JINKI 28 私を映画に連れてって

 何なのだろうと原風景の解明に現在の考えの尺度を持ち出しても、やはり叶わず、そうして手を伸ばすことをやめてしまう。

 もう、届かない、過去の産物。そして、一度しか経験したことのない何か。

 感動したのか、それとも恐怖したのか、あるいは、茫然と立ち尽くしていたのかも分からない。

 頭をぽんと、誰かが撫でる。

 どうしてだろう――それだけでとても落ち着いたのは。

 喚いていた自分は、その動作だけで口を噤み、やがて記憶の最奥に見入っている。

 体重を預けるのは特別な席。ふんわりとした赤い繊維に、煙草のにおいが染みついている。誰のものかも分からないそのにおいに、どうしてだか安堵したのを覚えている。

 そこまでは明瞭なのに、それが何の記憶なのか。何を意味しているのかはまるで分からず、そうこうしているうちに夢の皮膜は剥がれ落ちてしまうのだ。

「いいですか? 赤緒さん、それに皆さん。ここにあるものをじっと見ていてくださいね……」

 五郎の声にアンヘルメンバー全員が机の上に視線を注ぐ。ぐっと唾を飲み下したのも一瞬、五郎の、はじめっ、の声がかかった瞬間、速かったのはエルニィとルイである。

 赤緒は声がかかっても指をかけるまでもなく、その勝負に負けてしまっていた。

 エルニィが取った証明のように机の上で目標物から手を離さない。その下に潜り込んでいたルイの手は吸着したように離れなかった。

 この二人の接戦を見るか、と思われた戦局はメルJが銃口を二人の手に当てたことで拮抗状態が崩れる。

 覚えず習い性の判断で二人が手を離した隙を突き、メルJが目的のものを入手していた。

 それにはさすがの二人から文句が飛ぶ。

「ずるい! メルJ、銃はなし!」

「ほう? 銃を使ってはならんとは聞いていないな。この勝負、最後にこれを手に取っていたものの勝ちではないのか?」

「横暴だ! ねぇ、ルイ!」

「誰かさんがそう思いたいのなら好きにすれば。私はこだわらないし」

「なっ……、ここで裏切るのはずーるーい! さっきまで必死だったじゃん!」

「あのー、やっぱり再戦にしませんか? これだと、その私やさつきちゃんみたいなのは、ずっとチャンスがないじゃないですか……」

 おずおずと挙手した赤緒にエルニィは乗っていた。

「そう! たまにはいいこと言った! 赤緒!」

「たまには、ね」

 二人分の本音に赤緒は半泣きになる。

「たまには、って余計ですよー」

「そのー、ヴァネットさん? 一度再戦にしましょう。その時には、銃ありで」

 五郎の温和な笑みに、メルJも大人げなかったと感じたのか、それを机の上に戻す。

「……仕方ないな」

「さぁ、盤面は再びふりだしに戻りました。これを誰が手にするのか……では、位置について」

 全員が手を大きく引く。エルニィに至っては独特の構えすら取っている。メルJは拳銃に弾を込めていた。

 既に勝負は始まっているのだ。

 その予感に赤緒は緊張に身体を震わせた――その時である。

「おーっす、飯くれ。あン? 何やってんだ、てめぇら。雁首揃えて」

 両兵が全員の集中する卓を覗き込む。思わぬ本命の到来に、皆が硬直した、その矢先であった。

「はじめっ」

 五郎の合図がかかり、赤緒がパシッ、と音を立ててそれを手にする。

「やりました! 私が優勝っ! ……って、小河原さん! どうしてここに……」

 硬直した赤緒に両兵は後頭部を掻く。

「いや、飯が切れたから奢ってもらうつもりで……何だ、それ? 映画のチケットが二枚か?」

 ハッと赤緒は背中に隠す。エルニィが必死に誤魔化した。

「何にも見てない、両兵は何にも見てないよー」

「いや、見たし聞こえてたし……。卓を囲って何やってんだと思ったら、映画のチケットをわざわざ操主連中で集まって取るなんざ、何やってんだ?」

 その問いかけに五郎がにこやかに応じていた。

「小河原さん、して、来週の日曜日の予定は空いておられますか?」

 五郎に対して両兵は僅かに躊躇があるのか、うろたえていた。

「お、おぅ……。来週の日曜? あー、空いていたかな、確か」

「だったら、赤緒さんが取ったので、どうぞ」

 促した五郎に赤緒は映画のチケットを携え、さっと差し出していた。

