「いや、あれだけ暑苦しかった夏が過ぎて、それでしっかりと冬に向かってくるんだなぁって思ってね」
「当たり前だろ。寒くなるのはいつものことじゃんか」
「……分かってないわね、カリクム。そういうのの機微って言うのがさ。ノスタルジーってのが人間にはあるの」
「分かんないよ。人間って不便よね。暑い寒いに振り回されちゃうなんて」
「まぁ、それも風物詩の一つっていうことで……」
洗濯物を取り込んで部屋に入るなり、椅子に座り込んでスナック菓子を頬張っているナナ子が視線を向ける。
「悪いわね、せっかくの休日に家事させるなんて」
「別にいいわよ、ルームメイトなんだし。……って言うか、ナナ子」
「何? 何かあった?」
「……いや、やめとく。何て言うか藪蛇になりそうだし」
「何よ、小夜。言ってくれないと分かんないってば」
「……じゃあ言うけれど、ナナ子、最近めっきりと……太ましくなったんじゃない?」
「そう? 私にはそんなつもりもないけれど」
しかし小夜の眼にはどう見てもふくよかになったナナ子の姿があった。
「太ったのよ、全然動かないし、それに秋の味覚だって言って何でも食べちゃうから」
「失礼ねー、何でも食べるなんてレイカルじゃあるまいし。私はそんなことないと思うけれどなぁ」
「じゃあこれ、乗ってみなさい。乙女の天敵」
差し出した体重計にナナ子は飛び乗る。
その瞬間、ぐんと針が振れ想定外の体重を弾き出していた。
「……うそ。こんなに太ってた?」
「ほら、だから言ったじゃない。やっぱり太ってるんだってば」
「カリクム。私、太ったかしら……?」
「うーん、私はナナ子はそれほど変わらないと思うけれど、ただ体重が増えてるって言うんなら、そうなんだろうな」
ナナ子は先ほどまでの血色がいい顔色から一転して、さぁっと血の気を引かせる。
「どどど……どうしよう。このままじゃ伽クンも愛想尽かしちゃう?」
普段ならばそうでないと言ってもいいのだが、毎回何かと痛いところを突かれているのでこういう時くらいは反撃してもいいだろう。
「そうねー。いくらあの鳥頭があんたにお熱だって言っても、さすがにねぇ」
ナナ子は頭を抱えて蹲ってから、よし! と意気込む。
「今日からダイエットよ! 小夜とカリクム、あんたたちにも付き合ってもらうからね!」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 何で私まで!」
「そうよ! それに小夜はともかく私までなんて!」
こちらの猛抗議にナナ子は訳知り顔になっていた。
「……ふぅーん、そう……。あんたたち、私のナナ子キッチンに食生活を頼りっ放しだって言うのに、あんたたちはそういう態度なんだ?」
言われてしまえば立つ瀬もなく、小夜もカリクムも言葉を詰まらせるしかない。
「えっ……じゃあ私たちも巻き添えダイエットってこと?」
「当たり前じゃないの。さぁーて! 減量目指すわよー、オーッ!」
「お、おーっ……」
カリクムと小夜は気後れ気味に続く。
ともすれば余計なことを言ってしまったか、と後悔が脳裏を掠めたのも一瞬、早速ダイエットモードに入ったナナ子に小夜は首を傾げる。
「……これってもしかしなくても大ピンチ……?」
「――こんにちはー……削里さん居ますか?」
のれんを潜って訪問した作木に、奥の間でヒヒイロと将棋を打っていた削里が出てきて応じる。
「やぁ、作木君。何かあったかな」
「この間頼まれていた都市圏の創主の下調べなんですけれど終わったんで、報告をと思いまして」
「ああ、すまないね。俺がやってもよかったんだが、いつまでも俺とヒヒイロがやっていると最終的に君らに託すこともできないって、そういえばヒミコの判断だったか」
「ええ、高杉先生にはお礼を言ったんですけれど、削里さんとヒヒイロにはまだだったので」
紙袋で提げてきたのは洋菓子であった。
苦学生の財布には痛いが、協力してもらった礼くらいはしておかなければ居心地も悪い。
「それでここまで、か。それにしたってダウンオリハルコンの事件件数も下げ止まりってわけじゃない。ヒミコの言い草じゃないが、君たちに頼むのも何も今回限りってわけでもないんだ」
「ええ、それは別に……。レイカルもラクレスも頑張ってくれていますし」
当のレイカルは雑誌を読むヒヒイロへと歩み寄っている。
「ヒヒイロー、調査とか言うの退屈なんだが……」
「なんじゃ、お主は藪から棒に。戦いばかりがオリハルコンの本懐ではないぞ?」
