JINKI 328 黄昏にて、杯を片手に堕天する

 こうしてエルニィが自分の機嫌を窺うような猫なで声を使う時は大概ロクなことではない。洗濯物を畳みながら、赤緒は憮然と向き直る。

「……何です? 言ってきますけれど、臨時のお小遣いはあげませんよ?」

「あ、いや、違って……。いや、違くもないんだけれど……」

 どうしてなのだかもじもじとするエルニィを見ていると何だか自分のほうがむずむずしてくるので、赤緒は単刀直入に用件を聞いていた。

「……はぁ。何なんです? 何かご用件でも?」

「そ、そんなに構えないでってば……! いやさ? ボク、ちょっと……欲しいものがあって……」

「臨時のお小遣いはあげられませんよ?」

「……うん。だろうからさ、ほら。アルバイトでもしようかなー……って」

「うん? アルバイト……ですか?」

 それは少しおかしいのではないのだろうか。確か、エルニィはさつきのクラスを受け持っているはずだ。だと言うのに、アルバイトなど許されるのだろうか。

「そうそう! ボクもさ、自分でどうしようもない時にはほら、空いている時間もあるし、アルバイト! ってね!」

「……何か私に、確認しないといけないことがあるんですよね?」

 ただ単にアルバイトをするだけならば自分を通す必要性はない。だと言うのに、エルニィがわざわざこうして接触してきたということには理由があるはずなのだ。

「うっ……。変なところ鋭いんだからなぁ……。まぁ、簡単な話。ちょっと付き添いで来て欲しいんだよね。アルバイトの面接に」

「……私が付き添い、ですか?」

「うん、そう。無関係じゃないんだよ。ほら、この間赤緒が両兵と行ったって言う、銭湯あったでしょ? そこなんだよね」

 申し訳なさそうにエルニィがチラシを取り出す。「時給600円から。アルバイト募集」と書かれているのは以前、両兵と立ち寄った銭湯であった。

「あれ、ここ……。でも、立花さん、先生やっているじゃないですか。アルバイトなんて必要ないんじゃ?」

「いやさー。臨時職員なもんだから、次の給料日までお金は振り込まれないの。……で、これが本題なんだけれど……。ルイにちょっと借りちゃって」

 てへ、と舌を出して努めて大したことではないようにしようとするエルニィへと、赤緒は詰め寄る。

「……お金の貸し借りは禁止にしていましたよね……?」

「怒らないでってば! ……赤緒、顔怖いよ?」

 そう言われてしまうと、赤緒は自ずと表情を気にしてしまうが、それはそれだ。金品の貸し借りは柊神社ではご法度である。

「……ですけれど……いくら借りたんです?」

「まぁそのぉー……三千円くらいかな?」

「……本当は?」

「……もう、嘘付けないんだからなぁ、赤緒には。……マジな話、三万円くらい?」

 それを聞かされた途端、赤緒はとんとん、と畳を叩く。無言の圧でエルニィが申し訳なさそうに項垂れて正座を組んでいた。

「……三万円だとして、立花さん? どうにもならないわけじゃないはずですよね? ……何でアルバイトなんです?」

「うっ……! そ、そのぉ……さ。シールやツッキーにも借りられないし、さつきにも言ってみたんだけれど駄目だったし……ごめんっ! 今は赤緒にしか頼れないのっ!」

 両手を合わせてお願いされるが、そんな簡単にはなびかないぞ、と赤緒は心を鬼にする。

「……こほん。では、アルバイトをするとしても、立花さん、ここ行ったことありませんでしたっけ? 何で私の同伴が?」

「そ、そのさ? ボクだけだと遊びに来たって言うか……冷やかしだと思われちゃうじゃん? 赤緒が居れば、少しはマシかなーなんて」

 後頭部を掻くエルニィはどうにも浅ましい考えのようである。赤緒はため息をついて、チラシを受け取る。

「……ここで働くとして……そうなるとお小遣いはまた次の機会に考え直さないといけませんが……」

「そ、それは言いっこなしでさ……! ほら、ボクも労働するわけだし! ここは大目に見てよ……お願いっ! このとーり!」

 どうやら相当に金欠のようである。エルニィがここまで困り果てるのも珍しい。赤緒は、まぁと呻る。

「……労働の正当な対価として、金銭を得るのを制限するほど、偉ぶった気はないですけれど……」

「じゃあさ! 赤緒、来てよ!」

 エルニィが腕を引くので赤緒は当惑する。

「ええ……? 今からですか?」

「今からだよ! 時間が経つと、他のバイト決まっちゃうかもじゃん!」

「……あの銭湯で立花さん以外の方が……?」

