JINKI 190 今宵、香りを纏って

「はぁー……青葉のこういうところへのアレルギー反応も相当なもんだな」

「大丈夫だよ、青葉ちゃん。シールちゃんの行きつけなら心配要らないってば」

「そうじゃなくってその……場違いとかじゃないですかね……」

 シールと月子はメカニックの正装とも言えるツナギ姿であるし、自分とエルニィも普段着だ。

 追い返されるのが関の山ではないのか、と懸念した青葉にシールが肩を叩く。

「おいおい……これでも馴染みの店なんだ、信用しろよ」

「で、でもですよ……。追い返されたりとか……」

「ない。ないって断言できる。入るぞーっと」

 何でもないように来店したシールに続いて月子とエルニィが入っていく後方で、青葉は目立たないように面を伏せて扉を潜る。

 そこいらから嗅いだこともない高級そうな香りが漂い、やはり場違いなのでは、と委縮していた。

 ニコニコとした店員がシールへと歩み寄るなり、どこか親しげに声をかける。

「今日はどんな商品にいたしましょうか?」

「あー、こいつらに似合いそうな香水を頼みたいんだ。できそうか?」

「ええ、大丈夫ですとも」

 何だか値踏みされているようで居心地の悪い青葉に比して、エルニィはお気楽であった。

「そう簡単に取れないのがいいなぁ」

「でしたら、この香水はどうでしょう?」

 店員が紙に一滴落とし、それを嗅ぎ分けるなり、エルニィの目が輝いていた。

「活動的な匂いだなぁ……。何だかサッカーの試合を思い出すや」

「まぁ、お前の感覚はともかくとして、さっぱりとした、シトラスのいい香りだろ? あまりしつこくないのがいいと思ってな」

「あの……私はそういうの……」

 遠慮しようとした自分へと、シールがゆっくりと手を引く。

「まぁまぁ。青葉もちょっとばかしは着飾れってば。月子の言い分じゃねぇが、少しだけでも香水を試したって罰は当たらないはずだぜ?」

「……でも……」

「でしたら、この香りはどうでしょうか?」

 鼻孔を掠めたのは上品な大人の香りであった。

 落ち着きのある香水に、気持ちまで移り変わってくる。

「オリエンタルが似合うと思ったんだが……嫌か?」

「あ、いえ……嫌じゃないですけれど……。こんないい香り……私から漂ってきたら変じゃない……ですかね……?」

「いいんじゃねぇの? 着飾るように香水を纏うのが女子なんだからよ。ま、オレが言えた義理じゃねぇが、メカニックって言うのは普通に機械油に塗れるような仕事だからな。プライベートと仕事は分けるってのが本音だろ?」

 あ、とそこで青葉は気づく。

 月子がシールのほうが香水に詳しいと言われた意味が。

「……そっか、シールさん。自分の時間のために……」

「ん、まぁな。メカ弄っているのも好きだが、オレは割と嫌いじゃないぜ、こういう風に着飾るってのも。とは言ったって、オレも月子も普段着がツナギだから、せめて香水くらいで違いを出すしかなくってな。ま、オレらにとっては、この服も誇りみたいなもんだよ」

