JINKI 243 プリンセス・メルJ

「――登山靴は高いんだから。あんた、自分の興味だけで決めてない?」
 案の定、靴の専門店に入るなり、それぞれの好みの靴を選別する。
「じゃあ、これは? ほら! ブラジルでも有名なサッカー選手が履いてる奴!」
「どれどれ……って、エルニィ! これ、桁間違ってない? ゼロが二、三個多いわよ!」
 値札を捲った南の声に、エルニィは当然だと言うように振る舞う。
「だって、サッカー専用の靴だもん。そりゃあ、それくらいはするよ」
「南、今度はこれ」
 ルイはルイで、今度はホッケー用のシューズを差し出していた。
「……あんたら、真面目に靴を買う気はないんでしょ? 私を困らせてばっかり……」
「失敬だなぁ! ボクは真面目だよ。ルイがちょっとふざけているだけでしょー」
「……私も不愉快ね。自称天才と同じように扱われるなんて」
「……頼むから、ちょっとはマシなのを選んでちょうだいよ。赤緒さんは? 何か欲しい靴とかある?」
「えっ……その、いいんですかね……。だってその……ヴァネットさんの靴をからかっているみたいじゃないですか、そもそも……」
 メルJはと言うと、自分に合いそうな大きめのサイズ売り場に赴いているので、今の会話は聞こえていないはずだ。
 南はそれとなく囁きかける。
「……正直なところね。まずったなー、って言うのは思ってるんだけれど、まぁ、でも、あの子もあの子じゃないの。もっとシャキッとしてさ。モデル用の靴なんだ、って言い切っちゃえばいいのに、素直じゃないんだから」
「……でも、すごいですよね。ヴァネットさん、背も高いしスタイルもいいから、きっと、似合うんだろうなぁ、ガラスの靴……」
「あら? 赤緒さんも興味があるの?」
「え……っ、い、いえいえ……! って、言うのはちょっと半分くらいは嘘、で……。やっぱり憧れですよね、シンデレラのガラスの靴」
「本当にガラスだと、靴擦れで大変になっちゃいそうだけれどね。でも、そうね。確かに、女子としては一回くらいは履いてみたいかもね」
「……南さんも、ですか?」
 少し意想外だと言う意味を含んでいたせいか、南は少しだけむくれてみせる。
「私だって女子なんだから。……まぁ、人並みに憧れはあるって言う……」
「あっ、すいません、私……。ちょっとデリカシーなかったかもです」
「いいのよ、いいの。……まぁ、けれど、あの子なりに頑張っているのよね。前までなら、“知らん、勝手にやってろ”の一言で断っちゃえばいいのに。こうして着いて来るようになったんだもの。一歩前進かな」
 南のやるメルJの物真似が板についていたので、赤緒は少しだけ微笑ましくなってしまう。
「……ですよね。ヴァネットさんなりに私たちに……歩み寄り、みたいなこと、してくれているんでしょうか?」
「分かんないわよ、本当のところはね。けれど、いいじゃない。あの子の努力、買ってあげましょうよ」
「南ー、これ。これなら買えるでしょー」
 何度か思案した上で、エルニィが持ってきたのは黄色いピンヒールで南は渋い顔をする。「……エルニィ。あんた、どこの舞踏会に出るつもりなのよ。真面目に考えてる?」
「考えてるってば。ボクは一応、人機研究の権威だし。そういう場所にお呼ばれするかもじゃんか」
「……まぁ、じゃあ出してあげてもいいけれど……。これ、経費で落ちるかしら……」
 ピンヒールを翳した南に、ルイが今度はスケート靴を差し出す。
「南、私はこれ」
「……ルイ。あんた、絶対に真面目に考えてないでしょ?」
「失礼ね。冬になったらスケートリンクに行って、それで私はいち早く注目を浴びるから、練習用よ」
「……ったく、ああ言えばこう言う……」
 苛立たしげに後頭部を掻いて、南はスケート靴を検分する。
 赤緒はまだ少し時間がかかりそうだと思い、メルJの選んでいる棚へと歩み寄っていた。
「……その、ヴァネットさん……」
「うん? 何だ、どうした?」
「いえ、その……私が騒がなかったら、こうはならなかったんじゃないかなって……」
「何だ、お前なりに責任を感じてでもいるのか?」
「……少し」
 メルJは嘆息をつき、それから言葉を継ぐ。
「……少しだけ、な。考えてしまった」
「……モデル業の話ですか?」
「いや、お前らと一緒に、こうして馬鹿騒ぎしている自分と、モデルの自分、それに……これまで世界を駆け回って来た、犯罪者としての自分もな」
「それはその……どうしようもなかった話で……」
 こちらの対応に、メルJは深刻顔で大きめのサイズの靴を手に取っていた。
「……私にこんな……安息めいたものがあるなんて思いも寄らなかった、と言うべきなのだろうな。モデル業も、小河原が背中を押してくれなければ、今の私にとって重要ではなかっただろう。人機に乗ることも、だ。壊すばかりで、こうして……何かを作り上げることに意義を見出せずにいた」
「でも……ヴァネットさんは自分自身で決着をつけたはずです。それこそ、誰の力だって借りずに……」
「それも違う。……私はこうして……お前たちと居られて、そうだな。救われている、と思うべきなのだろうな。シンデレラのように華麗なストーリーではないが、アンヘルの一員としての、と言う身分は、それこそガラスの靴のようなものだろう」
