JINKI 244 カステラと思い出の味

 引き返した南にさつきは心底申し訳なさそうに応じていた。

「すいません……けれど、まさか南さんに買い出しに付き合っていただくなんて思わなくって……」

「別にいいのよ、それ自体はね。……問題なのは、私の金銭感覚がルイ以下だって言われちゃったことかしらね」

 やはり、争点はそこになって来るのだろう。

 南は何個かりんごを買い物かごに入れようとして、さつきは慌ててそれを制する。

「南さん。りんごは買い置きがありましたので……それは大丈夫ですよ」

「そうなの? ……それにしたって、いっつもこんな風に考えながら買い物してるんだから、赤緒さんやさつきちゃんには頭が上がらないわ……」

「いえ、柊神社の財政に関しては五郎さんが結構一任されていらっしゃいますので。……まぁ、それも込みで、家賃の滞納で怒らせちゃったの、まずかったですかね?」

「あれ、やっぱり怒ってるのよね……。だとすれば、そのー、どうすればいいかしら?」

 うーんと困惑する南に、さつきは菓子折りくらいは必要か、とそちらのコーナーにも顔を出していた。

「こういう時……何が必要なのかって私もよく分かんなくって……。えっと、カステラ、とかどうですかね?」

「カステラ……ねぇ……」

「何か、あるんですか? あっ、柊神社に買い置きがあるとか?」

「いや、そうじゃないんだけれど……ちょっと思い出しちゃうのよね。あ、これは五郎さんを怒らせちゃった一件とはまた別なんだけれど」

 買い物ついでの昔話を聞くのもいいだろうと、さつきはそれとなく促す。

「……何かあったんですか? たとえば、過去のアンヘルで……」

 南は後頭部を掻いて困惑する。

「そうね……今回の一件込みで……そういうこともあるんだって言う……」

 ――購買に訪れていた南は、棚の奥に積まれている物珍しそうなパッケージを視野に入れていた。

「あれ? 何なの、このカナイマに似つかわしくない、高級そうな箱だけれど」

「ああ、これは現太さんの注文でね。整備班を労わるために、日本から輸入注文して来たらしくって……」

 開かれた箱に収まっていたのは、小ざっぱりとした菓子であった。

「……何よ、これ」

「南さん、知らなかったのかい? カステラだよ」

「カステラ……? うーん、名前だけなら聞いたことは……」

 渋い顔をしていると、購買の職員は箱のブランドを指差す。

「ちょうど、東京なんかじゃ高級品なのかもね。現太さんも、たまにはみんなに故郷の美味しいものを食べて欲しいって言う親切心なのかもしれないけれど」

「へぇー……カステラって高級品なんだ?」

 興味深そうに眺めていると、相手は思わずと言った様子で手を引く。

「……あげられないよ」

「誰ももらおうなんて思ってないってば。……けれど、そうねぇ。じゃあ現太さんのところに持って行かないと。ここ、南米でしょ? 湿気もきついし、賞味期限とか近いんじゃない?」

「……妙なところ鋭いなぁ。それが、今現太さんは出払っていて……。ちょうど《モリビト2号》に乗り合わせての訓練らしい。青葉君もよくやっていると思うが、ポイントの指示や的確な操縦技能は現太さんにはさすがに及ばないだろうし」

