「知らないわよ、そんなの。あの自称天才が奢るって言ってるんだから行かないと損でしょう?」
「……何だかなぁ。ルイさん、学校に来たり来なかったり……それで渋谷なんかに行ってたら不良みたいですよ?」
「誰もグレたりはしないってば。それよりも、さつき、この間借りた図書館の本、返しておいてくれた?」
「あ……そう言えばそんなこともありましたね……。全部読んだんですか?」
ルイは鞄に入れておいた大判の本をこちらへと差し出す。
「さつきも読めば? 結構面白かったわよ」
「……けれどこれ、原語版なんですよね。英語、中学生までのしか分かんないですし……」
「あら、そう? 中学英語って日本じゃそんなもんなんだ。私はスラスラ読めたけれど」
「私はホラ、これとか、最近読んでますよ」
文庫本のファンタジー小説を取り出すと、ルイはそれを引っ手繰って視線を走らせるが、すぐに神妙顔になっていた。
「ど、どうしました……?」
「……日本語と習っていない漢字が多過ぎて読めない」
そう言えば、ルイは英語のほうが自然な言語なのであったか。
せっかく日本の中学校に編入してきたと言うのに、少しもったいないような気がする。
「けれど、ルイさん。何で国語の授業とかきっちり受けないんです? 勉強したほうがいいじゃないですか」
こちらの物言いにルイは肩を竦めていた。
「英語の授業は分かり切ったことばっかり言っていて退屈だし、国語は何言ってんだかさっぱりなんだもの。受ける気にならないわ」
「……まぁ、けれど普段は困んないですよね?」
「音としては分かるから。問題は読み書きよ。何で日本語って同じ音で違う読みがあるの? それが全然理解できないわ」
そういう言語なので、としか説明できないでいると、ルイは本をこちらへと突っ返していた。
「日本語の文章は読んでいてこう、眉間の辺りが疲れて来るのよ。それなら英語そのままで読めたほうが楽でしょう?」
「……うーん、そういうもんなんですかねぇ」
「そういうもんよ。で、さつきは来るの?」
「あ、でも買い食いは駄目ですし……」
「お堅いわね。ちょっと渋谷で何か食べ物でも食べて、それで帰るってだけじゃないの」
「だからそれが買い食い……って言うか、柊神社で赤緒さんが困るじゃないですか。晩御飯食べる前に何か食べちゃうと」
「赤緒なんて困らせておけばいいのよ。じゃあ、さつきは来ないのよね?」
正直なところで言えば、行きたい気持ちもあったが、自分が模範を守らないとルイに示しもつかない。
「……まぁ、校則違反ですし」
「じゃあ、本を返しておいて。さつき、図書室に寄るでしょう? 次に読みたいのは、そうね……ミステリーかしら」
「……あの、又貸しはそれも駄目って……」
「駄目駄目って、何でも言っていたらきりがないでしょうに。とにかく、私は渋谷に行くから、さつきは次に読む本を選んでおいて。人機のテストしている時に、暇潰しにはなるから」
片手を上げて教室から立ち去って行ったルイに、さつきは机の上に置かれたファンタジーの本を顧みる。
「……もうちょっと強く出ないと、ルイさんの頼みって断り切れないんだからなぁ……」
とは言え、図書室に用があったのはその通りだ。
自分も文庫本をちょうど読み終えたところなので、返却しに行くついでである。
図書室に顔を出すと、黴臭い蔵書の香りが鼻孔を突く。
何をやっているのだろう、と窺うと、布巾を鼻と口に巻いた少女が脚立に跨って箒で埃を払っていた。
紫色の虹彩がこちらを捉え、長い黒髪を一つに結っている。
「……確か、川本……」
「さつきです。川本さつき……えっと、志麻さん、でしたよね?」
問い返すと、少女――志麻涼子は眼鏡の奥の瞳を細めていた。
口元の布巾をずらして、麗しいかんばせに疑問符を浮かべる。
「……何の用ですか?」
「あっ、返却しようと思っていて……」
図書委員である志麻涼子は脚立から降りようとして、ぐらつく。
咄嗟に支えると、志麻涼子は軽く会釈してから、そっと降り立っていた。
スカートにかかった埃を軽く払い、それから応じる。
「返却? 今日は図書室は閉めていたはずですけれど」
「えっ……、あっ、本当だ……」
気づかずにいつもの調子で入ってしまったのだろう。
志麻涼子は咎める論調で声にしていた。
