JINKI 340-10 白と黒

 生命の大海。

 どこまでも続く水平線。

 ざざん、と足元に流れ着く貝殻。反復する津波。繰り返す生命の営み――それらの外部情報が劈くような星の絶叫。

 サイラスは精神の砂浜で――命と死の狭間で――ただ美しい貝殻だけを拾い上げていた。

 その途端、海原で一匹のクジラが浮き沈みして尻尾で海面を叩く。

 それと現実の視野に戻ったのは、ほぼ同時。

 肉体はまだある、精神は漂白されてはいない、このがらんどうの身を衝き動かす魂は、まだ正常に稼働している。

 ならば――。

「……オレに従えェ……ッ! クリオネルディバイダー……!」

 咆哮が戦場を貫き、《ヴェロニカ》の両腕が互い違いに《ゼラニウム》の機体を貫いていた。

『……時間、か。多重屈折装甲も臨界点だな』

 片方の《ゼラニウム》が砕けるが、それは先刻までの陽炎の幻だ。本体は既に後退しており、射程から逃れている。

「……逃がすか……!」

『逃がすか、か。それをお前が言うのは、お笑い種だよ。あの戦場から、おれを逃がしてくれたお前が』

 その言葉にサイラスは前進を止める。《ゼラニウム》の頸椎に埋め込まれていたコックピットハッチが開き、血続トレースシステムと共に操主が戦場に姿を晒す。

 途端、サイラスは絶句していた。

「……うそ……だろう……? 氷野……?」

 硬直し、眼を戦慄かせる自分に比して、《ゼラニウム》の操主として白いRスーツを纏って屹立する存在は――氷野顕にしか見えない相手は冷静であった。

「嘘、偽りに思えるのなら自分の眼を疑えよ。お前はいつだってそうだっただろう。サイラス」

 あり得ない邂逅ではない。これまでに何度か顕の実在を感じさせる戦場での第六感はあった。だが、いざ目の前にすれば言葉も出ない。

 否、それよりも今は――。

「……立てるようになったのか……? お前……」

「これも、キョムの実験の賜物だよ」

 顕は自嘲するように頬に笑みを張りつかせる。まるでそれそのものに意味などないかのように。

 サイラスは思わず、《ヴェロニカ》のコックピットを開放していた。

 その手に対人用のライフルを構え、サイラスは顕と対峙する。

 黒の《ヴェロニカ》と、白の《ゼラニウム》。

 相克する存在同士が、決して混ざり合うことのない戦場に吹き荒ぶ灰色の烈風の中で互いを認めていた。

「……お前は……本当に……キョムに降ったのか……!」

「そうだと言えばどうする? おれをここで撃つのか?」

 顕の表情に、迷いなどない。心底、その問いの無意味さを嗤っているようであった。

 サイラスはライフルを構え、照準の中に顕を捉える。

「答えになっちゃいないだろ……! 答えろよ、氷野! お前は……お前はオレの……敵なのか!」

「そうだ」

 銃口が震える。

 即答が返ってくるなど、そんなこと思いも寄らない。

 顕が乱心したわけではない。催眠術や暗示のようなもので操られているのかとも思ったが、その眼差しに湛えた本心に、長く居続けた自分だからこそ分かる。

 顕は、ただただ今一度、世界に問うているのだ。

 自分のような人間が戦わなければいけない、この世の愚かさを。

「……お前は……お前はァ……ッ!」

 叫びと共に引き金を引く。

 ライフルの弾丸が逸れ、顕の頬に一文字の傷が走っていた。

「狙いはちゃんと絞れよ、サイラス。お前らしくもない」

 顕の右足が上がっている。それそのものも信じられなかったのに、右膝に着弾したはずのライフルの弾頭が弾かれたのだ。

 そのRスーツから覗く――白銀の装甲に。

「……義足……? おい、氷野……まさか……」

「偽ったって仕方ないだろうな。見ろよ、サイラス。これが――おれの覚悟だ」

