し過ぎたって、どうせその領域を超えてまでやることなんてないわ」
ルイはチョコレートを頬張りつつ、どこか不貞腐れたように頬杖をついて断言する。
「……でも、できれば百点満点を取りたいじゃないですか」
「赤緒はそうなんでしょう。私は余計なリソースに割くような脳は持ち合わせていないのよ。第一、そうじゃなくっても人機の操縦系統を覚えなくっちゃいけないのに、勉学なんて寄り道よ」
確かにトーキョーアンヘルの操主である以上、勉学にばかりうつつを抜かしてもいられない。東京の専守防衛は自分たちにかかっているのだから。しかし、それ以前に学生の身分ではあるのだ。
「……でもですよ? キョムとの戦いが終わったら……私たちだって普通の人生を歩まなくっちゃいけないわけで……。その時に学がないと不便じゃないですか」
むぅ、と頬をむくれさせて反論するもルイはナンセンスだとでも言うように肩を竦める。
「それも杓子定規に考えたって仕方ないでしょうに。私たちは最新鋭機である人機を操れる。引く手あまたに決まっているわ」
そうなのだろうか、と赤緒は思案する。国家の重要機密である人機を動かせる素養があるとは言え、一体どのような転職先があると言うのだろう。
「……ルイさんは……学生を続ける気はないんですか?」
コップ一杯のお茶に口をつけると、彼女は少しだけ考える。
「……学生身分も悪くないけれど、私みたいなタイプはどうせ、学生なんてやらせてもらえないわよ。あんただって知ってるでしょう? 人機をマニュアル操縦できる人材は貴重なんだから。……多分、一生、軍部関連からは逃れられないでしょうね」
何だか聞いてはいけないことを聞いてしまっただろうかと赤緒が困り果てているとルイはこちらを指差す。
「それよりも。……赤緒みたいなのが深夜にこうして小休憩を挟むなんて珍しい。……さては頭に入らなくなったわね?」
こういうところもお見通しなのだろう。赤緒は嘆息をつく。
「……まぁ、そうですけれど……。何で、勉強ってこんなに大変なんでしょうね……。私、学習意欲が低いほうではないと思うんですけれど……」
「新しいことを知ったり、既存の復習をしたりするのって思ったよりも大変なものよ。そこに報酬でもぶら下げてあったら別でしょうけれど」
「報酬……」
目に見える報酬はすぐには思いつかない。せいぜい、この数日間で少しだけ体重が減ったので多少の間食は許されるだろうか、と考えているとルイは呆れたように口にする。
「……ま、赤緒の思い付く報酬なんていつもよりご飯を食べたいだとか、そういう何でもないことなんでしょうけれど」
「な――っ! 心を読まないでくださいよぉ……」
「読むまでもないわよ。あんたの心なんて」
ふんと鼻を鳴らしたルイに、赤緒は完全に押し負けた気分でしゅんとする。
「……まぁ、でも勉強しないと小テストも危ないですし……」
「他の連中はどうしているのかしら? 自称天才は教師だけれど、さつきも確か勉強していると思うけれど」
「さつきちゃんは……私たちみたいに一夜漬けとかしないんじゃ?」
「それもただのイメージで語っているだけよ。……ちょっと見て来ましょうか」
「み、見て来るって……?」
うろたえた自分にルイは何でもないように応じる。
「もしかしたらさつきなりの勉強法があるのかもしれないわ。それをちょろまかし……こほん。教えてもらいましょう」
「今、ちょろまかし、って言いました?」
「言ってないわ。とにかく、どうせ赤緒だって集中が切れちゃったんでしょう? そんななら勉強だって長続きしないわよ」
言われてみればその通りで、奮起するのにはもう一息必要そうだ。ルイの後ろに続いて抜き足差し足でさつきの部屋の前へと息を殺す。
まずはルイが扉を開けようとすると、想定外だったのは電気が点いていたことだ。
「……あれ? さつきちゃんも一夜漬けするんだ……」
「何も意外じゃないわ。優等生を維持し続けるためにさつきも色々とやっているってことよ」
しかし、それにしては部屋の中から声が漏れ聞こえてくる。
「そう! そうですよ……! その調子……!」
「独り言……? にしては大きいような……」
確証を掴む前にルイがばっと扉を開けて部屋へと押し入る。
「さつき、御用よ」
その声にびくついたのはさつきだけではなく――。
「ひゃぁっ……! る、ルイ先輩……? に、赤緒さん……?」
「……金枝ちゃん……?」
そう言えばまだ金枝の部屋はないので持ち回りで寝室を巡っていたのだったが、視界に飛び込んできたのは机に齧り付く金枝と、それを応援するさつきであった。
「る、ルイさん……! いきなり開けちゃびっくりするじゃないですか」
「……何でコネ宮が居るのよ」
「何でって……今日は三宮さん、私の部屋で寝ると……」
「そうじゃなくって。……コネ宮がやっているのは……勉強……?」
「あ、はい。三宮さん……明日が小テストだって言うので。中学生の私じゃせめて応援することくらいしかできませんけれど」
まさか金枝も小テスト前に必死の抵抗を試みているとは予想外であった。それにさつきが協力しているのも何だか妙な取り合わせである。
「さつきがコネ宮の応援……? 妙な感じね」
「そ、その……! 金枝だって……テストではちゃんと得点を取りたいですので……!」
「その結果が……さつきちゃんの応援……?」
赤緒はどうも解せないと思いつつも金枝の勉強しているノートを垣間見ようとして、それを防がれる。
「か、金枝のノートを見ないでください……! 恥ずかしいじゃないですかぁ……」