「小河原さん! 私と一緒に、映画観に行きましぇんか……うへぇ、噛んじゃいましたー」

 赤緒を他所にさっと手に取った映画のチケットを両兵はよくよく目を凝らす。

「来週の日曜の半券か。あー、まぁ行ってもいいが、映画ねぇ……」

 中空を睨んだ両兵に赤緒は不安げに口にする。

「もしかして、映画はお嫌いでしたか?」

「いや……そういや、映画ってまともに観たことねぇなと思ってよ。日本にいた頃、観に行ったか? ……記憶にねぇな」

「だったら、好都合ですね。赤緒さん」

 五郎の声に赤緒は声を弾ませる。

「はいっ! 小河原さん、一緒に観に行きましょう!」

 思わぬ誘いであったのだろう。少しだけ頬を引きつらせていた両兵であったが、ようやく頷いていた。

「おお、まぁ、いいぜ。映画ってカップ麺何個分だ?」

 エルニィが耳打ちすると、両兵はげっと顔を青ざめさせる。

「だったら飯のほうが百倍マシじゃねぇか! 柊! カップ麺にすっぞ。映画じゃ腹は膨れねぇ」

 思わぬ反撃に赤緒はエルニィへと抗議する。

「もうっ! 立花さん、イジワルしないでくださいよー! これを取った人が小河原さんと映画を観に行くって決まったんですからっ」

「だってさ。ま、勝ったのは赤緒だし、最悪赤緒にでも奢ってもらえば?」

 取りつく島のないエルニィに両兵はこちらを見据える。いつもながら、凄みのある顔立ちに委縮してしまいそうになるが、そこは胸元を叩いた。

「ど、どーんと来てください! 何でも奢りますっ!」

「……じゃあ行くか。飯がついてくるんなら、行かない理由はねぇ」

 その言葉に赤緒は心底呆れてしまう。両兵は自分にとってリターンがないとこういうところで女心を分かってくれないのだ。

 肩を落としながら、赤緒は両兵に再三言いやる。

「駅前でお昼の一時に待ち合わせでいいですねっ! 遅れないでくださいよ!」

「おーっ、飯がついてくるってンなら遅れねぇよ。それよか、今の分の飯くれよ。腹ぁ、減っちまって」

「それなら、今日はご馳走にしましょうか。赤緒さん、手伝ってください」

 炊事にかかろうとした五郎に赤緒はついていく。その間にも両兵への指摘は忘れない。

「絶対に! 遅れないでくださいよ!」

「おーっ、遅れねぇって。安心してろ。それよか、今の飯」

 もうっ、と赤緒はむくれてしまう。五郎が静かに言いやっていた。

「大丈夫ですよ。赤緒さん、その日に向けて目いっぱい、オシャレしましょうか。せっかくのデートですし」

「で、デートだなんて! そんな、五郎さん……」

 でれでれする赤緒にアンヘル女性陣から指摘が入る。

「譲ったんだからね。忘れないでよ」

 ルイからの声音にエルニィが続く。

「偶然さえ重ならなければボクの勝ちだったのになぁー。ま、たまには赤緒にも華を持たせてあげるよ」

「……抜け駆けは許さんぞ」

 メルJの言葉が続き、最後の最後にさつきが物欲しげな面持ちで佇んでいた。

「……いいなぁ、お兄ちゃんとデート……」

「さっ、さつきちゃん? こ、これはただ映画を観に行くって言うだけでの話で、デートとかじゃ……」

「それが俗に言うデートでしょ? 赤緒ってば、こんなところでまで天然ぶるのはずるいなぁ」

 エルニィの言葉に赤緒は肩を落とす。五郎がそれとなくフォローした。

「大丈夫ですって。小河原さんも立派な殿方です。男女で映画を観に行く、の意味くらいはお分かりでしょう」

「そうですかねぇ……そうだといいんですが……」

 むむむっ、と呻る。本当に両兵は分かっているのだろうか。

 窺うと、両兵は南と話し込んでいた。

「飯がねぇ時には頼りになるな、この神社も」

「あんた……いつか絶対、祟られるわよ……。神社にたかりにくるんじゃないっての」

「いいじゃねぇの。減るもんじゃなし」

 どうにもお気楽な様子で、事の重大さを理解しているようには思えない。

「……大丈夫なのかなぁ」

 少し早く来過ぎたか、と赤緒は駅前にある時計台を見やっていた。

 時間十五分前には着いておくのがセオリーなのだと聞かされたので、昨夜は眠れなかったほどだ。赤緒は欠伸を噛み殺す。いつもの巫女服では飾り気がないということで着込んでいるのは、いつかメルJが纏っていたと言う黒い服装であった。

