駆け抜ける暴風と灰色の景色が世界を満たし、両兵は操縦桿を握り締めて今にも沈黙しそうな《ナナツーウェイ》を立て直している。
「お前が行かなくっちゃ、誰が青葉を助けるってンだよ……! 動けェ……ッ!」
それでも、豪雨で堰を切ったように流れる濁流と、そして風圧が機体装甲板を叩き据える。
不意にキャノピーへと折れた木々が突き刺さる。
ガラスが舞う中で、両兵は暴れ出しそうな操縦桿を力一杯押し留めていた。
「オレが……! 青葉を助けるンだ……だから、まだ、消えるんじゃねぇぞ……! 人機の意地、見せろォ……ッ!」
《ナナツーウェイ》は元々、ニコンのセーフハウスにあった出来合いでしかない。装甲も血塊炉も、ましてや操縦系統も年代物だ。
これでも軋んで動いているだけでも奇跡。
「……動くだけで奇跡って言うのなら、もっと奇跡の一個や二個……起こして見せろよ……ッ! それが……てめぇに懸けた人間の……願いだろうがァ……ッ!」
雨の冷たさが身に染みてくる。
風は容赦なく、人機の装甲を削る。
それでも、抱えた青葉の命一つ、守れなくって何だと言うのだ。
自分の命だけでも、賭けられなくって何だと言うのだ。
「……オレの命なんてどうだっていい。……青葉の夢を……裏切らねぇでくれ……。オレがどうなったっていいからよ。青葉の願いを……ここで挫けさせないでくれよ……ッ」
強風に煽られ、《ナナツーウェイ》の片足が内側から弾けたのを感じ取る。
それでも――進むだけの足だけは止めてはならなかった。
両腕を根元から失った《ナナツーウェイ》が咆哮するかのように軋みを上げ、奥歯を噛み締めていた両兵が満身より吼える。
その瞬間には、世界が切り替わっていた。
焼けつくような太陽の下でよろめいた両兵は泣きじゃくっている少女を目に留める。
「……お前……」
「両にいちゃん……どこ……?」
「ここだ……ここだよ、青葉……! オレはここに……」
手を伸ばしたその時には、幼い青葉の姿は靄の中に消えていく。
直後に視界を染め上げたのは漆黒の邪悪であった。
『出来たぞ……! 《モリビト一号エクステンド》だ!』
「……黒将……!」
両兵の肉体は溶け、今は《モリビト2号》――否、《真機モリビト2号エクステンド》と共に在る。
青葉を中心に抱き、《モリビト一号エクステンド》の強烈な思念エネルギーの瘴気が浮かび上がっていた。
『リバウンドプレッシャー――滅!』
「……青葉。あいつを倒す唯一の方法、オヤジが教えてくれたよ。オレとお前が最後に放つのは、やっぱこれしかねぇ!」
「うん!」
《真機モリビト2号エクステンド》が白銀の皮膜を張り、テーブルダストを包み込まんとする漆黒の邪念を受け止める。
それは真なる心で、悪しき闇を撃ち滅ぼす救済の灯の証――。
「真・リバウンド――フォール!」
裏返ったリバウンドプレッシャーの波が《モリビト一号エクステンド》を突き抜け、その邪念を打ち崩す。
それを視認した刹那には、意識の糸を手離していた。
もうこれで死んでもいいと、心の奥底から思えたのだ。
父親の無念は晴らせなかったのかもしれない。本当の意味で戦いはこれからなのは分かっていた。
だが、それでもよかった。
ここで命の一つとして溶けても何の未練もない。
そう思えていたと言うのに、両兵は命の河の向こうの輝きで、自分を呼ぶ声を聞いていた。
「……まだ……オレには何かがあるってのか? だが、もうオレの役目なんざ……」
手を伸ばす。
その先に無辺の闇があろうとも。
今はただ――進むしかないとでも言うような証のように、光が揺らめいている。
光を、握り返そうとした瞬間には、意識の表層を撫でるように、視界が開いていた。
「……オレは……」
先ほどまでの記憶の世界ではない。
久方ぶりに震わせた声帯は掠れ声を出していた。
起き上がるも、肉体はどれもこれも役立たずとでも言うようにゆったりと感覚が戻ってくる。
「……何だっつーんだ。地獄から蘇ったみてぇな気分だぜ……クソッ……」