「今日は蔵書の掃除をやろうとしていたところなんです。邪魔はしないでください」
「あっ、ごめんなさい……」
「……返却ですか。ちょうどいいので、今対応します」
別に特別ツンケンしているわけでもないのだろうが、志麻涼子の対応はてきぱきとしていて、図書カードを取り出すなり、眉間に皺を寄せる。
「……返却期限、一週間も過ぎてますけれど」
「ええっ……もう、またルイさん……」
「返却は受け付けますが、次からは気を付けるように。……と言うか、前もこんなやり取りをしませんでしたか?」
「うぅ……気を付けます……」
ルイの分まで叱られている気がして、さつきは委縮する。
志麻涼子は返却された本の表紙をしなやかな指先でなぞっていた。
「このシリーズ、好きなんですか?」
「あっ、いえ、その……私は原語版は読めなくって……」
「又貸しは禁止ですよ?」
「そ、それはその……」
困り果てていると、不意に相手は微笑んでいた。
眼鏡のブリッジを上げて、志麻涼子は問いかける。
「結構、骨太なファンタジーを好まれるんですね。このシリーズ、私も読むのに一か月くらいかかったのに」
「あっ、そうなんですね。私はその……そもそも文庫くらいしか読んだことなくって」
「海外じゃ有名ですよ。このシリーズの評判、日本じゃまだ口コミ程度ですけれど」
意外であった。
彼女のような図書室の住人でも口コミは気にするのか。
「……本の虫が口コミなんて気にするのか、って顔をしてますけれど」
「あっ、しまった……じゃなくって! その……ごめんなさい、失礼でした……よね?」
志麻涼子は呆れ返ったように嘆息一つついて、まぁ、と続ける。
「ほとんど図書室で一日を終えていますから、そう思われるのも無理はないんでしょうけれど。とは言え、案外悪いものでもないんです。本のにおいは心地いいですし。たまに普段は見ない本棚に興味を移すと、思いも寄らない発見がありますので」
「あっ、そう言えばその……ミステリーっておススメありますか?」
ルイに頼まれていたおつかいを思い出すと、志麻涼子は見透かしたようにその瞳を細める。
「……あなたが読むんじゃないですよね?」
「あっ、えっとぉ……」
誤魔化す言葉を探していると、彼女は大仰にため息をつく。
「隠し事が苦手なんですね、川本さんは」
「……すいません」
「いいですよ。おススメを探していらっしゃるのなら、少しだけお付き合いしても」
「あっ、本当ですか?」
「ただし、今日は本来なら図書室はお休みですから。少しだけ掃除を手伝ってもらえますか?」
「そ、それはまぁ……はい」
交換条件にしてはまぁまぁのものだろう。
志麻涼子は立ち上がり、布巾とはたきを差し出す。
「では、あっちの奥の本棚から片づけて行きますので。川本さんは手前からお願いします」
「……あの、ちょっといいですかね?」
「何か?」
「全部その……志麻さんがやっているんですか?」
暫時、沈黙が流れる。
聞いてはいけないことだったか、と戸惑っていると、彼女は箒を握っていた。
「……本が好きなので。まぁ他にも図書委員はたくさん居るんですけれど、ここまでやるのは私くらいなものですね」
「あっ! その……私も本が好きで……!」
「何ですか、そのわざとらしいの。ポイント稼ぎは感心しませんよ」
自分の浅はかな考えなど見透かされていたらしい。
しょげたさつきへと、志麻涼子は微笑みかける。
「……まぁ、いいでしょう。掃除が終われば、ゆっくりとおススメの本に関しては語りますので、そのつもりで」
志麻涼子は脚立を使って上のほうを掃除していくので、さつきは自ずと奥の本棚の下のほうを担当することになっていた。
貸出禁止のラベルの張られた仰々しい蔵書は平時ならばなかなかお目にかかれないものばかりだ。
「……えっと、本を出して掃除はしないんですか?」
「片付けが私だけでは大変なので、それはしないんです。蔵書は埃を被りやすいので、それだけを対処療法って感じですね」
「で、でも今はその……私も居ますし、できるんじゃ……」
「あなた、図書委員じゃないでしょう?」
そう言われてしまえばにべもない。
確かにどこにどの本があるのか把握していない人間が下手に触るのは逆効果で、さつきは布巾で鼻と口を覆っていた。
