ごくり、とさつきが唾を飲み下したようであった。
ルイは変わらぬ調子で聴いているものの、少しばかり気圧されているようでもある。
「何かなぁー、何かなぁーってよくよく耳を傾けると……やっぱり聞こえてくるんだよ。シャリシャリって、音が……それで、ボクは聞いてみたんだ。この音は何? ってすると、闇の中から……」
エルニィは手元で米を研ぎながら、その音を疑似再現する。
さつきの恐怖は極まっていた。目尻に涙を溜めており、今にも悲鳴を上げそうである。
ルイも無表情ながらにドキドキと、次の瞬間の言葉を待ち望んでいるようである。
「次は――お前だァ――! って」
と、そこでさつきが短く悲鳴を上げたところで電気が点く。
想定外のことに、語り手であったエルニィでさえも静かに悲鳴を上げていた。
「うわっ……! 何……赤緒じゃん……」
「何やってるんですか。居間の掃除をしようと思ったら真っ暗で」
「見て分かんない? ほらー、日本じゃこれくらいの季節になると、怪談ってあるんでしょ? ジャパニーズホラーショウって奴?」
「……さつきちゃんとルイさんも?」
「勘違いしないで、赤緒。私はさつきが怖がって離さないから、結果的に一緒になっただけよ」
立ち上がりかけたルイの袖口をさつきが引っ張る。
「ままま……待ってくださいよ、ルイさん……腰抜けちゃって……」
ルイはとことん参ったとでも言うように頭を振っていた。
「こんな三流のホラーで腰が抜けるなんて、さつきもおめでたいわね」
「で、でもぉ……柊神社がモデルだと怖いじゃないですか……」
その言葉を聞いて赤緒はエルニィに不服を漏らす。
「……あの、勝手に柊神社を怪奇場所にしないでもらえますか? 悪い噂が立っちゃうとあれですので……」
こちらの注文にエルニィは唇を尖らせる。
「何だい、何だい。別にいいじゃんかー。日本のホラースポットって言えば、神社だって入ってるんでしょ? ボクは詳しいんだ。これでも怪奇特集を見たんだからね」
どうにも、エルニィもルイもそういったものが好きらしく、夕飯時のテレビではチャンネルの奪い合いになっていることも珍しくない。
「……あのですねぇ、そもそも柊神社にお化けだとか居ませんってば。やめてくださいよ、そういうのは」
「そういうのって、でもボクは聞いたんだからね。これはホントの話、夜中にシャリシャリって音を。そうなってくると、出てくるのは一匹しか居ないよね? 確か妖怪……小豆洗い!」
手を垂れさせてさつきに飛びかかる真似をすると、彼女は予想通りの反応をするのでエルニィは面白がって笑う。
「さつきってば、アホ面ー! 小豆洗いは確かに存在するんだから、今日から寝れないかもよ……」
「あの、やめてくださいよ。妖怪なんて」
さつきは今の脅かしで完全にやられてしまったのか、足腰も立たない様子だ。それほどに怖い怪談とも思えないのだが、赤緒も戸惑ってしまう。
エルニィはあくまでも、見たと言う体裁を崩さないらしい。
「むーっ、赤緒ってばつまんないなぁ! こういうのは楽しんだもん勝ちなんだから。怪談ってのもロマンじゃないか」
「その……でもさつきちゃん、怖がっているじゃないですか」
「怖がらせちゃいけないって? じゃあテレビでやってる怪談とかどうなのさ。ま、ボクはリアリストだから、あんなのは空想だもんねー」
肩を竦めるエルニィに赤緒はとことん参っていた。
「何かに支障が出たらどうするんですか、もう……。さつきちゃん、小豆洗いなんて居ないんだから」
「で、でもですよ? ……その、立花さんの話だけなら気にしないんですけれど……実は私にも思い当たる節があって……」
今度はさつきが語る番であった。
電灯が明滅し、薄暗く湿っぽい空気をはらむ。
「……その、これはこの間、《ナナツーライト》の整備を終えて、夜遅くに帰って来た時の話なんですけれど……誰も居ないはずだったんです。その日は、皆さん出払っていて。だから居間の掃除でもしようかなって箒を持って来た時にですよ。……シャリ、シャリって音がしたんです。あれ、何かなって、そう思って向かってみると……」
さつきの語り口調は真に迫っており、エルニィがごくりと唾を飲み下していた。
「へ、へぇ……それっぽいじゃん……」
「ころんって……廊下に小豆が落ちていて……あれ、何なんだろうって拾い上げたその瞬間……ぱたたたっ! って走る音が聞こえてきて!」
遠くの雨雲が遠雷を響かせる。
