JINKI 57 白鯨の討ち手

 コックピットの中で漏れ聞こえるのは、眠気覚ましの現地音楽を流すラジオ放送だ。

 いやに軽快なリズムだけが、現実に浮いて思える。

『……隊長。気味が悪いってんで、ミゲルの野郎、さっきから十字架を離しやしません』

 不意に咲いた通信網に隊長機は応じていた。

 他の二機は下操主、上操主を備えたツーマンセルだが、隊長機のみが特権で単座操縦を任されている。

 無論、ここまで来るのには苦難を要した。

 下操主に半年、上操主にはもっとかかる――そう言われて久しい人機操縦において、自分の掲げてみせた功績は大きいはずだ。

 それだけに、執念か、と隊長はほくそ笑む。

「許してやれ。誰だってちょっとばかし、神様が信じたくなるような時もあるさ」

『それが今だと困るんですがね。索敵を厳にしろって言ってるのに』

『メルヴィル隊長、本当に……ここなんですか? ポイント14』

「ああ。シグナルを受信してから、各機、敵の捕捉位置に入れ。言っとくが、この距離でも充分に至近だ」

 少しばかり警戒し過ぎなほどでちょうどいいだろう。

《ナナツーウェイ》に握らせているのは長大な砲塔であった。

 軍部では量産計画の頓挫した、戦闘用人機の開発案。その一端を握る形として、世界最大級の砲撃用武装として組み込まれていた兵装。敵人機の装甲を粉砕し、操主を完全に亡き者にするだけの破壊力を誇っているが、それは「当たれば」の話。

「……当たらないのでは意味がない、デカブツの兵器だな」

 杖の如く《ナナツーウェイ》は重量級の武器を地面に叩きつける。人機の膂力は人間では全く不可能な領域を即座に可能にする代物だ。

 人機が開発されなければ、こんな馬鹿げた砲門も、ましてやこのような作戦立案もなかっただろう。

 メルヴィルは煙草を胸ポケットから取り出し、紫煙をくゆらせかけて部下の不安を耳にしていた。

『……でも、本当に出るんですか? 例の白鯨ってのは』

 隊長は指先を強張らせ、コンソールに貼られたマップと写真を視野に入れる。

 これまで“白鯨”討伐に関わった者たち。そして、散っていった部下の面持ちに嫌でも胃酸が上がってくる思いだった。

 ――あれは、そう……。

「まだ新兵だった頃だ。その時も人機の機械化部隊ってのは珍しかったんだが、いくつかベネズエラ軍部では部門が分かれていてな。日本人……高津重工の人々を支援する現地の軍隊と、対立する者たちの開発競争が焦られていた。お上は随分と高津の研究者……今で言うアンヘルの連中には鶏冠に来ていたらしい。最近でこそ、防衛成績が目覚ましいらしいが、それまでは金食い虫って具合で誰もいい顔をしなかったもんだ。だから、軍部での《ナナツーウェイ》の量産も目下のところあり得ない話じゃなかったし、それよりスペシャルな機体……あんまし言い触らしてもらいたくはないんだが、トウジャやモリビトとか言うのも量産の話があったって聞く」

『あの取り回しのきついトウジャの? 金があったんですね』

 ナナツーレベルで落ち着いている兵からすれば、トウジャに乗るなんて浮ついた出来事は夢のまた夢だろう。

 現在、アンヘルで前線使用されているモリビトなど、もっとか。

 しかし彼らとて落ちぶれてこの部隊に編成されているわけではない。むしろエリートだ。人機部隊はこれから先の戦場を席巻するであろう。それは、乗っていれば否が応でも分かる。

「金があったと言うよりも先行投資だと考えるんだな。ちょっとの投資額でこれから先の世界を牛耳れるのならば安いもの。……まぁそうやって消えていった高官も、たくさん知っているが」

『メルヴィル隊長。それはやはり、この先の時代、人機が支配するって思われているんで?』

 メルヴィルはマッチで火を点けて、手元の灯りを払っていた。

「世の中の流れってのは分からんもんだ。俺たちがない、と信じていたものがあったり、ある、と信じていたものが虚像だったりする。その証左が、こいつだろうさ」

 操主席を叩く。この人機と言う代物だって、他国や遠く離れた利権国家からすれば、想像の範疇を超える。

 ない、と信じているものだろう。

 だが、この世でまかり間違えてはいけないのは、ない、がイコール「あり得ない」わけではない、ということに尽きる。

 人間が想像し得る最悪は常に実現する。

 その逆も然り。考え得る幸運もまた、実際に起こるだろう。

 だが、この世は非情なる理。常に確率論では割り切れない、悪いことが転がっていく。

 メルヴィルは写真の一つに目を留めていた。家族で映っている部下の写真だ。まだ二歳になったばかりだと言う娘を連れ立っているが、その少女はどこか気恥ずかしげに顔を伏せている。

