巻き上げられた泥とプレッシャー兵装の汚染、そしてこの大地を染め上げる命の一欠けらでさえも簒奪する、生ぬるい汚泥の雨。
陽子は天に向けて慟哭し、銃弾を無茶苦茶に撃っていた。
こんな世界に誰がした、こんな世界でなければ彼らは穏やかに生きていられたであろうに。
奥歯を軋らせ、涙を噛み締めて、陽子は何度も何度も。尽きぬ恩讐の塊のように銃弾を撃ち続けるが、やがて弾も尽きた。
もう、生きていくような気概もない。
ホルスターに留めていた最後の一発を、弾倉に込める。
自害用の銃弾であった。
顎下に銃口を据え、瞼を閉じる。
堕ちる世界を見たくなかったかもしれない。あるいはこの凄惨な戦場の結果から、最期くらいは無縁で居たかったのだろう。
しかし、網膜の裏で明滅するのは昨夜のやり取りで。そして――彼らは立派に死んで行った。戦いを全うし、そして命を散らしたのだ。
――では、自分は?
トリガーにかけていた指を彷徨わせる。それだけの価値もない、自分自身の命の行方は、何処へ。
『あれ? 生きてる人居るじゃないの』
不意に澱んだ空の向こうからそんな声が投げかけられる。
黒い雨から陽子を守るように、鋼鉄の巨神がマニピュレーターでひさしを作る。
『あんた、大丈夫? 酷い顔だよ?』
こんな場末に真っ当な人間が居るわけがない。これはキョムの罠か、あるいは――ここまで戦い抜いてきた自分へのささやかな贖いか。
「……まるたけ、えびすに……おし、おいけ……」
『生きてる……よね? うん、あんた幸運だわ』
人機のコックピットが開く。六翼のトウジャタイプから出てきたのは、眩いばかりの金髪の女性であった。
「あねさん、ろっかく……たこにしき……」
「私はルッカ! ルッカ=ハーデン准尉! あんたの名前は?」
「……わたし、は……」
――不意に眠りの皮膜が解け、陽子はいつの間にかかけられていた毛布を撫でる。
「おっ、起きた? 最近、疲れが溜まっていたのかもねぇ」
ルッカが子供たちに毛布を掛けている。普段は彼ら彼女らの世話は自分に預けっ放しなのに、こういう時に頼りになるのがアークの隊長だ。
「……夢を、見ていました。隊長とはじめて……会った時のことを」
「今と変わらず、いい女だったでしょ?」
にひひ、と自信満々に微笑んでみせるルッカに、陽子は嘆息混じりに応じる。
「……本当に、隊長は変わりませんね」
「でしょー? ま、最初からあんたとは物が違うって言うかさ」
「……これ。くれたのも隊長でしたよね? 銃なんて握ってるんじゃないって」
陽子の手の中にはかつてルッカより預かったけん玉がある。今でこそ器用に扱うことができるようになったが、思い出を消化するのにもこのけん玉は役立ってくれていた。
静かに歌い出す。
未だに知らぬ、極東の地のわらべうたを。
「まるたけえびすに、だっけ? ……あんたが辛いのなら、それも捨てちゃっていいのだろうけれど」
「いえ、捨てませんよ。……これだけは、捨てません。私だけの……思い出ですから」
「そっか」
毛布を掛け直そうとして、陽子は脳内で閃く感覚を前に立ち上がる。
「……昼間の《バーゴイル》……!」
「おっ、陽子の第六感? いーなー。私もそれほしいー」
「……無駄口、叩いている場合でもないですよ。……来ます」
「じゃあ、対応策は決まってるよね?」
陽子は頷き、その手に握っていたけん玉をホルスターに留め、その代わりに二挺拳銃を取り出す。
「行きます……!」
「……オーライ。じゃあ行くとしましょうか!」
昇降機で《セラフィトウジャ》に乗り込むなり、陽子は上操主席に備え付けられていたオプションパーツへと二挺拳銃を取り付ける。
その瞬間、全神経が《セラフィトウジャ》に接続されたのを感覚する。通常、血続が用いるアルファーの戦闘法とも違う、自分たちが編み出した――アークの儀礼だ。
繋がった神経を通して《バーゴイル》の姿が大写しになる。《セラフィトウジャ》そのものになった陽子は吼え立て、下操主席のルッカと呼吸を合わせていた。
「いっけー――ッ!」
超加速戦術であるファントムに浸った機体が掻き消える。実際には十キロ以上離れていたであろう《バーゴイル》へと《セラフィトウジャ》は一瞬で肉薄し、その肩口で体当たりを仕掛ける。
「陽子! 超高度人機駆動戦術――行くよ!」
「はい……ッ! これ以上……奪われて、堪るもんかぁ――ッ!」
二挺拳銃のアルファーを通して《セラフィトウジャ》の脈動が伝わる。六翼を広げ、《セラフィトウジャ》が手刀で《バーゴイル》の片腕を落とす。その勢いのまま浴びせ蹴りで血塊炉を叩き据え、浮かび上がった《バーゴイル》へとルッカとの呼吸が一致する。
血潮も鼓動も、全てを一体化させてルッカと陽子が吼えていた。
《セラフィトウジャ》の貫手が《バーゴイル》の血塊炉を砕く。装甲を穿ち、そのまま捨て置くかのように背を向けていた。
命の塊である血塊炉が《セラフィトウジャ》の手の中で脈打つ。
自分は、かつて黒将を滅ぼしたようなそんな操主のように、優しさで戦うことはできない。しかし、恨みでもましてや憎しみでもない。
これは――誓いだ。
「覚えておきなさい。私たちは“アーク”。力でもって、力を制する。方舟の導き手よ」
ルッカが宣言すると同時に《バーゴイル》から抜き取った血塊炉を握り潰す。完全に命の息吹が途絶えた《バーゴイル》を見下ろし、陽子は呟いていた。
「そう、いつか……この空の彼方を見た、そんな操主と同じように……。力だけではない、生き方を選べれば……」
――黒く染まったロストライフの土壌はどこまでも代わり映えのない。ルッカが下操主席で欠伸をしたのを、陽子は諫める。
「……隊長。警戒機動中ですよ」
「だってぇー……昨日もロクに寝れなかったし。陽子はいいよねー、タフで」
「弱音を吐かないでください。まったく。……格納コンテナ、今日は下ろせるといいですね」
いずれ、少年少女らも理想郷に降り立つ日を願っているはずだ。ならばその日まで、自分たちは方舟を漕ぎ続けよう。
そのための“アーク”――荒れ狂う厄災の波を乗り越え、明日に繋げるために。
「……ま、私らは結局、自己満足だけれどねぇ。本当ならアンヘルと協力したほうがいいのは自明の理だし。あの子……八将陣シバと旅をしていた子とも、また会うのかもね」
その時には、自分たちの生き方を説くことも少しはできるのだろうか。そんな安穏とした日々が訪れるとも思えないが、陽子は血続トレースシステムに袖を通して、ふっと呟く。
「……けれど、そんな日々が訪れるとすれば……」
それはきっと、遥かなる旅路の先を行く、安息の大地を踏める約束の日であろう。
「その日まで……泣かない。泣くもんか……」
いずれ来たる希望の明日のために、“アーク”の擁する《セラフィトウジャ》は、翼を広げて今日も行く。
黙示録の日々を超えて、幾百の夜の先へと。求める心のふるさとは――未だ遥かに遠く。