ルイもエルニィも、赤緒でさえもその話に聞き入っていた。
「そ、それは何だったの……?」
「……私に見えたのはそこまでで。影も形もなかったんです。でも、その日拾った小豆一粒は、台所にはなかったはずで……」
「よ、用意できなかったはずの小豆があったって? ……そ、それはリアリティがないなぁ……」
「いえ、でもですよ。その日以来、たまぁーに、聞こえるんですよ。シャリシャリ、シャリシャリって、小豆を洗う音が……それは……そう、台所のほうから!」
雷が落ちたのだろう。
大仰な音が残響して三人共にさつきのほうへと集まっていた。
当の語っていたさつきは、と言えば、神妙な顔つきのままである。
「お、驚かさないでよね、さつき! そ、それに何だい! それ、ボクの怪談に乗っかってるじゃんか! ルール違反だよ、ルール違反!」
「いえ、でも本当に、たまぁーに、聞こえてくることがあって……誰も小豆なんて滅多に買わないのに……」
「さ、さつきちゃん、立花さんのより怖いってば……」
赤緒も完全に腰が抜けてしまっていた。
ルイがすくっと立ち上がり、ぼそりと呟く。
「トイレ行ってくる」
「あ、ズルい! ボクも付いていく!」
「トイレくらい一人で行きなさいよ、自称天才」
「な、何? ルイもさっきの怪談が怖いんでしょ?」
「何をのたまっているのよ。怖いわけがないじゃない。第一、あんたのよりもさつきのほうが真に迫っていたってどういうことなのよ」
「そ、それは実話だからなんじゃ……!」
「いえ、ちょっと待ってください。本当に二人とも、小豆を洗う音って言うのを聞いたんですか? 嘘とかじゃなくって?」
「嘘なんてついてどうするのさ。……まぁ、若干盛った感はあるけれど、大筋じゃその通りだよ。小豆を洗う音が聞こえて来るって言うのは」
「わ、私もその……考えないようにしていたんですけれど、立花さんの怪談で思い出しちゃって……何とも言えない気分に……」
赤緒はその二つの共通項を探そうとする。
「……小豆なんて滅多なことじゃ買わないし……誰かのお誕生日が近かったとか?」
「お誕生日って……赤飯に使う小豆はきっちり管理しているでしょ? それにいちいち洗っているのは五郎さんとかじゃん」
「じゃあ、小豆洗いの正体は、五郎さん?」
「――何か?」
ひゃあ! と全員が抱き合って部屋の隅に縮こまる。
五郎は小首を傾げてその様子を認めていた。
「そ、その……いつから……」
「いえ、さっきから。何やら面白そうですので、声をかけないでおいたのですけれど」
「お、脅かさないでよ、五郎さん……。ちなみに、小豆洗いの正体とか、何かある?」
「小豆洗い、ですか。確か妖怪ですよね」
「も、もうっ、立花さんっていつまでその話するつもりで――」
「ですが……これは私が、小さい頃に聞いた話なのですが……」
神妙な面持ちで語り始めた五郎に、全員が聞き耳を立てていた。
「小豆洗いは河のほとりで、シャリシャリ、シャリシャリと洗っているようなのです。小豆を……それだけなら無害な妖怪なのですが……時折、聞こえて来るらしいんですよ。小豆洗おうか、人取って喰おか……って。これは私の兄が小さい頃、よく近くの河に遊びに行っていて、それで数人引き連れて遊んでいると、あれ? 変だな? 誰も居ないはずの川面で、シャリシャリ、シャリシャリって……聞こえてくるんですよ」
ごくり、と赤緒は唾を飲み下し、その話の先を促す。
「……そ、それでお兄さんは……?」
「他の子供たちに聞いたところ、聞こえないとのことなので、じゃあ何なのかって兄は一人だけで向かったそうなんです。すると、ですよ? さっきまで人気のなかった川岸に、ぼんやり……見えてくるんですよ。薄ぼんやり、頭ばっかりが大きくって、身体は小坊主みたいなんですけれど……それが爪を立てて、シャリシャリ、シャリシャリって、必死に小豆を洗っていて……。兄は聞いたらしいんです。“何で小豆なんて洗っているんだ”って。すると、小坊主はこう答えたらしいんです。“洗っているのは――”」
全員が息を呑んだ瞬間、雷に照らされたのは五郎の後ろに佇んだ影であった。
「――お前のほうだ! ……なぁーんて言っちゃって……。あれ? どうしたの、みんな。顔、ひきつっているわよ?」
「み、南さん……? もう脅かさないでくださいよ……」