 これも一つの営み。一つの形だろう。

 だが、彼は帰らなかった。無事に祖国に帰れなかったのだ。

 この写真に写っている不愛想な少女は、それを少しは顧みたのだろうか。そんな益体のないことに、考えが至る。

『白鯨討伐、これで十期目でしたね。上から降りる予算のギリギリだって聞きました』

 お喋りな士官もいたものだ。メルヴィルは煙い吐息をナナツーのキャノピーに吹き付ける。

「聞いたのか」

『噂ですよ』

「……道楽だとか、思われているのかもしれんな。人機を使うのならば最新の使い方をしろ、とでも。こんな……やっても意味があるのかないのか分からん戦いには使うな、か」

『上層部ではアンヘルの解体の話も出ているとか。どっちにせよ、今のアンヘルはほとんど日本人集団でしょう? 呑気なんですよ、連中』

 極東国家の人々は、ついぞ会わず仕舞いであったな、とメルヴィルは記憶を手繰る。

 こうして人機に乗っていても、縁がなければそこまでなのだろう。

「呑気、か。だがモリビト……コード02だったか。よく戦果を挙げていると聞く。古代人機の討伐数は我々では数え切れんほどに」

『こっちだって、負けちゃあいませんよ』

「張り合ったって仕方あるまい。俺たちの目標は白鯨だ」

 断じた論調に部下が声を潜ませる。

『……あの、一応はブリーフィングも受けたし、これまでの戦歴もきっちり頭に入っています。ですが得心がいきません。どうして……隊長は白鯨を……そう呼称される古代人機を追うのですか?』

「藪をついてまでこの作戦が納得いかんか」

『ですから、得心です。古代人機狩りならアンヘルに投げればいいし、そうでなくとも我々のナナツーはちょっと型落ちなんです。本当に危険な古代人機なら、アンヘルのモリビトと操主に任せても罰は当たらないはず……。ですが、隊長はあくまでも、自分の手で白鯨を討つことにこだわられているようで……』

 濁したが、帰結する先は一つであろう。

 ――こんな危険な任務を、最小人数で行うのには、頭も足りていなければ兵力もない。馬鹿げた作戦は今すぐに中断すべきだ。

「……白鯨は何人も喰ってきた。古代人機の討伐任務だって、戦果を挙げてやるって息巻いている人間ほど、優秀な奴ほどあいつにとってしてみれば喰い甲斐のある存在もない。いい操主から、先に逝ったもんさ。だから俺みたいなのが落ちぶれて残っている。売れ残りの指示には従いたくはないか?」

『いえ、そういうわけでは……』

「では何だ? それともこう言いたいのか? 白鯨なんて危険な古代人機、何も敵に回すこともない、と」

 沈黙が降り立つ。痛いほどの肯定にメルヴィルは口角を吊り上げていた。

「……言わんとしていることは分かる。考えていることもな。人機を使ってわざわざ生存率の低いミッションに入るな、とも」

『分かっていらっしゃるのなら……』

「だがな。これだけは譲れんのだ。確かに、白鯨を殺すだけなら、アンヘル連中に任せたって言い訳は充分に立つし、それに別段、殺したくって堪らない、というわけでもない。ただ……奴の息の根を止めるのは俺だ、という自負だけがある。その一個の答えがあるだけで充分なんだ」

