「その……昨日の……」
「ん~? なに~? あっ、それ今日までのじゃないの! 赤緒、とっとと入って!」
そう急かすジュリに完全に飲まれた形で赤緒は敷居をまたぐ。
「あ、あの……お邪魔します~……」
「挨拶はいいから。……あちゃ~……これ、本当に急ぎの用事だわ。とは言っても、私はこの調子だし……」
封筒から取り出された書類にジュリはうんうんと頭を悩ませている。その様子を見て、何もしないと言い切れるほど非情に徹し切れないのが自分だ。
「……そ、その……少しはお手伝い……?」
「あぁ! 助かるわ! じゃあこれ! お願いねー」
ジュリに差し出されたのは先日の小テストの採点であり、赤緒は戸惑いを浮かべる。
「じ、ジュリ先生……? これ、生徒の答案……!」
「うーん? ああ、これ、答えね」
「あ、それはどうも……じゃなくって! 駄目じゃないですか! 生徒にテストの採点をさせるなんて!」
「え~? 別に誰が丸を付けたかどうかなんて関係ないじゃないの。要は採点だけ間違えなければいいんだからね。その点で言えば、赤緒の責任は重大よ? 一点でも間違えれば駄目な世界なんだから」
そう言われると目の前にうず高く積まれた答案の数に唾を飲み下すが、赤緒は赤ペンを手にして答えと何度も見合わせる。
「あっ、ここってこういう答えだったんだ……って……いいのかなぁ、これ……」
ある意味では答え合わせなのだが、赤緒は一抹の罪悪感を覚えつつ他の生徒の答えに丸とバツを付けていく。
――そんなことが繰り返された後に市役所まで駆り出された結果、帰ってきた赤緒を待っていたのは、またしても終わりのない答案地獄だ。
「おかえりー。これ、まだ終わってないから頼むわね」
「……もうっ。まだ終わってなかったんですか? えーっと、これがこれで……これはあれで……」
「間違えないようにねー。その子らもあんたと同じ、私の生徒には変わんないんだから」
「わ、分かってますけれど……それにしたって重責なんじゃ……」
何でもないように残ったほうの手を振るジュリの感性には辟易しながら、赤緒は丸とバツを順繰りに採点していく。
「……何だか……とても悪いことをしているような気分……」
「なぁーに言ってんの。私の怪我の責任くらいは取ってよねー。えーっと、この書類にはサインが……赤緒」
潜めたような声を掛けられたものだから、赤緒は嫌な予感に背を伸ばす。
「……言っておきますけれど、生徒の領分以上のことは……」
「分かってるってば。ここさー、サインとコメントが要るんだけれど、見ての通り。利き手が駄目なもんだから……」
数秒の間、ジュリとの見つめ合い。
その末に赤緒は言わんとしていることを察していた。
「……まさか私に代筆させようと……?」
「何よ。嫌とは言わないわよね?」
うっ、と赤緒はここに来て逃れられないものを感じて嘆息をつく。
「……仕方ないですね。えーっと、ここですか?」
「そうそう。私の字体はこんな感じだから……軽く真似てもらえる?」
ジュリが利き腕ではないほうで書いた文字はのたうっているものの読み取れる。その器用さにはさすがは教師と言うべきか。
「……けれど、こんなのさせてもよくないですよ。何だか嘘をついているみたい……」
「嘘でもちゃんとしてれば何とかなるんだってば。問題なのは無記入なことなんだから。……まぁそれに? 赤緒のせいってのもあるからねー」
「わ、私ですか? ……ジュリ先生が人機で襲ってこなければ、怪我もしなかったのにぃ……」
「仕方ないでしょ。私にとってはキョムの八将陣も、先生やってるのも同じくらい大事なんだからね。あっ、そこ! 漢字間違えてる!」
指摘されて赤緒は不承げに文字を直しながら、ジュリの本意を問い返す。
「……でも、ジュリ先生。何でキョムをやめることはできないんですか? だって……もう充分になんていうか……ちゃんと先生してるじゃないですか。修学旅行の時もですし、今だって」
「赤緒は恩師と仰ぐ人間と戦いたくはないかー」
「それは……! それは当たり前じゃないですか……。だって誰だって……知り合いと戦いたくなんてないですよ」
「シバは? あの子だって知り合いでしょ?」
「シバさんは……! 色々あったって言うか……」
何と言うか、シバとの関係性は簡単には清算できそうにもないのだ。一度決着めいたことはあったとは言え、あれも行きずりになった運命のように感じている。もっと相応しい場所で――もっと相応しい展開があったのではないか、と。