「いや、こういうのは付き物でしょー、怪談? 私もカナイマに居た頃によくやったわねぇ。あっちの整備班ってさ、結構ビビりが多いのよー、図体ばっかりはデカいクセにねー。それで私なんかが本当にあった話を語ると、マジになってビビっちゃうんだからからかい甲斐があったわー……ってあれ? もう! みんな怖がり過ぎだってば!」
取り成す南に対して、エルニィが咳払いする。
「ま、まぁ、そんなのあるわけないよね! だって五郎さんの言ったのは大昔の話だろうし!」
「で、ですよね! そんなの柊神社に居るわけないですよね!」
不思議と大声で早口になってしまう。
そんな自分たちを横目にして、南はロウソクの火を点けていた。
「いえ、でもそうとは限らないんじゃないかしら。これは私が本当に遭遇した話なんだけれど……」
口火を切ろうとした南の後頭部を、こてんとルイが小突く。
「南、調子づき過ぎよ」
「あ、やっぱバレた? いやー、怖がってくれると話し甲斐があって面白いのよねぇ!」
「……で、でも小豆洗いなんて、ここに居るわけないですよね!」
さつきの言葉を嚆矢として、赤緒とエルニィも顔を向かわせ合う。
「そうそう! 居るわけないですってば!」
「だ、だよねー! ちょっとファンタジーに傾倒し過ぎたかなー!」
全員で笑い合ってから、めいめいに部屋に戻ったので、南だけが取り残された感でロウソクを吹き消す。
「でも……分かんないかもよー?」
――夕飯も終わり、自室で宿題を解いている最中、赤緒はふと、気に留めていた。
「……でもそんなわけ。居るわけないのに……小豆洗いなんて妖怪……」
ところが思い出してしまうとなかなか椅子から離れられない。
喉が渇いたので水でも飲みに行こうと思ったのだが、思ったよりも恐怖で硬直してしまっている。
その時、キィ、と扉が外側からゆっくりと開き、数名の瞳が部屋の中を見つめ込んでいた。
悲鳴を上げかけて、しーっと制される。
「ボクらだってば!」
「た、立花さん? ……とさつきちゃん……?」
「はい……その、廊下で立花さんと行き会っちゃって」
「よく言うよ。さつきは部屋から出られないからってボクに頼って来たんじゃんか」
「そ、それは誤解で……!」
「二人とも、よく言えるわね」
「ルイさんまで……?」
赤緒が視線を向けると、ルイはむっとする。
「勘違いしないで。この二人の子守みたいなものよ」
「こ、子守って! 馬鹿にしないでよね!」
「……でも、立花さん、下に降りられないって困っていましたよね?」
「勘違いしないでよ。ボクはせっかくだから妖怪、小豆洗いの尻尾を掴んでやろうって思ったんだから!」
何やかんや言いつつ、三人が団子になって部屋の扉に集っているので、赤緒は歩み出していた。
「とりあえず……一旦離れません? ここで固まっていたって何にもならないですし……」
「そ、そうだよ! さつきもルイもビビりなんだから!」
「それは……立花さんだって同じじゃないですか」
「そうよ、自称天才。自分を棚に上げてよく言えるわ」
「ひとまず……降りましょうよ。全員、下に用があるんでしょう?」
赤緒を伴わせて、四人で階段を下りる。
柊神社は古い建築物のせいか、踏み込むたびに、キィと廊下が軋んだ。
さつきとエルニィは固まった状態で自分を先行させる。
ルイが最後尾に付いていたが、赤緒はゆっくりと進んでいた。
「ちょ、ちょっと赤緒。……もっと早く進んでよ」
「す、進んでますよ……。でも皆さん、私の後ろに付いているから……」
「やれやれ、ビビりは困ったわね」
「そ、そう言いつつルイだってさっきから後ろばっかじゃん! ……ははーん! 怖いからっていつでも逃げられるようにしてるんだ?」
「……馬鹿にしないで、自称天才。あんたたちが前を行きたがっているからでしょう?」
「も、もうっ、喧嘩しないでくださいよ……。それにしたって、深夜の柊神社ってこんなに暗かったっけ? まともな明かりもないんだから……」
その時、居間のほうが明るくなっているのを赤緒は視界に留めていた。
「……誰か……居るんでしょうか?」
「まさか小豆洗い……」
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
「しーっ! ……さつき声が大きいよ!」
もみくちゃになるさつきとエルニィに、赤緒はゆっくりと前進していた。
「あ、赤緒? ……もうよくない? ほら、どうせ消し忘れだってば!」
「いえ、でも不用心ですし……とりあえず様子を……」
そこで、はた、と足が止まる。
聞こえてきたからだ。
――シャリ、シャリと言う音が。