『ですが……縄張り意識の高い古代人機ならなおさら、討伐にこだわる必要性は……』

「分かっておらんな。俺が奴を呼ぶ限り、奴も俺を呼ぶんだよ。それこそ、合わせ鏡のように」

 互いの存在が、この世界においての共存を許していない。

 どちらかの息の根を止める時こそ、心待ちにしている。

 どちらかが死なない限り、この因果は持ち越されていく。

 だから、この湖に来た。

 条件は全てクリアしている。

 月明りの夜、湿度、温度が前回までと同じであることは、こうして手元の煙草のふやけ具合で読み取れる。

 ――奴は来る。

 そう確信したメルヴィルは《ナナツーウェイ》の長距離兵装の弾倉を入れていた。

 この世界で最も殺傷能力の高い、暴力の権化を握り、メルヴィルの《ナナツーウェイ》が湖へと一歩、歩みを進めた、その時である。

『熱源……! これは……!』

「――よう。おいでなすったな」

 爆発的な轟音が響き渡った。大地を震わせ、世界を割る音域だ。

 白亜の巨体、神の威容さえも漂わせたそれが湖畔を打ち砕いて現出する。

 四方八方に触手を伸ばし、シューターの砲門をくねらせるが、何よりも異質なのはその大きさだ。

《ナナツーウェイ》をまるで児戯のように見下ろすだけの巨大さ。眼はないはずなのに、どうしてだか刺すようなプレッシャーを感じる。

 ひゅん、ひゅんと空気を切る触手の音と野太い雄叫びに新兵たちはたじろいでいた。

 メルヴィルだけが、その中で正気を保ち、狂気への足踏みを始めている。

 戦闘の狂気だ。

 確殺を誓った狂気でもある。

 長距離を約束する砲門を叩き上げ、《ナナツーウェイ》がその照準を敵方に据えた。

 当たる、当たらないは問題ではない。

 ここでの文句は、先に攻撃するかしないかだ。

 先制攻撃の一撃が真っ白な装甲に突き刺さる。爆発の衝撃波は確かに拡散したはずなのに。

『……無傷……』

 絶望的な声音にメルヴィルは吼え立てて引き金を絞る。何度も何度も、白鯨に対して殴りかかるかのような砲撃が見舞われるが、それでもその装甲は融けもしない。

 表面に焦げ付きさえも生じさせないのだ。

 遅れながら、部下たちが機銃掃射の援護をするが、あまりにもおっかなびっくりな照準だ。

 表層を撫でただけの射撃は白鯨にただ単に自分たちの存在を教える愚に過ぎない。

 否、白鯨はそんな頓着さえもしないのだろう。

 払った触手の一閃で部下の《ナナツーウェイ》は肩口を落とされていた。あまりに鋭利なその切れ味に及び腰になったのだろう。一歩後ずさっただけでも、この戦いは負けだ。

 泥に足を取られ、ぬかるみの中でもがく《ナナツーウェイ》より悲鳴が迸る。

 その声音を嘲笑うかのように、白鯨は触手を人機の急所たる、血塊炉へと叩き込んでいた。

 即座に機能停止に追い込まれた部下の《ナナツーウェイ》がキャノピーを圧縮空気で吹き飛ばし、脱出しようとしたが、彼らを触手が絡め取り、そのまま圧死させる。

 ――何度も見てきたクチだ。今さら怯えるものでもない。

 最初に出会った時は、上官たちを根こそぎ殺され、義憤よりもまず、恐怖で身体が鉛になったのを覚えている。

 そんな無様に生き永らえた自分を、白鯨は同じ人間だと認識しているのだろうか。それとも、白鯨を筆頭にする古代人機たちは、人間を個別認識などしていないのかもしれない。

 いずれにせよ、部下に手を焼いている今が好機。

「嘗めるなよ!」

 湖畔へと進めた歩みはそのまま水面を疾走する。

 開発されたばかりと言う、リバウンドブーツの適応により、メルヴィルの《ナナツーウェイ》は水上を駆け抜けていた。

 触手の第一陣を潜り抜け、メルヴィルの機体は白鯨の背後へと回ろうとする。

 ――しかし相手の、如何に巨体なことか。

 本当に湖の中にその身体が入っていたのか疑わしいほどに、敵のスケールは桁違いである。

 睥睨されている感覚と共にメルヴィルは至近での砲撃に賭けようとするが、水面を掻っ切った一閃が砲塔に巻きついていた。

 引っ張り合いになれば、負けるのは必定。

 単純なパワー比べでナナツーに軍配が上がることはない。

 白鯨の膂力に自機の武装が軒並みパワーダウンを引き起こす。安全装置が作動し、これ以上の戦闘を推奨しないオートマチック設定を、メルヴィルは手動で切断し、マニュアルに切り替わった《ナナツーウェイ》は砲の下に隠していた布袋を引っ張り出していた。

