JINKI 242 ささやかな思い出を綴って

「――それでこれなんですもんね……。小河原さんが言うのには、お代はいいとのことでしたけれど……本当に大丈夫なんでしょうか?」
「知らないわよ、いいんじゃないの?」
 ルイはバスタオル姿でコーヒー牛乳を飲み干している。
 腰に手を当てて思いっ切り呷っているのは、見ていても気分のいい格好だ。
「……欲しいの?」
「あっ……いや、そういうんじゃなくって……」
 こちらの了承を得る前に、ルイは冷蔵庫から二本目のコーヒー牛乳を差し出す。
「別に、いいんじゃないの。そんなことを気に留めているような身分でもないでしょ」
「そう……ですかね。じゃあ……」
 蓋を開けてから、ルイのほうを見やると彼女は三本目の封を開けて先ほどの姿勢を取っている。
 さつきも思い切って呷ると、少しだけ胸のつかえが取れたような気がしていた。
「……落ち着いたでしょ? よくカナイマで南が似たようなことをしていたわ。まぁ、その時はお酒だったけれど」
「る、ルイさんっ! お酒は二十歳になってからって、赤緒さんから……!」
「ここには小うるさい赤緒も居ないし、別にいいでしょ。それに、私と南の……言ってしまえば思い出みたいなものだしね」
 自分はその名に相応しい思い出を作れているのだろうか、とさつきは不意に迷ってしまう。
 ルイと南、それに両兵はカナイマアンヘルの頃からの付き合いがある。
 そこに自分のような小娘が介入したところで、邪魔なだけではないのかと思ったことは一度や二度ではない。
「……気にしてるの? 私と小河原さんの昔の話」
「……べ、別に気にしてなんて……。い、いえ、嘘ですね、それ。気になるのは本当ですけれど……簡単に聞いていいのかな、って」
 早々に折れたのは別にここで意地を張ったところで、対面しているのはルイ一人だったのもある。
 南が居れば違ったかもしれないが、ルイも自分と目線を合わせてくれているのは重々理解しているのだ。
 それは同じ中学校に通っているのもそうなら、こうして同じ湯船に浸かり、そして火照った身体を脱衣所で晒しているのも同じであったからなのだろう。
 湯冷めする前に服を纏おうとして、ルイは扇風機の前で「あー」と声を反響させる。
「……ルイさん、それやると喉悪くしちゃいますよ」
「……赤緒みたいなことを言うのね。けれどま、気になるのは本当なんでしょう。正直に言っちゃえば、私と小河原さんって、あんまり関わることもなかったのよ」
「……そう、なんですか? すごく……その、親しそうに見える時もあるから、そうじゃないのかなって」
「むしろ、小河原さんに関わっている人間って言えば……南と、それに青葉、ね……」
 やはりここでも青葉の名前が出てくる。
 一体どのような少女なのかは、誰からも伝聞の形で聞くばかりで、未だに実態を得ないのだ。
「……親しくなかったんですか? ルイさんは……」
「あんたたちみたいに素直にもなれなかったのよ。こっちにも色々あってね。遠巻きに眺めることも多かったし、そういう点で言うと、今のさつきみたいなものね。憧れだけで、私は満足していたようなもんだし」
「……憧れだけで……ですか」
「けれど、今は違う」
 立ち上がったルイはこちらへと一瞥を振り向ける。
「――負けないから」
 そう言い置かれたのは、自分も一端に両兵を競う仲として見てくれていると言うことなのだろうか。
 それを問い返す愚を犯す前に、両兵の声が響く。
「おーい! まだ入ってんのか? 長風呂だな、てめぇらも」
「お、小河原さん……っ! ま、まだ服着てないですから!」
「おう、待ってンぜ」
 待合室から声をかけられたことに少しだけ安堵しながら、さつきは自分の制服を乾燥機から取り出す。
「洗濯機まで貸してくれるなんて……いい銭湯なんですね……ここ」
「どうかしらね」
 その言葉の意味を解する前に、さつきは袖を通して番頭へとぺこりと頭を下げる。
「あ、あの……ありがとうございます……洗濯機まで貸してもらえるなんて……」
「いいよ、別に。それにしても、あのお兄さんも罪だねぇ。この間も妙なカッコのお姉さんと一緒にここに来たってのに」
「……妙なカッコって?」
「赤い巫女装束みたいな服だったね、確か」
 該当するのは自分たちの間では一人しか居ない。
「あ、赤緒さん……? 赤緒さんが、小河原さんと一緒にここに……? な、何で?」
 混乱する脳内にルイの言葉が切り込む。
「ほらね。ロクなもんじゃないでしょ」
 余計に困惑する中で、ベンチに座り込んでいた両兵がこちらを手招く。
「えっと……どうしたんですか?」
「お前ら、今日はまぁまぁの稼ぎになったからな。そうだな……ちぃと、行ってみっか」
「えっと……行くってどこに……」