「……ヴァネットさん、こんな過激なドレス着込んでいたんだ……。それで小河原さんに会っていたなんて……」

 少しだけ嫉妬してしまう。しかし、今日は自分が主役。よしっ、と拳を握った。

「ちょっと早く来過ぎちゃったけれど、それも醍醐味だって五郎さん言ってたし……。待った? って聞かれたら今来たところ、って言わないと!」

 憧れの言葉に赤緒はるんるんとご機嫌になる。

 ――しかし、待ち続けて二時間後。遂にはへたり込んでしまっていた。

 待てど暮らせど、両兵が来る気配はない。これはもしや、両兵の時間感覚を当てにした自分の采配ミスだろうか。

「予定通りに小河原さんが来るなんて、期待するんじゃなかった……」

 俯いていたその時である。

「おう、柊。何やってんだ? 腹減ってんのか?」

 かけられた声に赤緒が顔を上げた瞬間、両兵の鼻っ面にぶつかってしまった。お互いによろめき、両兵は鼻を押さえる。

「痛って……、気ぃつけろよ……」

「す、すいませ……じゃなくって! 小河原さん、言いましたよね? 日曜日のお昼の一時って!」

 ついつい怒りが勝ってしまう。両兵はどこか不承気に首を傾げていた。

「おーっ、完全に忘れていたんだが、勝世の奴が送ってやるからって言ってくれてよ。ここまで来たってわけだ」

 約束を忘れていたどころか、勝世に送ってもらってきたのか。

 その迂闊さに赤緒は言葉も出ない。

 それに……と赤緒は両兵の服装を睨みつける。

「何ですか! いつも恰好じゃないですか!」

「映画だろ? 映像見ているだけなら動きやすいほうがいいだろ」

 共通認識など何のその。両兵に「男女で映画を観に行く」という言葉の背景は伝わらなったらしい。

 項垂れた赤緒は、ひとまず、と両兵の手を引っ掴み、映画館へと急いだ。

「早くしないと……半券の映画が終わっちゃう……」

「何慌ててんだよ。映画は逃げねぇだろ」

「逃げるんですっ! えっと……今やっている映画は?」

 窓口で問いただしたところ、案内された映画はなんと怪獣映画であった。

「えっと……これだけですか?」

「本日はこれだけですね」

「この半券は……」

「今日までの半券ですね。この映画ならお使いできますが」

 完全に予定が狂った。この状態で映画館に入ったところで、時間を無駄にするだけ。いっそのこと諦めるか、と思ったその時であった。

「オレは怪獣映画でいいぜ。二人分」

 勝手に頼まれ、赤緒は困惑する。

「お、小河原さん? 映画を……」

「いや、だから観るんだろ? いいだろうが、怪獣映画で」

 観るという意味そのものを履き違えている両兵に、これ以上説いても無駄と、赤緒は判断していた。

「はい……。怪獣映画観ましょうか……」

「何、がっくし来てんだ? 映画観に行きたいって言いだしたのはお前だろうが」

「そりゃ、そうですけれど……。流行りの恋愛映画を観に行くつもりだったんですっ!」

「あー、だったら余計によかったんじゃねぇの? レンアイ映画とか、タイクツだろ?」

 両兵にはこちらの真意は伝わらないらしい。映画館に入るなり、予告編が始まっていた。

「どこに座るんだ?」

 怪獣映画はがら空きである。閑古鳥の鳴いている映画館に、赤緒は手を払っていた。