「……なるほどね。あんたたち、相変わらず面倒な因果に囚われているわ」
「ジュリ先生?」
「何でもない。よし、これで一通りの書類には目を通したし、私の指示する書面にサインしてくれれば、あとは終わるから」
こちらが難しい書面と顔を突き合わせている間にも、ジュリは利き手ではないほうの手で器用に答案の丸バツを付けていく。
「……分かんないなぁ。何で、先生としてそこまでしっかりしてるのに、昨日みたいなことを? 正直……」
いや、これは言っていいのか。そう感じて言葉を彷徨わせたのを、ジュリは目聡く悟る。
「戦いなんて必要ないのに、って? ……それは見解の相違ってものよね。赤緒、いいことを教えてあげる。あんたはまだまだ……社会経験が足りないからピンと来ないかもだけれどね? 正直、この世界ってどこまでも不均等で、どこまでも不均衡なのよ。誰も彼もが一人きりで生きていけないのに、一人で何もかもを抱え込もうとする。その痛々しさがね、時々見てらんないの」
それは自分のことを言っているのだろうか。それともシバのことを? 疑問を氷解させられないまま、ジュリは言葉の穂を継ぐ。
「……その見てらんない子たちが、何て言うのかしらね。まだまだ導いてあげないとって想いと、私みたいな女風情が言えることでもないんじゃないかって、渦巻いちゃってるのよね。だから、“八城ジュリ”は教師として未熟な子たちを導くのと同時に、“八将陣ジュリ”として、世界の根底を壊してしまいたい、そんな衝動を抱えた二律背反じゃ、駄目かしらね?」
「だ、駄目ってわけじゃ……」
いや、ジュリはどちらも自分であると言いたいのだろう。
教師としての“八城ジュリ”、そして八将陣として世界に弓を引く存在としての“ジュリ”であることを、彼女は誇っているのだ。だから、どちらかを選べない。どちらを遠ざけても、どちらに比重を置いても違うのだと。
相克するような在り方だが、赤緒にとってはどこか腑に落ちていた。
それはまるで、自分とシバのように。鏡に映った己に手を伸ばすかのように。
赤と、黒。
決して混ざり合わない、色彩――。
「よし、採点は完了ね。そっちの書類を持ってきてくれる? あとは簡素なサインと印鑑だけで何とかなるから」
「あっ、はい……。あの、ジュリ先生」
「ん~? 何よ」
片時も書類から視線を上げないジュリに、赤緒は問いかける。
「……先生をやるのは、楽しいですか?」
「そりゃー、楽しいわよ。って言うか、楽しいこと以外したくない主義だし」
「じゃあ……戦うのは、楽しいですか……?」
暫時の沈黙。恐らくは即答してはならないのだと、ジュリにも分かったのだろう。ここで即答されてしまえば――たとえ一生分の時間を与えられたとしても、この難問だけは飲み込めそうになかったのだから。
「……そう映る?」
「……先生をやっているのと、八将陣をやるの……同じくらい大事なのは、ジュリ先生がさっき言ってくださったことから、何とか……。けれど、同じくらいなのかなって。ジュリ先生は……私を導くのと同じ唇と同じ手で……誰かを傷つけたりするのかなって」
「そう思うと、どう感じる?」
「……怖いです」
そう。嫌ではなく、怖い。
拒絶と言うよりかは、見えないものへの畏怖に近いものである。むしろ、ここで明瞭に自分の中で拒絶感が出なかったことのほうが意想外であった。
「……怖い、ねぇ。赤緒、あんた、ちょっとだけ変わったかしら」
「……変わった、ですか?」
「そう。最初に会った時は、本当に誰を傷つけるのも嫌だし、誰かに傷つけられるのも心の奥底から嫌悪していた。それは本能的なものであったのかもしれないし、培ってきた価値観なのかもしれない。いずれにせよ、あんたはそういう人間だったの。けれどそれが、この数週間で、変わったように感じるのはね。あんたなりに経験を積んできたってことなんでしょう」
「……経験……」
「いい出会いも悪い出会いも等価よ。どっちがいいなんてことはないし、どっちが悪いなんてことも同時にない。良縁も悪縁も、ひっくるめて人生……だと、私は少なくとも思ってる。だからこそ、なのよね。あんたの眼に……最初から色濃い拒絶がなくなったように思えるのは。三宮や、トーキョーアンヘルの連中とツルむのは楽しい?」
思えば、そんな当たり前を問い質されたことはなかった。
そんなの、当然ではないかと即答しようとしてどうしてなのだか赤緒は喉の奥で引っ掛かるものを感じていたのだ。
「……私は……楽しい、と思っても、いいんでしょうか?」