「とは言ってもなー。やっぱり戦いたいんだよ。調査とか言うのばっかりだと腕がなまってしまいそうな気がするぞー?」
「あらぁ、レイカルってば。調査も立派な仕事よぉ? それが務まらないんなら、作木様の一番は私よねぇ?」
ラクレスの言葉繰りにレイカルはむっとして言い返す。
「な、何をぅ! 私が創主様の一番のオリハルコンなんだからな! ですよね? 創主様!」
「うん、まぁ……二人とも大事な僕のオリハルコンだよ」
「どっちなんですかー! 創主様!」
とは言え決められないのが事実なので作木は曖昧に微笑んで頬を掻く。
するとそこでヒヒイロが何かを関知したように面を上げていた。
「おや、この気配は」
「うん? どうしたんだ、ヒヒイロ」
のれんを潜ってきたのはよろよろとした足取りの小夜とナナ子であった。
カリクムもその後に続く。
「さ、小夜さん? それにナナ子さんも……。どうしたんですか……?」
「どうしたもこうしたも……この三日間、まともに……」
「まともに……?」
「まともに食べてないんだってば……。くっそー、何で私までこんな目に遭わなくちゃいけないってのよー……」
文句を垂れるカリクムの意図が分からず、作木はあわあわと困惑する。
「えっと……一体どういうことなのか分からないですけれど、食べてないんですね? じゃあその、何か食べ物を――」
「駄目よ、作木君。今日もご飯は一日二食までなんだから。朝にオートミールを食べたから、今日は夜までなし」
ぴしゃりと言い放ったナナ子に作木は戸惑いつつも、そっと小夜へと耳打ちする。
「えっと……何があったんですかね……」
「見て分からない? ダイエットよ、ダイエット」
そう返されてしまっても、小夜がダイエットする理由などまるで分からないのだ。
「えーっと……役作りとかですか?」
「そんなんじゃないわよ。ナナ子のダイエットに付き合わされてるの」
「でも、何でダイエットなんて……?」
「……聞かぬが花よ? まぁとは言え……焚きつけたのは私でもあるんだけれど……」
意味が分からず首をひねっていると、レイカルがヒヒイロの用意していた茶菓子を頬張る。
それを目の当たりにしてナナ子は思わずと言った様子で凝視していた。
「な、何だ、ナナ子……。何だか今日の眼はギラギラしてるぞ……」
「……あんたらはいいわよねぇ。食べるもの食べても太らないし、ずーっとその体型のままで」
「何だよ、腹が減ってるのか? だったらこの茶菓子をやるから」
「駄目よ! 駄目! ……ナナ子、誘惑には勝つのよ……!」
芝居がかった様子で首を横に振ったナナ子にレイカルでさえも戸惑う。
「……創主様、何なのですか? 今日のナナ子は変ですよ」
「あ、うん……。そもそもダイエットって言うのがあって……」
「ダイエット、とは?」
尋ね返されてしまうと困るのはお互いさまで、作木とてダイエットと言うものには無縁である。
そもそも若干のもやしっ子の気がある自分には、減量なんてあまりこれまでの人生で触れたことはなかった。
「えっと……何て言えばいいのかな……。体重を減らすんだ」
「何故、体重を減らすのです? もしもの時に力が出ないではないですか」
「あ、それはその通りなんだけれど……」
これは男の自分から説いても仕方ないな、と顎に手を添えて考えているとヒヒイロが助け舟を出していた。
「レイカル、ダイエットと言うのはいつの時代にもある、減量方法のことじゃ。体重を減らすことで見た目にもよくなることもある」
「……分かんないな。だって体重は重いほうが敵との戦いじゃ有利だろ?」
「……お主は相撲取りの発想じゃのう……。まぁ特に女性に多い。体重を減らしたい、それによって得られる美容効果を期待してのものじゃろう。今回のナナ子殿と小夜殿はその中でも最もオーソドックスな食事制限を取っておられるようで」
「食事制限……? 食わなくって平気なのか?」
「平気なわけないでしょうに……。こちとらずっとお腹が鳴っている始末よ……」
恨めし気な小夜の物言いに、心底理解できないとでも言うようにレイカルは首を傾げる。
「だったら食えばいいだろー。よく分かんないことやってんだな、割佐美雷もナナ子も」
「とばっちり受けてる私の身にもなりなさいよ……。はぁー……オリハルコンなのに何で人間のダイエットに付き合わされなくっちゃいけないのよ……」
「でも本当に分かんないな。腹が減れば食べればいいし、何でナナ子はこんなことを?」