埃を吸わないようにしつつ、本に積もり積もった塵を払っていく。
二人しか居ない図書室は少し手広で、沈黙ばかりが続くのは気まずさが勝る。
それとなく、さつきは志麻涼子を窺っていた。
少しばかり危なっかしいが、それでも本にかける情熱は本物なのだろう。
丁寧な仕事ぶりは単純に尊敬できる。
自分の慣れた場所ではないとは言え、さつきも掃除は得意であった。
数々の本の背表紙を眺めつつ、埃を払っていく。
「……あの、志麻さんは本、どんなのが好きなんですか?」
「……掃除中に声、かけている場合ですか」
「あっ、ですよね、すいません……」
「……私は、歴史文学をよく読みますね。架空でも史実でも。そこにはヒトの積み上げてきた連綿たる土壌がありますので」
「……難しいこと、言うんですね」
「何も難しくはないですよ。人間と言うのが、この地に栄華を誇って数千年。彼らにしてみれば、その驕りの象徴のようなもの。それこそが歴史であり、紡ぎ上げられてきた文学なのでしょう。私は、それが愛おしい」
「……好き、よりも、愛おしい、なんですか?」
「そうですね。好き……と言う、軽い一面で片づけるのには、私が向き合うスタンスはきっと、少し違うのでしょう」
「……私、流行りのファンタジーとか、そういうのばっかり読んでいるから。難しく感じるんでしょうか?」
「川本さんは読書家なんだと思いますよ。この図書室にはほとんど人は来ませんから。だから好きなんですけれど」
何だか、暗に自分がここに来た迂闊さを口にされているようで、さつきは曖昧なまま微笑む。
「たまに、本を開いてあげてください。あまりにも長い間、誰も読まないと、本も可哀想なので。特に西日が差す辺りの本棚はそうじゃなくっても日に焼けますから、定期的に入れ替えを行わないと」
校舎に指す夕刻の光が、本棚の一角を照らしている。
さつきは言われた通りに、本を少しだけ入れ替えつつ、ふと開いていた。
それは植物図鑑であった。
色とりどりの植物と、その植生が記されている。
花の項目を開くと、南米原産の花が写真付きで掲載されていた。
「……花に興味が?」
「あっ、いや、違って……。その、兄が南米に居る……らしいので、ちょっと」
「お兄さん、南米に居らっしゃるんですか? この時勢に?」
志麻涼子が如何に浮世離れしていても、それでも耳には届いているはずだ。
ロストライフ現象――南米より端を発したその名前を知らない人間など居ない。
「……はい。まぁ、私には何も分からないままなんですけれど。でも、分からないなりに、できることがあるはずだって、最近は思えてきてるんです」
蔵書を戻しながら、さつきは植物図鑑の重厚な表紙を撫でていた。
「分からないなりに、ですか。……川本さん、ちょっと変わってますよね」
「へっ? 私が、ですか? 全然、そんなことはないと思いますけれど……」
「……変わってるでしょう。声優の仕事をしていたり、こうして図書室で二人っきりで掃除に勤しんだり。変わってなかったら、それこそ変ですよ」
「うぅ……声優に関しては言わないで欲しいんですけれど……」
南から無理やりやらされているような仕事であったが、しかし最近はそれも少しだけ自分の中での確信に変わりつつあった。
これも、変われたと言う証なのだろうか。
何もできないまま、ただ漫然と兄の行方を待っていた自分とは、少しだけでも隔絶できたのだろう。
「……けれど、私、つい最近まで弱虫で、自分のことを泣き虫だって思っていました。でも……みんなが居て、ちょっと違うように成れるかもって、思えてきたんです」
トーキョーアンヘル、ひいては柊神社の面々と、こうして交流して、そして人機で戦えるようになって、意義はあったのだろう。
以前までの自分には戦うなんていう選択肢は一切なかったのだ。
それが強さに変わったのなら、自分にとって一番のはず。
「……それが、川本さんの理由、ですか」
「……変ですよね、やっぱり。別に、違う人間に成れるわけでもないのに、こんなの」
「いえ、何も、可笑しくはないんじゃないですか? だって、そうやって川本さんは変わって来たんでしょう? これまでも、これからも」
「どう、なんでしょうね。私はちょっとした……抵抗みたいなのかなって思っていますけれど、こんなのささやかだから」