 ――パチン、と割り箸を割って、目の前に差し出されたラーメンの器を眺める。
「えっと……これって……」
「見て分からんか? あの後、立花に《バーゴイル》の腕を取って来てもらったらよ、まぁまぁの値段になったんだよ。民間の物流を通せねぇってんでな」
 隣り合って座ったルイはじっとラーメンの器を覗き込んでいる。
「……ん? どうした? 醤油ラーメンは好まんかったか?」
「いえ、そうじゃなくって……何で、ラーメンなんです?」
「何でって……そりゃあ、お前、いちいち感謝のしるしを金で換算してりゃ、オレも破産しちまうからな。それに、お前ら、中坊のカッコしてンだろ? さすがにハンバーガー屋とかにゃ連れ込めねぇよ」
 確かに制服姿の女子中学生を普通の店に連れ込むわけにはいかないのだろう。
 その妥協案としての屋台のラーメンと言うわけか。
 麺を啜り始めたルイに両兵は肘で小突く。
「……何だよ、食うんじゃねぇか。あ、オヤジ。オレにチャーシュー追加してくれ。さつきも食うか?」
「あ、うん……けれど夕飯前……」
「カタいこと言いっこなしだろ。それに、手伝ってもらったんだ。その日のうちに謝礼くれぇはしないと気分も悪ぃしな」
 確かに一度柊神社に帰るような余裕もないだろう。
 夏の気配をはらみ始めた風が吹き抜け、風呂上りで少しだけ汗ばんだ肌に触れる。
 今は、この一時でさえも替え難いようで、さつきはチャーシューが追加されたラーメンを前にして割り箸を割って手を合わせる。
「い、いただきます……」
「おう、食え食え。今日ばっかりはオレの奢りだからよ」
 三人で言葉少なにラーメンを食していると、不意にルイが声にしていた。
「……こういうの、そう言えばあまりなかったわね。日本についてからは特に」
「そうだな。思えば、カナイマじゃ、お前や黄坂相手に酒盛りとかはすることもたまにゃあったが、落ち着いて飯を食うってのは案外なかったかもしれん」
「……カナイマに居た頃のほうが、小河原さんは懐かしいんじゃないの?」
 さつきはその時、ルイが意識的にかつてのアンヘルの日々を促してくれていることに気づいていた。
 どことなく気まずくしていると、こちらの気持ちなどどこ吹く風で、両兵は箸を彷徨わせる。
「あー、そうでもねぇかもしれねぇ。今しかねぇことってもんはたくさんあるし、まぁ思い出ってもんに足を取られていちゃ、何事も楽しめぇだろ?」
「楽しむ……。小河原さんは今が楽しいの?」
 どこか切り込むような論調に聞こえたのは自分の気のせいではないはずだ。
 固唾を呑んださつきに比して、両兵は何でもないことのように言ってのける。
「楽しくっちゃ、いけねぇか? ……そりゃ、置き忘れたような思い出もあるさ。だがよ、こうして、昼間は橋の下で寝て、そんでたまに空き缶集めで小銭稼いで、てめぇらみたいなのと喋っているとよ。何だ、マシじゃねぇの、オレの生き方も、って思えるんだよな」
「……マシ、ね」
 それは両兵にとってどこまで本音で、どこまで建前なのかも自分には分からない。
 しかし、ルイはこうして自分に尋ねる契機を与えてくれている。
 今はそれに感謝して、さつきは口を開いていた。
「……小河原さん……私たちと一緒に居て、楽しい……ですか?」
「楽しいが? 何だよ、思い詰めたみてぇなツラして。メシがまずくなンぞ?」
 今は、それで救われた気分だったのは本当だ。
 ここで一拍の間も挟まず、応じてくれたことだけは確か。
 ――だってお兄ちゃんは……たまにすごく遠くを見ているから……。
 自分の中で浮かびかけた不安の影を振り払い、さつきは努めて笑顔で返していた。
「……なら、よかった。私たち、ちゃんと小河原さんの役に立てているって言うんなら……」
「役に立つだとか立たないだとかじゃ、ねぇだろ。てめぇらはよくやってるし、オレはそんなお前らの……手助けみてぇなことしか所詮はできねぇよ。もし成長できたんだとしたら、それは自分の功績だ。誇っていいんじゃねぇか?」
 役に立ちたかったから、手伝ったわけではない。
 きっと自分もルイも、同じ気持ちのはずだ。
 ――この人の、特別になりたい。
 トーキョーアンヘルのみんなはきっと、似たような想いで両兵に寄り添っている。
 だからって、今は負ける気もない。
 さつきは一つ頷いて、それからラーメンと向かい合っていた。
「……うん、そうだよね。そうだったら……いいなぁ、私も」
「よく分かんねぇことで悩んでんだな。大変だな、中学生ってのも」
 両兵に分かって欲しい慕情は、ここでは打ち明けなくっていい。
 ルイもきっと同じ条件だ。
 だから、今ばかりは負けないために。
 思い切ってラーメンを食べよう。
 それだけが、彼にとっての思い出になれると言うのなら。
「あの……おかわりできますか?」
「おっ、さつきも今日は威勢がいいじゃねぇの」
「……私もおかわり」
 器を差し出したルイのエメラルドグリーンの瞳に浮かんだ感情を、今だけはここまで克明に感じられる。
 ――絶対に、負けない。
「……へぇ、黄坂のガキも威勢がいい……って、ちょっと待て。お前ら二人がおかわりをしたら……」
 替え玉が入れられてから、両兵はコートの中の小銭を数え始める。
 何だか、そんなみみっちい様子も、今は愛おしい。
「……お前ら、さすがに三杯目はやめろよ? 今月の全財産がなくなっちまう……」
「……どうしよっかな。ルイさん」
「そうね。三杯目を頼んだっていいかも」
「おいおい! 何だよ、今日に限ってさつきも、その悪ガキに乗せられやがって……」
 ――そうだ、今日は少しイジワルでもいい。
 それがだって――私なりの両兵にとっての特別への成り方なのだから。
 あったかいラーメンを啜って、涼しい風を受ける。
 今日は何だか――ささやかだったが、いい日なのだと、そう思えるために。

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