逆質問になるのは完全に意想外だ。本来なら、もっと簡単に答えていい事柄なのに、迷いが生じている。良縁も悪縁も込みで人生と聞いた後からでは、迷いのない答えは下してはいけないような気がする。
「……よかった」
だから、出し抜けに放たれたジュリの言葉に、赤緒はオウム返しをしてしまう。
「……よかった?」
「いや、あんたがね。トーキョーアンヘルのみんなはいい人です、三宮も当然いい人です、自分を取り巻くみんなは、すべからくいい人です、なんて言ったらね。それはそれで軽蔑しかもなって。……こうして迷えるのはね、赤緒。あんたが成長してる証なのよ」
「……私が、成長?」
「そりゃー、数週間に満たない出会いかもしれないけれど、あんた、ちゃんと“出会い”に育てられてるわ。これなら、まぁ言い方次第だけれど教師冥利に尽きるって言えばいいのかしらね」
「……私、最初に……とても酷い事を言ってしまった人がいるんです」
ジュリには打ち明けられるような、そんな気持ちが掠めていた。両兵との最初の出会いを。最悪の第一印象を。
「ふぅーん、それはどんな?」
「……他人を傷つける人は許せないって。最低だって言いました。……けれど、そうじゃない。そうじゃ、なかったんだと、今はちょっとだけ思えるんです。誰だって、見ず知らずのうちに傷つけたり、傷つけられたりを繰り返してる。私は、少なくともそう思うんです」
「傷つけ合うのは嫌?」
「……嫌ですけれど……それを恐れて、何の進展もない関係を続けるのは……」
「もっと嫌、か。赤緒、お疲れ様。これで何とかなりそうだわ。しばらくはギプス生活だけれどね」
「あ、あのジュリ先生……っ」
「責任は、感じる必要性はないわよ? さっきのも冗談だし。あんたと私は教師と生徒であるのと同時に、キョムの八将陣とトーキョーアンヘルの操主。どっちに比重を置いても、あんたとの関係性は……そうね。面白くなりそうだし」
「お、面白く……ですか?」
ジュリはようやく振り返ってから満面の笑みを浮かべる。
「……あんたがどうなりたいのか、ちゃんと考えなさいよね!」
肩を思いっきり叩かれて、何だか励まされたのかそれともと思ったところで赤緒は立ち上がる。
「あの! ……私、実はマキちゃんたちを待たせてて……。その……今日はこんなに長居するつもりは……」
「別にいいってば。赤緒なりの優しさでしょ? 染みてるから安心しなってば」
「で、では……」
ぺこりと頭を下げてジュリの部屋を後にしようとしたところで不意に呼び止められる。
「赤緒ッ!」
「は、はひっ!」
硬直して振り返ったところで頬っぺたを指で突かれる。
「アホ面してないで、とっとと行きなさい。担任命令よ」
「ほ、放っておいてくださいよ……! で、では……お大事に!」
そう言い置いて赤緒は集合住宅を抜けてマキたちとの待ち合わせのカフェに向けて駆け抜けていく。
何だか――胸がすいたような、そんな不可思議な気持ちを持て余しつつカフェに入ったところで待っていたマキがぎょっとして立ち上がる。
「あ、赤緒……?」
「あっ、ゴメン! 結構時間かかっちゃって……」
「そうじゃなくって! ほっぺた!」
マキに指差され、赤緒は首を傾げる。
「ほっぺた……?」
カフェの硝子に反射する自分の頬には――大輪の赤ペンの花丸が一つ。
「あっ……! こ、これ……! もうっ、ジュリ先生ぃ……っ!」
「ここに来るまで色んな人に見られたんじゃない? ほい、ハンカチ」
耳まで真っ赤になった赤緒はお手洗いに向かい、すぐさま赤丸の頬っぺたを拭う。
「も、もう……っ! 本音なんだか嘘なんだか……!」
しかし――向かい合ってくれたジュリの言葉を思い返しても、嘘があったようには思えない。あるとすれば、それは大人の建前めいたものと、少しくらいは自分よりも長く生きている分の警句めいたアドバイス。
「……ジュリ先生は……いずれは本音で喋ってくれるよね……? うん、きっと……っ!」
それがいつになるのかは分からない。数年後になるのかもしれないし、もしかしたらすぐ明日かもしれないのだ。
何だか――それはそれでくすぐったい日々のような気がして、赤緒は頬を緩ませる。
その証のようにほっぺたに綺麗な赤い「まる」。
「……まぁ、いっかぁ……。ジュリ先生なりの……ぶきっちょな感じ、なのかな?」
教師がいつでも生徒を正しく導くとは限らないが、可能な限り未来に向けて生徒とともに歩む仕事なのは間違いないのだろうから。