 以前両兵と立ち寄った際、閑古鳥が鳴いていたのを思い返す。とは言え、やる気を失われては元も子もないので赤緒はエルニィの後に追従する。

「たのもーっ! すいませーん、ここでアルバイト……――」

 ――そこで結局のところ、番頭の老人が指定したのは、二人同時に採用されたければより風呂場を綺麗にしたほうを選ぶ、とのことであったのでいがみ合う結果となったのだ。

 赤緒は事の次第を思い返しつつ、エルニィと何度もぶつかり合う少女を視野に入れていた。

「おい! 自分邪魔やぞ! そっち掃除せぇ!」

「そっちこそ! ほら、あっちが空いてるじゃん!」

「何やと……!」

「何だって……!」

 想定外であったのは、ここで行き会った少女が以前、柊神社の前で遭遇した相手であったことで赤緒は二人の仕事ぶりを見張る役目になった不幸を回顧する。

「……私がアルバイトしたいわけじゃないのになぁ……」

 デッキブラシで鍔迫り合いを繰り広げる二人が喧嘩をやめる気配はない。そもそも、相手の名前も自分はよく知らないのだ。

「……あの子、何なんだろ……」

「気になる?」

 不意に呼び掛けられ、赤緒は番頭へと振り返る。

「あ、いや……」

「はい、これ。履歴書、書いてきたみたいだけれど」

 いとも簡単に個人情報を差し出され、赤緒は戸惑いつつもその名前を読み取る。

「瑠璃垣……瑠璃垣シオン……さん? 何だか不思議な名前……」

「おい、親父ぃ! このサル顔、とっとと追い出せや! わしだけでバイトは充分じゃ!」

「よく言うよ! さっきからどこも掃除できてないクセに!」

「何やと! 自分が居らへんかったら、今頃全部ピッカピカじゃ!」

「それはこっちの台詞! キミさえいなければ、ボクがちゃーんとやってるんだから!」

 言い争いも衝突も止む気配はない。赤緒は、この通り、と番頭の老人に判断を乞う。

「その……どうすればいいですかね……? 私、何も思い浮かばなくって……」

「そう? じゃあ、特別ボーナス。アイス一本付けてあげる」

 番頭の老人の言葉に二人の諍いがぴたりと止み、互い違いに質問する。

「……それはあれか? 三百円の高い奴か?」

「まぁ、特別ボーナス? って言うんなら、せっかくだしね。貰っておこうか」

「その代わり、喧嘩はなしね。じゃあ、お願い。あと二時間で開店するから」

 まさかそんな大それたものではないことで二人が喧嘩をやめるとは思えなかったが、次の瞬間にはエルニィもシオンも大人しくデッキブラシを床に走らせる。

「……おい! そっち……まだ汚れとるぞ……!」

「うっさいなぁ……。そっちだって汚れてたらお客さん来ないんだからねー」

 反目しつつもお互いに邪魔しない辺り、これが妥協点であったのか、と赤緒は番頭へと振り返る。

「……おじさん、二人のこと、よく知って……?」

「いんや。ただまぁ、長く生きてるとよく分かるもんだからねぇ」

 その言葉に微笑ましくなって赤緒はエルニィとシオンの仕事風景を眺める。

「……まぁ、仲良く仕事してくれれば……いいのかな?」

 ――ようやく一仕事終えたエルニィとシオン、それに赤緒へと番頭が冷やしておいたコーヒー牛乳と棒アイスを差し出す。

「えーっ! あんだけ頑張ったのに……安い棒アイス……」

「ケッ! ケチくさいのぉ……」

 そう言いながら棒アイスに齧り付く二人を他所に、赤緒は番頭へと喋りかける。

「で、そのぉ……立花さんを採用していただけるんですかね……?」

「うーん、そうだねぇー。まぁ、たまにでいいよ。エルニィちゃん、先生もしてるんでしょ?」

「まぁねぇー。たまの息抜きに来ようかな」

「それってアルバイトって言います?」

「で、瑠璃垣シオンちゃんね。君は毎日来てくれるの?」

 呼びかけられてシオンはびくりと肩を震わせて硬直する。

「そ、そのぉ……わしが酒くさいだとか、身格好がどうだとか……そう言うんやったら……別に……」

 どうしてなのだか、シオンはつい先ほどまでの横暴さとは裏腹の謙虚さを見せる。それを番頭の老人は何でもないように応じてオッケーサインを作っていた。

「うん、いいよ。全然大歓迎。なにせ、ちゃんと仕事してくれるような我慢強い人、なかなか居なかったからねぇ。時給は600円でいい?」

「あ……あぅ、そのぉ……。お願い……します……」

 その姿がしおらしく、赤緒はエルニィへと囁きかける。

「あの人……瑠璃垣さんって何かあったんです?」

「ああ、何か仕事しながら話聞いたら、お金に困ってるんだってさ。でも、意外だなー。瑠璃垣って……どっかで聞いたような苗字だけれど……もしかして瑠璃垣なずなと関係……ある?」