 直後、大砲は触手に抱かれて爆発四散する。

「そっちは、本懐じゃないさ」

 布袋をマニピュレーターが引き剥がし、武装を顕現させた。

 それは三叉の槍。

 敵を啄み、死の感覚を差し込む狩人の武器だ。

 まさしく海のハンターが如く、《ナナツーウェイ》は姿勢を沈ませ、白鯨相手に構えを取る。

 白鯨は空間を疾走する触手の網を拡大し、《ナナツーウェイ》を叩きのめそうとする。その攻撃網をリバウンドブーツで抜けた先にこそ、白鯨の心の臓はある。

 射抜くべき心臓を見据え、《ナナツーウェイ》のキャノピーが輝いた。

 その眼差しは彼方、決着の瞬間を睨んでいる。

 メルヴィルの恩讐の瞳と重なり、《ナナツーウェイ》は湖面を疾駆し、白亜の装甲に肉薄した。

 吼え立てた声と共に切っ先を突き刺す。しかし白鯨の装甲は一打目を弾いた。

 一発で通らないことなど既に把握している。

 即座に円弧を描いて離脱し、次手を練りかけて不意打ち気味の姿勢制御システムのアラートが耳を劈いた。

「リバウンドブーツに不備……? まさか、故障か」

 水上を踏みしだく術を失えば、人機はただの鋼鉄の塊。

 メルヴィルは冷静にリバウンドブーツを再起動させようとするが、その期を逃す白鯨ではない。

 湖面に潜り込んでいた触手が一斉に放たれ、リバウンドブーツを貫通し《ナナツーウェイ》の脇腹を刺し貫いていた。

 血塊炉への致命的なダメージにコックピットが激震する。

 白鯨の触手が人機を絡め取り、まるで審判を仰ぐかのように掲げてみせた。

 どこもかしこも、動きはしない。

 完全に固定された《ナナツーウェイ》は、そのまま砕け散り藻屑となるかに思われた。

 だが、横合いより咲いた火線が白鯨の注意を削ぐ。

『この……! やらせるものかーッ!』

 生き残っていた部下の《ナナツーウェイ》が肩に装備したミサイルポッドを開放し、白鯨へと間断のない攻撃を浴びせかける。

 純白の装甲にはしかし傷一つつかない。

 そのまま目についた虫でも払うかのように、湖面より伝い地面から這い出た触手が《ナナツーウェイ》の足場を奪った。

 足場を崩された部下の《ナナツーウェイ》が無茶苦茶に銃撃するが、どれも当てずっぽうだ。

 白鯨は狙い澄ますかのように触手を大きく掲げ、そのまま身動きの取れない部下の機体へと止めを刺していた。

 血塊炉とコックピットを正確に射抜いた白鯨は、間違いなく人機に人間が乗っていることを認識している。

 ――そうだ。これまでだってそうだった。

 遭遇する度に、絶望に塗り固められる記憶。

 何度会敵しても、攻略手段の見つからない、城壁のような相手。

 だがその仇敵の弱点がこの時、メルヴィルには見えていた。

 装甲の継ぎ目に不自然な弾痕が刻みつけられている。

 それは恐らく、アンヘルの者たちが付けた傷であろうことはこの時、メルヴィルの脳内にはなかった。

 だが、一生かけても追いつくことのできないと思われていた白鯨の背に、今この瞬間、確かにこの手が追いついた――。

 そのような確証を掴み、メルヴィルのナナツーが挙動する。

 触手を引っ張り込み瞬時に距離を詰めた《ナナツーウェイ》が大上段に掲げた槍を、咆哮と共に叩き下ろす。

 届いた牙は、白鯨の精緻な装甲に食い込み、そのまま打ち砕いていた。

 白鯨の野太い絶叫が湖畔を震わせる。

 ジャングルが鳴動し、鳥たちが一斉に羽ばたいていた。

 全ての動植物の怨嗟を受けながらも、メルヴィルは絶対に、操縦桿から手を離さない。今、少しでも手を緩めれば、きっと一生後悔する。

 深く食い込んだ武装へと《ナナツーウェイ》は手を添え、機体重量も手伝ってそのまま白鯨の装甲を裏返していく。血潮であろうか、青い飛沫が舞った。

 だがそんなことにも頓着していられない。今は、ただ、一刹那の死狂いとなりて、この巨大なる相手を討つ――。

 その妄執一つに駆られた身体が今にも飛び出しそうな操縦桿を押え込み、暴れ出しかねない白鯨の行動を制しているのであった。