「どこでもいいですよ……もうっ」

 完全に台無しである。予告編が終わり、本編が始まると、劇場が暗幕に包まれた。

 怪獣映画とは言っても、それなりに作り込まれているのが窺える。迫力はあるな、と赤緒は見入っていた。

「それなりに結構、面白いですよね……小河原さ……、小河原さん?」

 プラン通りならば、このまま自然な流れで手を握るところであったが、両兵はどうしてだか、その映画を目にして頬に涙を伝わせていた。

 その相貌に赤緒は言葉を失ってしまう。

 気づいたのか、両兵は頬を濡らす熱い感情に困惑しているようであった。

「あれ……、オレ、なんでこの映画観て……」

「具合でも悪いんですか? 一旦出ましょう!」

 両兵を引き連れ、赤緒はスクリーンを後にする。その場で両兵はどこか感じ入ったように、スクリーンの中を眺めていた。

「……そうか。あの夢は、これだったんだな……」

「小河原さん? どこか、気分でも……」

「いや、いっつも……悪夢じゃない時に見る、安心できる夢があるんだ。その夢の中で、オレはガキでさ。でもそこがどこなのかも分かっちゃいねぇんだ。ただ、カタカタと等間隔に回る何かの音と、それに真正面に幕があって……。で、オフクロがオレの頭をぽんって撫でてくれて……。ああ、今の今まで分からなかったわけだ。映画館に来るのは、オレは二度目だったんだな」

 両兵がようやく答えを得たかのように拳を握り締める。他の誰かからしてみれば、ほんの小さな答えなのかもしれない。だが、彼からしてみれば長年降り積もった疑問であったのだろう。その答えを、赤緒は茶化せなかった。

「……その時も、怪獣映画だったんですか?」

「いや、そこまでは覚えてねぇんだ。ただ、赤い絨毯みたいな椅子に染みついた、誰かの煙草のにおいと、それにどこか安心できる夢ってだけ覚えていたみたいだな。……そうか。あの場所は、ここだったんだな」

 きっと両兵の記憶にある映画館とは違うのだろう。それでも、彼は探し求めていたに違いない。記憶の中にだけ存在する、母親との僅かな思い出。その欠片を、今ようやく、彼は得たのだ。

 その背中に、余計な言葉なんて言えるものか。

「……小河原さんさえよければ、もう少し観ていきますか? 怪獣映画」

「おう。観るか。結構面白かったしな。薔薇のあの怪獣は最後どうなるんだ? 黒いのは生き残るとして、それだけが知りてぇ」

 平時よりもどこか浮ついて、子供じみて見えたのは気のせいか。それとも、そのような普段見えない顔が窺えるのが、映画館の魔法なのかもしれない。

 カタカタと等間隔にフィルムを回す音――。

 誰かの煙草のにおいが染みついたふんわりとした赤い繊維の椅子。

 心地よい誰かの潜めた声と寝息。

 ――無論、どこかの国の高級シアターとはほど遠い。都会の片隅にある、去年の映画を再上映するだけの空間。きっと、誰かの感動の再演。誰かの記憶の再録であろう。

 それでも、赤緒にとっては得難い時間に思われた。

 最上の舞台が整えられ、――さぁ、幕は上がった。

映画を、観よう。あなたと一緒に。

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