身を起こしたところで、医務室らしき場所に戻ってきた人影を視界に入れる。
「……あんた……」
「あン? てめぇ、確か広世とか言ったか……。何で背ぇ伸びてんだ……?」
「いや、だってあんた……二年も。あ、いやそんな場合じゃない。すぐに南さんに連絡を……!」
「待て……! 待て、広世……」
喉が呼吸を忘れているかのように無理に呼吸を模倣しようとして、何度も咳き込む。
「二年振りなんだ、そりゃ肉体がついて来ない……!」
「二年……? オレは二年も眠っていたってのか……?」
「あ、ああ……。とにかく、今は南さんに連絡しないと。あんたが起きたんだ、きっと喜ぶよ」
「……黄坂の奴が? ……いや、広世。ちょっと待て。状況は……ああ、何となくだが、飲み込めた」
それは隣のベッドで青葉が眠っていたからだろう。
一目で彼女が自分と同じように昏睡状態だと理解できたのは、ともすればテーブルダストポイントゼロでの経験からなのかもしれない。
「……青葉は、まだ眠ったままで……」
「いや、心配要らねぇさ。広世、オレの刀はあるか?」
「刀? あ、ああ。そこに……でもどうするって言うんだ? あんたが起きたって報せを聞けば、みんな……」
「いいか? 絶対にオレが起きたことを明かすな。……余計なことで掻き乱したくねぇ。今のアンヘルはギリギリなんだろ?」
広世が唾を飲み下す。
つい先ほどから空爆の音が途絶えないのは恐らく、戦場であるからだ。
「……あんたに頼るほどじゃない。俺だってこの二年……強くなれた。操主としてなら一人でも戦える」
「言うようになったじゃねぇか。……ナナツーを寄越してくれ。一機でいい」
「でもよ……! あんたがアンヘルの旗印になってくれれば、これ以上に心強いことは――!」
その広世の言葉の先を、抜刀した切っ先で制する。鋭い刃に言葉を仕舞った広世へと、両兵は言葉を投げる。
「いいか? 二度は言わねぇ。ナナツーを寄越せ。それだけで事足りる」
「あ、あんたはでも……責任があるはずだ! 青葉と一緒に、あの日《モリビト2号》で降りてきた責任が……! だから、俺は……!」
怯まずに真っ直ぐな眼差しを向けてくる広世に、両兵はフッと笑みを浮かべていた。
「言うようになれたじゃねぇか。なら、心配は要らなくなったな。安心して任せられるぜ」
「……あんた、最初からそれを分かっていて」
「さぁ。何のことだかな。……広世、青葉のこと、頼むぜ」
「……どこへ行くって言うんだ。もしかしたら青葉は……明日にでも目を覚ますかもしれないのに。その時あんたが居ないと……青葉が悲しむ」
「……それでも、オレを待っている戦場があるんだ。今のオレは、ここで防衛戦を繰り広げたってしょうがねぇよ。黒将が……あの野郎が蒔きやがった災厄の種を一つでも潰さなくっちゃいけねぇ。カナイマじゃ狭いってだけの話だ」
「……一つ、教えてくれ。あんたみたいに……青葉を守り切れるような強さは、俺にはまだ足りないかもしれない。それでも……諦めなけりゃ……届く思いもある。そう信じていいんだよな?」
「……そんなもん、てめぇの胸に聞けよ。答えは出てンだろ?」
広世は首肯して廊下の先を示す。
「……《ナナツーウェイ》は格納庫にある。誰にも見咎められずに出撃するのなら第三格納庫からスクランブルをかけりゃいい。そこは人の目もない」
鍵を投げた広世に、両兵は問い返す。
「……いいのかよ。バレりゃ、てめぇもお役御免って奴じゃねぇのか」
「俺はどう罵られようとも戦い続ける。この二年間がそうであったように……。青葉を、守り抜くために強くなるんだ」
「……一端の男の眼に、なったじゃねぇか」
刃を鞘に納め、両兵は廊下を駆け抜ける。
空爆の音が止まないアンヘルの現状は明らかに異常であったが、それを気に留めている余裕もない。
宿舎を通り抜け、格納庫へと向かう際に、両兵が目の当たりにしたのは黒い人機の群れであった。