 焼け爛れたRスーツを引き千切り、顕が《ゼラニウム》の後頭部に足を付く。膝から先は完全なる鋼鉄の義足であった。

「……なんて……なんてことを……」

「なんてことを? 可笑しなことを言うな。おれの新しい足がそんなに不可思議だとでも?」

 新しい足――それを聞いた瞬間、サイラスはその場に膝を折っていた。

「なんてことを……。お前は……戦わなくっていい道が……」

「絶望するなよ、サイラス。おれはようやく、こうしてお前と対等になれる。対等に――殺し合えるんだ。改めて、名乗ろう。おれの名前は氷野顕。――キョムの誇る死の葬列。八将陣、氷野顕だ」

 辻風が舞い上がる。

 キリビトタイプの触手が再び、《ヴェロニカ》を拘束していた。

『顕くん! そろそろ時間よ! ……ここは撤退を。充分に戦果は得られたわ』

「分かったよ、ダテンさん。じゃあな、サイラス。これから先は、晴れて敵同士だ」

「……待てよ、氷野」

 身を翻そうとした顕へと、サイラスは言葉を投げる。制止した顕へと、サイラスはライフルを杖代わりにして立ち上がり、そしてよろめいていた。

「……既に限界だろうに。クリオネルディバイダーを人機に搭載しているとは思わなかったが、その奔流は命そのもの。ただの一血続が制御するのには一度や二度じゃ不可能なはず。本当ならば回収するのがキョムとしては当然なんだが、今の《ゼラニウム》では限界だ」

「……待てって……言ってるだろうがァ……ッ! オレを見ろよ! 氷野ぉ……ッ!」

 顕を睨み上げるサイラスであったが、見返したその瞳はあまりにも冷徹であった。これまでの、自分のよく知る氷野顕のように迷いも甘さも噛み締めていた双眸ではない。弱者は捨て、強者のみが生き残るべきとでも言うべき、この世の摂理そのものが覗いているかのようであった。

「……さよなら。サイラス・クライヴ」

「氷野ぉ――ッ!」

 シャンデリアの光が降り注ぐ。

 直後には大地が抉れ、《ヴェロニカ》と共にサイラスは押し流されるように転倒していた。装甲に何度も身を打ち据え、激痛が走る中で光の消え去った戦域を見渡す。

《ゼラニウム》もキリビトタイプも影も形もなく掻き消えている。

『……達す! グレンデル隊を含む、この戦場の全員に通信を繋いでいる……! こちら、ウィラード・ダグラス……! 敵人機は撤退……繰り返す、敵人機は撤退した! 《ハルバード》は大破したが……まだ無事だ。総員に通達する……! 生存者を引き連れて、一時撤退……! 重ねて命じる……徹底しろ……!』

 黒い雨が降り始めていた。

 戦場の汚泥とリバウンドのプレッシャー兵装の副産物である鼻孔を突くオゾン臭の禊の雨が、強く降りしきっている。

 サイラスは天を仰いだまましばらく茫然としていたが、戦場のそこいらかしこで高熱に巻かれて歪曲した《ホワイト=ロンド》の残骸や、大破した人機を捨てて兵士たちが統率を取り戻したように動き始めるのをようやく認める。

 愛機である《ヴェロニカ》に抱かれるようにして、自分は泥にまみれ、煤けた灰色の砂煙に晒されていた。

 普段ならば戦士の勲章のはずの泥も、汚れも、この身を流れる血潮一つも、今はどれもこれもが敗残兵の証――。

 サイラスは何度も何度も、ライフル銃を天に向けて撃つ。

 指の皮がめくれ、血が滲んでも何度も何度も。まるで、返事を乞うかのように。

「氷野ぉ……っ! お前はぁ……っ……!」

 敗北――それが色濃く戦場を染めていく中で、サイラスは弾切れを起こしたライフルを抱えて横たわる。

 いつしか、雨は強くなり灰色の世界の輪郭はぼやけていった。

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