「あっ、ごめん……じゃなくって。さつきちゃんもテストがあるんだよね? ルイさんから聞いたけれど」
「まぁ、それはそうなんですけれど、私はこれくらいでいいかなと言う区切りがつきましたので。あとは実際にテストに臨めれば充分かなと」
さつきはそうでなくともきちんと普段の勉強を積み重ねているはずだ。恐らく、さつきにとってのテスト勉強はこれまでの軽い復習程度で済むのだろう。
「……それで、コネ宮の勉強の応援? 随分と余裕ね」
ずいっとルイが顔を近づけるとさつきは困惑し切って頬を掻く。
「えっと……明日は国語と理科なので……私、それなりに得意なので大丈夫かなーって……」
「呆れた。国語と理科なんて私が最も苦手とするところじゃないの。……さつき、ちょっとズルいわ」
「ず、ズルくはないですよ……多分」
どこか尻すぼみになってしまうさつきに対し、ルイは傲岸不遜に鼻を鳴らす。
「まぁいいわ。コネ宮がいい感じにさつきの妨害をしてくれているみたいだし」
「ぼ、妨害なんてそんな……! 三宮さんの勉強を見るのは私にとってもいい刺激ですし……」
取り成そうとするさつきだが、金枝自身は困り果てているようであった。
「そ、その……川本さんがご迷惑なら、金枝は……」
「三宮さん! いいんですよ、別に……! 私は迷惑とかじゃないですし……!」
「どうかしら。それにしても……コネ宮。あんた、勉強とかするのね」
その発言もかなり馬鹿にしていると思うが、金枝はどこかしゅんとしてしまう。
「そ、その……金枝はあまり……学校に行っていなかったので……。勉強とかよく分かんないって言うか……」
ちょんちょんと指を突いて言い辛そうにする金枝にそう言えば、と赤緒は思い返す。南から聞かされた限りでは、京都に居た時分、金枝は外出も自由ではなかったらしい。当然、学校生活もまともに送って来なかったのだろう。
ともすれば、今回の小テストが初めてのテストなのではないか? 赤緒はどことなくそんな予感がして尋ねてみる。
「金枝ちゃん、もしかして今回の小テストが初めて……とか」
「な――っ! 何で分かるんですか、赤緒さん……! もしかしてエスパーですか……?」
嫌な予感のほうが当たってしまったらしい。となれば、金枝にとっての明日の小テストはただの小テスト以上の意味を持つのだろう。
ふと、さつきが囁きかける。
「……その……三宮さんの事情に関しては実は南さんにも言われていまして……。できる限りサポートしてあげて欲しい、とのことで……」
面倒見のいいさつきには適任だろう。南も南で困ったものだと赤緒は嘆息をつく。確かに金枝をサポートしなければ赤緒自身の高校生活でさえも危うい。ある意味では、金枝が順風満帆な高校生活を送れることこそが、翻って自分のためでもある。
「じゃあその……私も手伝うよ。金枝ちゃん、どれくらいの学力なのか気にかかるし……」
「そ、それなのですが……」
さつきが言葉を濁してもじもじとしている間にもルイが金枝のノートを覗き込む。
「……コネ宮、何よこれ。教科書の丸写し……こんなの逆効果よ」
「えっ……そうなんですか……? でも、教科書の内容をちゃんと理解すればいい点数が取れるはずだって……」
「馬鹿ね。そんなのは小学校までよ。あんた、一応は高校生でしょ。教科書に書かれていない内容だって出て来るんだから、自分なりに分析しないと全然よ」
「る、ルイさん……その……」
「何よ。赤緒のクセに私の勉強法にケチをつけるつもり?」
「いえ、ケチどころか……」
普段は不真面目なルイから出たとは思えない健全な勉強法に舌を巻くほかない。すると、その感想が顔に出ていたのか、ルイが舌打ちをする。
「……ぬかったわ。東京に来てからこういうのには慣れていないつもりだったのに」
「えっ……ルイさん、勉強できたのにできてないフリしていたんですか? これまで私がたくさん教えてきたのに!」
今度は文句が出るのはさつきのほうである。それも当然。ルイに一番手を焼いているのは彼女なのだ。ルイは何でもないように腕を組んでふふんと涼しげに返す。
「誤解しないで。日本語が苦手なのと、理数系が苦手なのは本当よ。カナイマでそれなりの勉強法と言うのは習ったけれど、日本の学校ってのは退屈でいけないわ。だから覚える気になれないのよ」
つんと澄ましてとんでもないことを言ってのけるのだから、さつきの心労は察するに余りある。
「……じゃあ結局……国語と理数系は私が教えるしかないってことじゃないですか……。まぁ、いいんですけれど。でも、ルイさんが仰ることにも一理あります。私はまだ中学生ですけれど、教科書通りじゃ高校の勉強は突破できないと思いますし」
「うぅ~……じゃあどうしろって言うんですか? 金枝はその……学校と言うものがよく分かっていなくって……」
その困惑は痛いほど分かる。赤緒自身、三年前より以前の記憶がないのだ。その最中で構築した自分なりの生き方の指標に学校はなかったのだから。だが、だからと言って自分と同じ方向性が合っているとも思えない。どうしたものか、と頭を悩ませているとルイがノートを指差す。
「問題集とかあるでしょう。それをまず解いてみて、どれくらいの理解力と学力があるのかをはかるわ。その結果から勉強を教えてあげる」
「る、ルイ先輩が教えてくださるんですか……?」
結果的にさつきの秘密の勉強法を盗み取るつもりが、金枝に勉強を教えることになっているが、ルイは不遜そうに腕を組む。