「……あれが、例の《バーゴイル》って奴か」
二年前に一度だけ軍のデータで目にしたことがある。
しかし完全に実用化――否、無人での運用が成されているとしか思えない隊列に両兵は僅かに狼狽えていた。
「……二年で黒将の部下共はオレらの先に言ったってわけか。……チクショウ、飲み込めねぇぜ」
プレッシャーライフルの光条が突き抜け、爆風が身体を煽る。
つい先ほどまで昏睡状態であった肉体は容易く吹き飛び、両兵は何度も地面に身体を打ちつけていた。
「痛――ッ! ……クソッ、本調子じゃねぇってのはこれだから……」
《バーゴイル》のうち一機がこちらに勘付き、その眼光を向ける。
「……ヤベェな。気づきやがったか。今さら投降とか……虫のいい話でもねぇだろうし」
その銃口が輝いた刹那、横合いから入って来た機影が《バーゴイル》を打ちのめす。
「……あれは……! モリビト……? 《モリビト2号》か?」
ブレードで《バーゴイル》の胴体を叩き割った《モリビト2号》の背中に、両兵は肉体の痛みを押して格納庫を目指す。
不意に声がかかっていた。
『小河原さん……!』
「……まさか、黄坂のガキか? へっ……てめぇに助けられるとはな」
『……起きたのね。広世は何をやって……』
「あいつにはもう男の誓いを果たしておいた。……黄坂のガキ、オレは誰にも言わずに、カナイマを抜けるつもりだ」
『抜けるって……どういう……! だって目を覚ますのをずっと待って……!』
「オレの戦場はここじゃねぇって、ハッキリ分かるんだよ。……多分あの時、真機と一体化したせいだろうな。黒将……あいつはまだ死んじゃいねぇ。トドメを刺すためには、もっと最前線へ……戦いの向こう側に行く必要がある」
『……それがアンヘルを抜ける理由……?』
「いけねぇか? ……オレは元々、ここに居たって変わらねぇだろ。それに、青葉よりも先に起きちまったってのは寝覚めも悪ぃ。後のことは任せるぜ、黄坂のガキ」
『……一つ聞かせて』
「……何だよ。手短に頼むぜ」
『……小河原さんは……青葉のことをどう思っているの』
「どうって……ああ、ったく……こういう時に聞く質問じゃねぇだろ」
『……答えて。それ次第じゃ、納得できない』
『ルイ? 誰かと話しているの?』
通信網に南の声が混じり始める。
戦闘状況で呑気に話している場合でもないのだろう。
『……いいえ。ちょっとした独り言よ』
「……お前……」
『……答えて。それだけ聞きたい』
ここで下手な誤魔化しは通用しないな、と両兵は立ち上がって応じていた。
「――青葉を愛している。あいつはオレの女だ」
てらいのない、真正直な言葉をぶつけたつもりであった。
だがそれがテーブルダストの深層で誓った愛ならば貫き通すまでだ。
『……そう。そう、なのね……』
「黄坂のガキ……」
《モリビト2号》が反転し、空中の《バーゴイル》へと向き直る。
『……行って。もう、顔も見たくない』
「……あばよ」
格納庫に向けて駆け出す。
アイドリング状態であった単座の《ナナツーウェイ》に乗り込むなり、両兵はキッと視線を振り向けていた。
「……ったく、素直じゃねぇのは相変わらずだな。……じゃあな、アンヘル。オレの……帰る場所だった……」
言葉を皆まで言い切らず、両兵は丹田に力を込めて《ナナツーウェイ》と共にジャングルを疾走する。
ここではない戦場に向けて――地獄への片道切符はこの時切ったつもりであった。
――戦場を吹き抜ける荒廃した風はいつも似たように凝っている。
そう感じた矢先にはプレッシャー兵装特有のオゾン臭と、そして砂礫の大地に纏った砂嵐のにおいが鼻を突く。
耳朶を打ったのは空中展開した《バーゴイル》一個小隊の滑空時の音叉であった。
既に空を張られていると察知した少女は乗機である《アサルト・ハシャ》の機動力で敵の攻撃網を掻い潜る。
「……嘗めるな。《バーゴイル》程度で……!」
《アサルト・ハシャ》の疾駆ならば《バーゴイル》のプレッシャーライフルの光条もすり抜けられる。