 一夜で解けてしまう幻だと言っているのだろうか。
 それとも――約束一つでどこまででも続く関係だと、言ってくれているのだろうか。
 愚鈍な自分にはそれ以上の言葉を重ねて、メルJの傷を抉るのが何よりも怖く、今だけは下を向いてしまう。
「……赤緒。お前にも感謝している」
「……よ、よしてくださいよ。私、その、余計なこと言っちゃって……」
「いや、お前が居なければ、私は復讐で立ち止まっていただろう。お前も、黄坂南も、黄坂ルイも、立花の奴も、さつきも……。皆が、私の足場を整えてくれたんだ」
 何だかこうして改まって言われることはそうそうないような気がして、赤緒は面を上げる。
「で、でも……自分の足で立っているのは、間違いなく、ヴァネットさん自身の力ですよ。私が言うのもおこがましいかもしれないですけれど……」
「そんなことはないだろう。お前だって、トーキョーアンヘルの者たちに寄りかかりながら、こうして日々を過ごしているんだ。なら、こういった趣もまたいいのだろう」
 そう語るメルJは少しばかり晴れ晴れとしているように赤緒には映っていた。
 ――誰も信じられない恩讐の道。
 それを辿り終えたメルJの魂に安息はあるのか。
 だが、きっと彼女にだって救われるものがあって欲しい。
 だって、モデルもシンデレラも、女子の憧れなのだ。
 そして、ガラスの靴の魔法は決して解けないだろう。
 彼女自身が、この世界へと歩み出した証なのだから。
「ねぇ、メルJ……あんたもちょっとはこの子たちに言ってよ……。私、ここで散財している場合じゃないんだってば……」
 困り果てた南へとエルニィとルイが縋り付く。
「南ー、サッカーシューズ買ってよ!」
「駄目よ、南。私の靴が先なんだから」
 それを視界に留めて、メルJは今――静かに微笑んでいた。
「あっ、今……」
「ん? どうかしたか?」
「いえ……ヴァネットさん、そう言えばそんな風に笑うんだなって。結構切り詰めているイメージでしたので。すごく自然に、今、笑えていたから」
「……そうか。私はそんなに不器用に映っていたか」
「あ、いえ、違って……」
「冗談だ。赤緒、今自然に笑えていたとすれば、それもお前たちのお陰かもな」
 何だかこういう時にジョークを言えるタイプでもなかったような気がして、赤緒も少しだけ気を許す。
 彼女はきっと、一歩ずつでも歩み寄ってくれているのだ。
 ならば、その歩みを誰が邪魔できるだろうか。
「……ヴァネットさん、普段からすごく美人ですけれど、笑うともっと綺麗ですから……モデルの仕事、頑張ってくださいね」
「ああ、請け負おう」
「ちょっと、メルJに赤緒さんもー。この子たち、何とかしてよー」
「南、買って買ってぇー!」
「こっちが先よ」
 南の苦悩も今は少しだけ可笑しい。
 お互いに微笑みを交わし合い、赤緒はメルJへと言葉を添えていた。
「……今のヴァネットさんならきっと、シンデレラみたいに魔法がかかっているんだと……そう思いますから」

「――ねぇ! これ、見た?」
 マキがクラス中に響き渡るほどの大声で赤緒へと迫り、雑誌を広げる。
「マキちゃん……一応、雑誌とかの持ち込みは校則で禁止になってて……」
「じゃなくってさ! ここ! このモデルページ!」
 ページを捲り、指差されたのは白鳥を想起させる純白のドレスを着込んだメルJの立ち姿であった。
 流麗な身体のラインと、そして自信に満ち溢れた佇まい。
 何よりも――どこか愁いを帯びた眼差しは見たものを惹き付ける。
「……これ! この間の赤緒の神社に居た、凄腕パイロットのイギリス人だよね?」
「あ、うん……。そっか。ヴァネットさん、撮影終わったんだ。あの後、何にも言わなかったから……」
「すごく綺麗ですわね、この方。きっと、心も綺麗に違いありませんわ」
 泉の評も、今は自分のことのように嬉しい。
 モデル雑誌に写ったメルJの姿に、赤緒は頬を緩める。
「……そう、だよね。ヴァネットさん、とっても綺麗……」
 彼女が履いているのは、あの日のガラスの靴であろうか。
 素足に輝くその靴は、ともすればメルJにとっては栄光の舞台に立つために必要な、一夜の魔法なのかもしれない。
「……シンデレラが魔法でお姫様になったみたいに……ヴァネットさん、こういう道も、歩めるようになったんだ」
 いくつかメルJが撮影された写真に目を通す。
 自信に満ち溢れた女性であるのと同時に、少女のように可憐な瞳をこちらへと投げている。
 その在り方は、メルヘンのプリンセスのようで、赤緒は微笑みかけていた。
「よかった……」
「よかった? 赤緒、このイギリス人と親しいんでしょ? やっぱり、カッコいいんだよね? この人!」
 マキの期待に満ちた声に赤緒は、そうだね、と応じていた。
 自分の知る限り、とても気高く、そして――。
「とっても綺麗な、プリンセスみたいな……そんな人かな」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です