「ささやかでも、いいんじゃないですか? だって、それでこうして図書室に来てくれたんですから」
脚立を降り、志麻涼子は箒をロッカーへと仕舞っていた。
どうやら掃除の時間はここまでのようだ。
さつきも植物図鑑を仕舞い、掃除の仕上げに取り掛かる。
受付に戻った志麻涼子はその間、眼鏡の縁を上げて自身の愛読書に耽っていた。
静かな時間が流れている。
平時のアンヘルでのキョムとの戦いとはまるで無縁な、静謐な時間が。
こういう世界もあったのだな、と思い知らされる。
いや、ともすれば自分には、こうした生き方を選ぶ権利も、あったのかもしれない。
だが、自分は選んだのだ。
選んだからこそ、ここに居られる――。
「……終わりました。これでいいですかね?」
布巾とはたきを返すと、それと入れ替わりに差し出されたのは英語の書物であった。
「……これは?」
「ミステリーのおススメです。原語版を好まれる方に貸されるようなので」
「あっ、いいんですかね……」
「もちろん、図書委員としては、又貸しは厳禁です。……ただし、今日手伝ってもらった報酬として、特別に見過ごしましょう。……ヒミツですよ?」
何だか志麻涼子も誰も寄せ付けない人間と言うわけでもないらしい。
その立ち振る舞いからは深窓の令嬢のような感覚もあるが、彼女も人並みに他者に関心はあるようだ。
「……その、私のおススメ……話してもいいですか?」
だからなのだろうか。
心を開いてくれた感じがして、さつきは一歩踏み込んでいた。
こうして、ルイとも仲良くなれた。
エルニィとも打ち解けられた。
赤緒たちとも、一緒に戦えている。
ならば、自分から心の扉を開くのを、恐れてはいけないはずだ。
志麻涼子は眼鏡の奥の眼差しに驚嘆を宿していたが、やがて本で口元を隠してぼそりと呟く。
「……いいですけれど……私、結構色んな本、知ってますよ?」
「でも、ずっと図書室なら、知らない本もあるかもしれないじゃないですか。志麻さん、図書室に居るのなら、その、世俗とかにはあまり関心はないかもしれないですけれど」
それでもいい。
彼女のことを知りたいと思えたのは、何も悪い衝動ではない気がする。
志麻涼子は人差し指で唇を押し上げて考え込んだ後、ちらとこちらに視線を配る。
「……酔狂ですね。私みたいな、図書室の住人に、何か教えようなんて」
「……駄目、ですかね?」
「いいえ。駄目じゃないと思いますよ。ただ……あなたが思っているよりも、私のほうが物事を知っているかも」
ふふんと鼻先で笑ってみせた志麻涼子に、望むところだとさつきも微笑む。
「じゃあ、話しましょう。お互いに、知らないこと、分かんないこともきっと……たくさんあるはずですから」
「――さつき。頼んでいたミステリー、結構面白いわ」
風呂場から上がって来るなり、薄着姿でそう言ってみせたルイに、さつきは自信満々に応じていた。
「はいっ! だってそれ、選んでもらいましたから!」
「……元気なのね。さつきも渋谷に来ればよかったのに。クレープ、美味しかったわよ?」
「ねぇー、ルイー。貸した千円、返してよー」
エルニィがまとわりつくようにルイに体重を預ける。
それをルイがごろりと寝転がって応戦の背中をぶつけ合わせ、居間で二人の声が響く。
「や、よ。第一、天才が千円ちょっとで、みみっちいこと」
「みみっちいって、ルイはお金貸したらすぐに返せって言ってくるじゃんかぁー。今日はクレープ奢ったんだから、いいでしょー?」
「奢ったうちに入っていたでしょ? あのイチゴのクレープも」
「奢ったのはチョコの奴! イチゴのは、欲しいって言うから分けた奴じゃんかぁ!」
「いちいち、小さいことに拘るわね、あんたも。……ねぇ、さつき。今回の本も、私の好みにぴったし。誰が選んでいるの? さつきじゃないでしょ?」
「あっ、それはそのぉ……」
志麻涼子のことをどう説明すべきか、少し悩む。
八将陣シバそっくりの見た目の彼女について話せば、要らぬ干渉を招きかねない。
「ねぇ、それってさ。海外で結構流行っていた、あのミステリー? へぇ、好きだねぇ、さつきも。これってさ、ラストは、確か――」
「ネタバレ禁止」
すとんと、ルイはエルニィの脳天にチョップをかますと、ふぐっとカエルのような悲鳴を上げては彼女は倒れ込んでいた。