それだけではない。
血塊炉搭載機ではない《アサルト・ハシャ》は相手の意表を突くのに最適だ。
実体弾による遊撃でまずは一機、背後を取った《バーゴイル》を撃墜する。
しかし、たった一機墜とした程度では安心もできない。
すぐに銃撃を中断してビルの狭間に身を隠し、次手である《バーゴイル》の群れの攻撃を遮断する。
「無人である《バーゴイル》の内蔵AIは、一度に複数の相手と戦うことに長けている。……私がこの場で相手の注意を引いているのも計算のうち……」
《バーゴイル》小隊がじわじわと自分の《アサルト・ハシャ》を追い詰めようとしたその直後には、友軍機の長距離砲撃が相手へと突き刺さっていた。
「かかった! こちらP3! A地点への合流を待つ!」
しかし通信網はジャミングの砂嵐に遮られている。舌打ち混じりに《アサルト・ハシャ》を駆け抜けさせて《バーゴイル》の装甲を銃弾で叩いていた。
「こっちだ、黒ガラス! 追いつけるものなら追いついて来い!」
しかし戦場で勇猛果敢な言葉を発した者には必ず死神の影が差す。
《バーゴイル》一個小隊と後衛部隊を相手取るほどの火力は、こちらにはない。
先ほどの砲撃も、自分が応戦していると知っての援護ではなく、誰かが《バーゴイル》と渡り合っていると感じての砲撃であろう。
そもそも、《アサルト・ハシャ》を伴わせての戦線への参加は、自分には推奨されていない。
しかし、駐屯地に向かう《バーゴイル》をみすみす通させてなるものか。
「……私は、まだ死ぬわけにはいかないんだ……」
その時、不意につんのめる。
《アサルト・ハシャ》の姿勢制御パラメータに異常が生じ、バランサーが再起動に入っていた。
「嘘でしょう……! こんな……ところで……っ!」
愚かにも倒れ伏した《アサルト・ハシャ》へと《バーゴイル》が次々に照準する。
再起動状態の《アサルト・ハシャ》は格好の的だ。
直後には、光条による断罪が訪れるかに思われた。
しかし、その光が自分を打ち消す前に、荒々しい機動力の《ナナツーウェイ》が砂礫に沈んだ街を疾走する。
《バーゴイル》の注意が削がれた一瞬の隙を突き、肩口に搭載したニードルガンを速射した紫色の《ナナツーウェイ》が跳躍していた。
《バーゴイル》の頭部を撃ち抜いた棘の弾丸には細やかながらワイヤーが接続されている。
続けざまにニードルガンを発射し、《バーゴイル》の飛翔高度へと一挙に至った《ナナツーウェイ》が携えていたのは刀であった。
人機大の刀身を誇る抜き身の刃が《バーゴイル》の頭部を引き裂く。
飛びかかった挙動はまるで獣のそれ。
血塊炉を両断し、頭部を叩き潰して《バーゴイル》を無力化する。
最後の一機へと追い縋り、逆手に握り締めた刃を振るった《ナナツーウェイ》は敵機を足蹴にして着陸していた。
「……何……。味方……なの?」
刃を振るい、紫紺の《ナナツーウェイ》がこちらへと振り向く。
その立ち振る舞いに夜叉の面持ちを感じ取った少女は、《アサルト・ハシャ》の再起動を促そうとしていた。
「う、動け……動け……!」
刀を携えた死神の影が差す。
直後の痛みを予見して瞼を閉じた瞬間には、刃が叩き込まれていた。
しかしそれは、機体すれすれの地面に、である。
「……なに……」
『……おい。お前らの陣営にメシはあるか?』
「め、メシ……って……」
『ずっとここまで《バーゴイル》を狩って来たんだが、腹にマトモなもん入れてなくってよ。今にも死にそうなんだ。メシくれるってンなら、オレはそっちに付くぜ』
「な、何を言って……! キョムの陣営じゃ……ないの……」
『……キョムならもうとっくにてめぇを叩きのめしていると思うがな。ここは通信感度が悪い。お前、もしかしてレジスタンス、って奴か?』
「そ、そうよ! 悪い? ……孤立しているけれど……」
『何で型落ちの《アサルト・ハシャ》なんぞ使ってるんだ? ……ああ、まぁそれはどうだっていいか』