 触手だけがいやに素早く、ひゅんひゅんと湖面を行き来する。ピンと張られた触手は白鯨の命そのもののリミットラインに思われた。

 今、その絶対の線に、自分は触れている。

 メルヴィルは《ナナツーウェイ》の機体重量をさらに荷重させていた。

 再稼働したリバウンドブーツの作用を全て、姿勢制御に回す。

 リバウンドの斥力磁場が迸り、最後の灯火となって光り輝いた。

「……墜ちろぉぉ……っ!」

 怨嗟の声が口中より漏れ出る。ここで討たねば、自分はあり得ない。そう、ここで討たない己は、もうなくなってしまえばいい。

 人間存在を賭けた一撃が純白の装甲へと青い血の染みを生じさせた。誇らしい白亜の装甲に滲んだ、血の染み。それこそが自分の牙が届いた証。

 さらに深く食い込ませようとして、《ナナツーウェイ》のマニピュレーターを内核に伸ばした瞬間、電撃的なイメージが脳内を駆け巡った。

 その一秒にも満たない時の最果てに、メルヴィルは「河」を見ていた。

 蛍火の舞う、青い河だ。それらは至るところで分かたれ、そしてまた結び、分かたれている。まるで人々の営みそのもの。この星に息づく、生命の鼓動。

 そう、この河の名前は――。

「……命?」

 不意に問いかけた直後、メルヴィルの意識の糸が手離され、遊離した自我が闇へと閉ざされていた。

 ああ、終わったな。

 そう感じるのには随分と長い静寂を漂う。やがて、身体感覚が戻ってきたメルヴィルは一定間隔の振動と、そして軽快なリズムを刻むラジオの音声を関知する。

『……隊長。気味が悪いってんで、ミゲルの野郎、さっきから十字架を離しやしません』

 不意に咲いた通信網にメルヴィルは応じていた。

「許してやれ。誰だってちょっとばかし、神様が信じたく――」

 ハッと我に返ったメルヴィルは周囲を見渡す。突然に立ち止まった隊長機に他の二機がうろたえていた。

『……隊長? どうしたんです?』

「いや……、俺は……。白鯨を……」

『これから討ちに行くんでしょう? 何を今さら』

 ジャングルに分け入るのに、時計の類は持っていない。だが、降り立った静謐の夜と、そして漏れ聞こえる鳥の羽音が奇妙なる符合となってメルヴィルの脳裏を叩く。

 ――魂は、輪廻を経たのか。

 ――憎しみは、回帰の時を巡ったのか。

 分からない。何一つ。ただ、こうして白鯨を討ちに行くことだけは確固とした事実であろう。

「……我々は」

 その時、通信が入る。まさかの入電に全員が硬直していた。

『その方に告ぐ。白鯨討伐任務は成功とする。繰り返す。白鯨討伐は成し遂げられた』

「何を言って……。まだ、……まだ作戦領域にも到達していない!」

『……何を言っているんだ? 既に白鯨は諸君らの手を逃れ、下手に逃げた。アンヘルの《モリビト2号》が討伐に成功したらしい。繰り返す、白鯨は討たれた』

『ありゃ……ハズレを掴まされましたかねぇ……。隊長? どうしたんです?』

「……俺は、何を……」

 何を見たのだ。何に触れたのだ。

 人間では永劫触れられない禁忌に、指先を掠めた気がする。その感触だけが鮮明に残っている。

 じっと掌に視線を落としていると、部下たちが囃し立てていた。

『まぁ、いいじゃないですか。白鯨なんて、正直言うとビビっていたんですよ。我々も』

 部下たちの《ナナツーウェイ》が踵を返す。ここから先は泥まみれの湿地帯だ。入らなくっていいのならば、作戦領域まで行く必要はない。

 しかし――メルヴィルは静寂に沈んだ湖畔へと一瞥を投げていた。

「……白鯨よ。お前は俺に、何を見せた?」

 問いかけは霧散し、永遠に掴み取れることはない。

 ――この日、撃破された白色の古代人機はアンヘルの《モリビト2号》によって迎撃されたと11月の報告に上がった。

 だが、その大きさがまるでメルヴィルの窺い知っている白鯨ほどではないことを、この時誰も、知る由もなかった。

 その古代人機を迎撃したのは、《モリビト2号》。上操主、小河原両兵と、下操主、津崎青葉――。

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