 シールと月子とて女子なのだ。

 ならば、その香水の意味は、誰かに披露するための――。

「……羨ましいな。そういう風に、思えるって言うのが……」

「何言ってんだ、青葉。お前もこれからだろ?」

「そうだよ、青葉ちゃん。小河原君に目にもの見せてあげよう? 青葉ちゃんだって、きっちり女の子なんだってこと」

「両兵に……? うーん、でも両兵、こういうの嫌がりそう……」

「そんなことないって。小河原君だって、青葉ちゃんの努力、きっちり見てくれているはずだし」

 こうして誰かのために着飾る努力が実を結ぶ時が来るのだろうか。

 それはきっと、誰かを想う気持ちの強さそのものであろう。

「……私が、両兵のためにできること……」

「それだけじゃねぇぜ。青葉、これはお前自身のためでもあるんだ。自分に自信を持つのには、いつだって踏み出すための一歩が必要だろ?」

 ――そうであった。

 自分が操主として踏み出したきっかけもまた、《モリビト2号》との出会い。

 出会いが人を変えるというのならば、この出会いもきっと、一つの意味を持つ。

 月子がウインクし、シールも微笑む。

 エルニィはシトラスの香りが気に入ったようで、何個か買い付けていた。

「……青葉。決めるのはお前だよ」

 シールに促され、青葉は一つの香水を手に取る。

「……これが、私の努力に……なるのなら」

「――おー、何だてめぇら。雁首揃えて居なくなったかと思えば、今頃帰りやがって」

「両兵ー! どう? いい匂いでしょ?」

 早速、シトラスの香水を纏ったエルニィが両兵に迷いなく接近したのを、青葉は少しばかり当惑していたが、両兵はむっとした表情を返す。

「何だ、色気づきやがって。香水なんざ、てめぇにゃ十年早ぇ……って、何だ、てめぇら、その顔は」

 その言葉を受けて青葉は踏み出せず、ぐっと押し殺した気持ちのまま背を向けていた。

「……おい、どうした、青葉」

「何でもない! ……両兵の馬鹿」

「おい、馬鹿とは何だ、馬鹿とは」

 駆け出した自分の背中に両兵が気づく前に、シールと月子が道を阻んでいた。

「小河原君、なんてことを……」

「女の敵だ! お前は! 恥を知れ!」

「何言って……」

 両兵が状況を理解しようとしたその時にはシールの鉄拳制裁がめり込み、そのまま尻餅をつく。

「何なんだ、てめぇらは!」

「喧しいっ! 青葉の気持ちを考えろ!」

 その喧噪が聞こえなくなったところで、青葉は呼吸をついて自身に纏った香りを嗅ぎ分けて呟く。

「……やっぱり……私なんかが香水なんて、駄目だよね……」

 目尻に熱が滲んだのを感じつつ、自室に戻りかけて角で両兵と鉢合わせる。

「り、両兵……」

「ヒデェ目に遭ったぜ、ったくよ。……オレが何したってンだ……」

 両兵はめり込んだシールの拳の痕をさすっていた。

「その……厄日だと思ってくれたっていいから、その……」

「いや、別にオレも茶化すつもりはなかったんだ。悪ぃな」

 それでも、両兵を前にして平静の顔ではいられない。面を伏せたまま、青葉は今にも逃げ出したい気持ちに駆られていた。

「……人機に乗る時には、こんなの、邪魔だよね……ゴメン、両兵」

「いや……悪い香りじゃ、ねぇんじゃねぇか? そりゃー、本音言えばよ。色気づいてだとか思ってねぇわけじゃねぇ」

「……やっぱり、思ってるじゃない」

 こちらの反応に困り果てたのか、両兵は苛立たしげに後頭部を掻く。

「あー、ったく! 女ってのはよ……。嫌じゃねぇって……言ってんだろうが。一回で伝わんねぇもんかね、マジに……」

 顔を上げれば、両兵はその感情を持て余すように視線を逸らしていたが、それでも何度かの躊躇いの後に自分へと視線を合わせる。

「……でも……」

「言ったろ? 人機に関しちゃ嘘は言わねぇ。それに、その中にはお前だって含まれてンだろうが」

 その言葉繰りの乱暴さに思わずぷっと吹き出してしまう。

「……笑うなよ」

「ゴメン……でも、両兵らしいって思って……。私は《モリビト2号》の一部ってこと?」

「……嫌か?」

「ううん、嫌じゃない。何だかそれって……モリビトにも認められたみたいで。うん……嫌じゃない……かも」

「何だそりゃ。まったく、嫌だとか嫌じゃねぇとか、女ってのはワガママだな」

 いつもなら、ちょっとばかし反抗心も湧くのだが、今は少しだけ試したくなってしまった。

「……そう、なんだよ? 私も、女の子なんだから」

 いつもと少しだけ違う返答に両兵も困惑し切ったように頬を掻く。

「……そっか。そうなら……まぁ、いいと思うとすらぁ」

「何それ。両兵ったら、おかしい」

 互いに微笑み合い、それから両兵は先ほどシールに殴り掛かられた怪我を指す。

「……とんだ一撃貰っちまったが、まぁ、たまにゃワガママの一個や二個くれぇは聞いてやるよ。何せ、オレはモリビトの上操主で、お前は下操主だからな」

 そうだ。その関係性だけは、きっと変わらない。

 ――変わらないと、信じたいだけなのかもしれないが。

 今だけは、そんな脆く崩れそうな未来にも信じてみたいではないか。

「そう……だね。私はいつまでも《モリビト2号》の下操主で、それで両兵は上操主……だよ……ね?」

 確かめたかったわけでもない。

 この時だけは大丈夫と言って欲しかっただけの、弱い自分だ。

 両兵は孤独に震え出しそうな自分の手を取って、強く告げていた。

「安心しろよ。オレはモリビトの上操主……ってのは何も別段、変わるわけがねぇだろうが」

「そう、だよね……うん、安心した」

「……言っとくが、上操主の座はそう簡単にゃ譲らねぇからな。欲しくてもやんねぇぞ」

 その言い分の子供っぽさにも今は安心できる。

「……うん、じゃあ私……両兵の言葉、信じてみよっかな」

「おう。それでいいんだよ」

 踵を返しかけた両兵の背中に、ふと尋ねてみたくなって青葉は声をかけていた。

「でも……その、やっぱり色気づいているとか、思うかな……、私も」

 両兵はその言葉を聞くなり、振り返ってむんずと自分の肩を叩く。

「調子いいことは言えねぇけれどよ。……香りってもんを纏うのも別に、悪いことだとは思わねぇよ。……ただな、ただ! そっちにあんまし片足突っ込み過ぎんなよ! 操主の本分忘れンな! アホバカ!」

「な――っ! 何それ! 本当、両兵っていつもその調子だよね! デリカシーゼロなんだから!」

「うっせ……うっせぇ! ……いいからモリビトの整備、頼むからな!」

「あー! そう! いいもん! ……両兵の馬鹿」

 めいめいに捨て台詞を吐いて別れるが、それでも胸に湧いた気持ちは決して悪いものではなかった。

「……でも、否定しなかったのだけは……ありがと、両兵……」

 くん、と自分の身体より立ち上った香りを、青葉は嗅いで呟く。

「私が私じゃないみたいな香りだけれど、それも込みで、これからの私らしく……生きていきたい、かな」

 たまには香水の芳香に、その身を任せたまま――今宵だけは、香りを纏って。

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