「あ……あぅ……なずなはわしの姉……じゃ」

「……うん? あの瑠璃垣なずなの……じゃあ妹?」

 こくり、とシオンが頷く。胡乱そうな視線を振り向けるエルニィに赤緒は注意する。

「立花さん! ……人には詮索されたくないことの一つや二つありますよ」

「いや、でも……まぁ、いっかぁー。ここで判断するのはボクじゃないし」

 何だか含むような言い草であったが、赤緒はそれ以上踏み込まなかった。

 このような形で再会するとは想定外であったが、赤緒にしてみてもシオンとは仲良くしたいところである。

「……その、立花さんってすっごくワガママで、時々すっごく無節操ですけれど……よろしくお願いします」

 手を差し出すと、シオンは意外そうに目を丸くする。

「赤緒ー、それってボクの悪口じゃない?」

「事実じゃないですか、もう。……瑠璃垣さん?」

 唇を尖らせて抗議すると、シオンは頬を掻いて戸惑っている。

「……いや、その……じゃな。わしのことは、シオン、でええ。自分は……」

「……柊赤緒、ですっ。立花さんと仲良くしてあげてくださいね?」

「……まぁ、その……構わん。別に……」

「仲良くしてあげるのはボクのほうなんだけれどなー……。メカ耳っ娘」

「な……っ! 耳のことは言うなや……」

「立花さんっ! 相手のことをちゃんと考えないと! 触れられたくないこともあるでしょうし」

「……いや、でもメカ耳……まぁ、いいか。アルバイト仲間だしね」

「……アルバイト……仲間?」

 不思議そうにシオンが口にするので、赤緒は頷く。

「立花さんと、アルバイト、ちゃんと指導してあげてくださいね? お願いしますっ」

「お姉さん、何だか保護者みたいだねぇ」

「……ホント、赤緒ってばオカンなんだもんなぁ……」

 二人分の茶化しを浴びつつ、赤緒はシオンの戸惑いがちな手を取る。温かでしっかりとした体温を感じさせる手であった。

「あ……その……」

「私も時々は来ますので……。仲良くしてくださいねっ、シオンさん!」

『――阪神レオボンズ、開幕ヒットー! 今シーズンは波乱かぁーっ!』 

 毒気を抜かれるとはこのことで、シオンは家に帰っても野球中継を流しながらぼんやりしていた。

「……ただいまぁ……あれ? 帰っていたんですね、シオン」

「ん? ああ……ちょっとあってな」

「もしかして、バイト全部クビ……」

「いや、一つだけ受かったらしい。銭湯で勤務とのことだ」

「せ、銭湯……? その、隠語とかじゃ……」

「だぁーっ! いかがわしい意味とちゃうわい! ……本物の銭湯じゃ。ただの、な……」

 チラシを差し出すとさすがになずなも理解したようで、けれど、と首を傾げる。

「何で、銭湯?」

「色々とあるんだろうさ。わたしたちはせいぜい、それを温かく見守ってやろうじゃないか。自分の稼ぎくらいは自分で、だろう?」