「だーかーら、それは恋する乙女にしか分かんないのよ。……まぁ、オリハルコンに説いても無駄でしょうけれど」
「ラクレス、お前は分かるのか?」
ラクレスは自分へと一瞥を向けた後に首肯していた。
「ええ、まぁ。人間だけの文化ではあるけれど」
「確かにラクレスの言う通りじゃな。自然界には存在しない文化じゃ」
「何で自然界には存在しないのに、人間だけやるんだ? そのダイエットって言うのは」
うーん、と一同は呻っていた。
レイカルの疑問も分からないわけではないが、それを言い出すとキリがない。
「まぁ、乙女の悩みって言う奴よ、レイカル。あんたたちオリハルコンには関係ないのは正直羨ましいくらいだし」
「とは言え、ナナ子殿。食事制限だけでは体重が減らないのが実情のはず。何か策はあるのですか?」
「ええ、まぁとりあえず早朝に軽いジョギングをするようにしたわ」
「これ、何気に困るのよねぇ……。せっかくの休みをふいにされちゃうんだから。かと言って付き合わないのも悪いし……」
「小夜とカリクムの胃袋の主導権は私が握っているのよ。当然、手伝ってくれるのよね?」
作木はその段になってようやく、小夜とカリクムが巻き添えを食らっている原因の一端が理解できたような気がしていた。
「でも……僕が言うのも何ですけれど、別にそこまで太ってないのでは? 気にし過ぎるのもよくないでしょうし……」
「うーん、男性からの太ってないってのと同性の太ってるっていう価値観は一生交わらない点と線みたいなもんだから……。これに関して言えば、虎の尾を踏んじゃったのは私の責任だしね……」
どうやらナナ子の度の過ぎたダイエット理論は小夜が発信源らしい。
それにしたところで、いつもなら顔色もいい三人がめいめいにどこか憔悴し切っているのは見ていて気分のいいものではない。
かといって、ダイエットをやめろと言い出せないのが自分の立場と言うもので、どうするべきか、と悩んでいるとレイカルが声を差し挟んでいた。
「ダイエットなんてやめればいいだろ。痩せてていいことなんて一個もないんだから」
それは禁句だ、と口を塞ごうとする前にナナ子がぎょろりとレイカルを睨む。
「うー……何でオリハルコンに言われないといけないのよ……。太ったまんまじゃ、伽クンにも会えないでしょ」
「っと、噂をすれば、って奴だね」
削里の言葉を理解する前にのれんを潜ってきた人影に作木は困惑していた。
「えっ……伽……さん?」
「何だよ、作木の坊主。オレが来ちゃ悪いのかよ」
「いや……でも何の用事で……」
「伽にも頼んでおいたんだ。君らだけじゃできないだろう、ちょっとした裏方めいた調査をね。調査報告書は?」
「これだよ。ったく、てめぇの小間使いなんて一生やってやんねぇって心に誓っていたはずなんだがな」
「恩に着る。これで何とか纏まりそうだ。竹内会にも提出する書類もあるからな」
「へいへい、野郎の礼なんざ要らねぇよ。とっととお暇するぜ、って……どうしたんだよ、ナナ子」
ナナ子に気づいた伽に対し、彼女は店内の奥へと縮こまっていた。
「と、伽クン……今は会えないの……」
「会えないって……どうかしたのか? 風邪でも引いたのか?」
「そうじゃないけれど……今の私は、伽クンに相応しい彼女じゃ……」
そこまで口にしたナナ子へと、伽は歩み寄ってその手を取っていた。
ナナ子は瞳に涙を溜めて頭を振る。
「……嫌でしょ? 太ってる彼女なんて……」
「太ってるって……何言ってんだ、ナナ子。オレはどんな形であれ、一度愛した女を裏切ったりはしないぜ? それに……太ってなんていねぇよ。お前はいつだって、オレの理想なんだ。何ならどんな姿になろうが、オレはお前の傍に居続けてやるよ」
「と、伽クン……」
完全に二人だけの世界になる中で、小夜が毒づく。
「歯の浮くような台詞吐いちゃって……あの鳥頭」
「決めたわ! 私……ダイエットなんてやめる! だって、伽クンの理想であり続けたいもの……!」
「おう。オレもナナ子はいつでも元気があるほうが愛する甲斐もあるってもんだ」
「伽クン……」
「ナナ子……」
「はいはい、そこまでー。……ったく、アベックの続きは他所でやってちょうだいよ。見せつけないでよね」
遮った小夜は不満げに鼻息をつきつつ、こちらへと視線をちらりと向ける。
「……ねぇ、作木君。そりゃ、私はダイエットとかとは無縁だけれど……もし思い詰めちゃった時には、ああいう言葉を……」
「えっ、何ですか?」