 何だか見透かされているようで、シオンは立ち上がる。

「ちょっと、出る」

「あっ……もう! ちゃんと仕事してくださいよ! 三日坊主なのは勘弁ですからね」

 なずなの声を背中に受けながらシオンはいつもの酒屋に向かったところで、ふと店先で飲んでいる相手を見つける。

「お、いつもの」

「おう。……何や、今日は店先かいな」

「どこで飲もうがオレの自由だろ。……で」

「……で?」

 その隣に座り込むなり問い返され、シオンは戸惑う。

「いや、利子つき。三百円って言っただろうが」

「そういや、そないなことも言うたな。……なぁ、兄はん。ちょっとだけ待ってくれや。わしも働き始めたんじゃ」

「……それはホラじゃなくか?」

「ホラ吹いたってしゃーないやろうが。……まぁ、今日からの勤務やったんやが」

「そうか。すぐに返せたぁ言わねぇよ。その職場は長く続きそうなのか?」

「……うん、まぁ……。それなりに、やな」

「そりゃーいいことで。……じゃあ、預けておくぜ。三百円、利子つきでな」

 シオンはその返答に自ずと視線を向ける。

 黄昏時の酒屋の前で、黄金の夕映えが差し込む。

 何故なのだろう――別にそういう性質ではないはずなのに、今は何だか顔が見られない気分だったのは。

「……なぁ、兄はん。三百円の利子がある間は、わしと会っても、チャラにしてくれるか?」

「そうだな。それも考えておくぜ。ほれ、ワンカップ」

 途中まで相手が飲んでいたそのワンカップを手に取り、シオンは一拍の逡巡を挟んでから唇を付ける。

「……ほんまに……東京言うんは、分からん街じゃ。解せんことばっかりで……何だか調子狂うわ」

「まぁな。でも、悪くねぇ街さ」

 その言葉には同意で、シオンはワンカップを飲み干して暮れかけた空を眺めるのだった。

「ほんま解せんのがボッケームカつく……。酒が旨いことくらいしか、変わらんことやん……」

『阪神レオボンズ、打ち返されたぁー! 二安打!』

「何ッ! おい、打ち返されちまったぞ! ……チクショウ、今日の取り分はなしかよ……」

「酒に賭博に野球……兄はん、ロクなもんとちゃうぞ?」

「お互い様だろうが。……なぁ、今日はどっちが勝つと思う?」

 そんな、自分の境遇などまるで度外視したような問いかけにシオンは思わず吹き出す。

「……何やかなぁ。兄はんと居ると飽きへんわ」

「……何だよ。笑えるんじゃねぇか。いつも仏頂面で面白くなさそうに酒飲む奴だから、そういう顔しかできねぇんだと思ったぜ」

「意外やったか? わしも想定外じゃ。こんな風に……設計されたなんてな」

 そう返して、今はただ管を巻くのが自分にはお似合いの黄昏時――この身に馴染んだ「堕天」であるのは間違いないはずなのだから。

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