「じゃあ、私が届けるわ。それでいいでしょ?」

「……言っておくけれど、高かったんだし、それに現太さんの注文だから……」

「だーから! 食べないってば! 私をどんな人間だと思ってるの? ……ちゃんと約束くらいは果たすわよ」

 購買の職員は疑わしそうに眺めてから、カステラの箱に刻まれている賞味期限と睨めっこする。

 急がなければいけないのは明白だ。

「……言っておくけれど、食べたら承知しないよ」

「任っかせなさい! 回収部隊ヘブンズを舐めないでよね!」

 南は胸元を反らして叩き、箱を手に廊下を抜ける。

「……それにしたって、カステラ、か。食べたことも見たこともなかったけれど……」

 早速、要らぬ興味が湧き出てきて、南は箱を開こうとしていやいや、と頭を振る。

「ここでおつかい一つもできない人間だと思われてどうするのよ! うん、よぉーし! 我慢よ、我慢……」

 ちょうどヘブンズの拠点まで戻ったところで、卓上に菓子を広げているルイと遭遇する。

「……どうしたのよ。変に勇み足で。南っぽくもない」

「ルイ! 《ナナツーウェイカスタム》をいつでも出撃可能にしておいて! 現太さんの一大事よ!」

「……どうせ一大事って言ったって、南の勝手な早合点でしょ。まったく、そそっかしいんだから」

「あんたにだけは言われたくないわね。……って、私たちの機体、また泥に沈んでるじゃないの! この辺はぬかるみだから定期的に上げてって言ってるでしょ!」

 仕方なく、南はカステラの箱をテーブルに置いて操主席へと上って行く。

 そうでなくとも雨季に入れば、南米のジャングルでは一挙手一投足の違いで人機は脚を取られるのだ。

 モリビトのような最新型だとしても、そのスペック上は変わらない。

 接地面積に対しての最適解の計算と、そして蓄積した技量だけが頼りとなる。

「えーっと……こことここを、っと。ナナツーのパワーと重量じゃ、ただでさえ動きが散漫だってのに」

 下操主席に収まって南は出力を最大に設定して泥を掻き出す。

 駆動音を響かせて、《ナナツーウェイカスタム》はようやくぬかるみを脱していた。

「これでよし……。昨日も雨降ったから、ちょうど滑りやすくなってるのよねぇ。ルイー、上がって来なさいよ」

「……いいけれど、これは?」

 そう指差されて、南は迂闊さを呪う。

 あっ、と声にした時には箱を空けて一切れをルイが口へと運んでいた。

「駄目だって! それは現太さんの……って、おっととっと……!」

 姿勢制御バランサーを崩しかけた機体を持ち直し、何とか脚部を安定させてから、南はナナツーから飛び降りる。

「ルイ! それ食べちゃ駄目って……何個食べたの?」

「たったの三切れだけれど……何なのよ。ここに置いてたから南のせいよね?」

「あーっ! もうっ! この悪ガキはちょっと目を離すとこれなんだからー!」

「……お菓子の置いてあるところに置く南が悪いんでしょ。差し入れかと思ったじゃないの」

「こんな高級な差し入れ、私たちにあると思う?」

「……ないわね。美味しかったけれど」

「……ちゃんと味わっちゃってくれて、こんの……。まぁ、三切れなら、ギリギリ許容範囲か……」

 箱を閉めてルイへと顎をしゃくる。

「緊急出動よ。《モリビト2号》のポイントまでナナツーで行くんだから」

「……これ、もしかしてそのための?」

「まぁ、現太さんが輸入してきたお菓子みたい。整備士のみんなへの労りの気持ちだってさ。さっすが、現太さん! 私が恋してるだけのことはあるわぁ!」

「……南の片思いは知らないけれど、お菓子の恨みは恐ろしいわよ。それだけで末代まで呪われるわ」

「……あんたが言うんじゃないっての」

 こつんとルイの頭を小突いてから、南はカステラの箱を覗き込む。

「……えっと、三切れ食べたのよね?」

「南、もしかして偶数ならバレないとか思ってる?」

「だ、誰もそんなこと思ってないわよ! ……ちょっとだけね」

 一切れくらいは誤差だと思ったのは事実だが、さすがにこれ以上手を出す気にはなれない。

《ナナツーウェイカスタム》の操主席に収まり、下操主としてエンジンを噴かす。

「いい? ルイ。それ以上食べたらさすがに言い訳も立たないわよ?」

「分かってるってば。南みたいに堪え性がないのと一緒にしないで」

「……どこでそんな言葉を覚えるのかしらね、あんたも」

《ナナツーウェイカスタム》の駆動系はしかし、ちょうど整備班に任せていたせいで僅かに浮つく。

「加えて雨の影響もあるわねぇ……。いつもの湿原よりもちょっとばかしペダルが重い気もするし……」

「南、さっさと用事を済ませてお菓子を食べましょうよ」

「……あんた、簡単に言うけれど、ここいらの植生を鑑みると、そろそろ推進力を上げたほうが……」

 ――その瞬間であった。

 ナナツーの片足が不意にすっぽ抜ける。

 機体のバランスが急速に傾いた瞬間、習い性の肉体が引き上げにかかっていたが、その時には滑った《ナナツーウェイカスタム》は滝壺へと落ちて行った。

 何度か衝撃と減殺の機構が交差した後に、南はくらくらする頭を上げる。

「……る、ルイ……生きてる?」

「何とか、ね。それにしても、厄介なところに落ちたものよ」

「あーあ……水浸しだし。ナナツーの駆動系もこれじゃ、ちょっとまずいわねぇ……」

 コックピットまで濁流が流れ込まなかったのは咄嗟にペダルを踏んで機体そのものを引いて姿勢を変動させたからだ。

 そうでなければ横転していただろう。

 滝壺の静けさとは裏腹に、事態はまずい方向に転がっている。

「……雨のせいで水位も上がってるし、それに比してこっち側はアンヘルの管轄外。……一応、救難信号は打っておくけれど、当てにはしないほうがいいわね」

 救難信号を打つも、有効になるのは何時間も先か。

 南は《ナナツーウェイカスタム》の有する性能を確かめさせる。

「……ペダルの深度は……うん、これくらいなら大丈夫そうね。それほど深くない場所でよかったわ。けれど、血塊炉には水は天敵だし……早く引き上げないと手遅れになっちゃう。ルイ。上操主、できるわよね?」

「誰に言ってるのよ。クロールにする? それとも、バタフライ?」

「……うーん、そんなお風呂にする? それともご飯? みたいに言われても……。早い遊泳法で頼むわ」

「じゃあクロールね」

 ルイの操縦技術が今ばかりは頼りになったこともない。

 青葉も卓越したものがあるが、さすがにもし滝壺に機体を水没させた時までのマニュアルはないはずだ。

 ゆっくりと、機体が推進を得て動き始めたのを、南は下操主席で仰ぎ見る。

「……あそこから落ちたんだ。手足が付いているだけでも幸運ねぇ」

 視線を投じれば、複雑に絡まり合った樹木の一部が削がれている。

 平時ならば滝に落ちるなどいう失態は冒さなかったのだが、連日の雨で滑りやすくなっていたのと、視野が狭まっていたのは釈明もできない。

「……あーあ、これじゃあせっかくのおつかいが……」

「南、そこの地表に引き上げるわ。出力を上げて」

 ナナツーのマニピュレーターがようやく岸にたどり着き、人間がそうするように腕の力だけで起き上がろうとするが、人機は――殊にカスタムタイプであるこの機体にはコンテナの比重もある。

 それを制御し、上手く機動系統を維持するのが下操主の役割でもある。

 泥の水底を蹴って、ようやくナナツーの躯体が地面に投げ出されていた。

「……酷い目に遭ったわねぇ。それにしたって、これじゃあ今日中に助けが来るかも分かんないわよ」

「南が足元の制御を間違ったせいでしょ。私には非はないから」

「……こんのガキャ……って、怒ったって無駄か。今は少しでも体力の温存を……ルイー。確か携行レーションがナナツーには搭載されていて……長時間の任務も……」

 しかし、頼みの綱の携行レーションは先のクロールによって水没していた。

「あー……これはさすがに食べれないわね……」

「食べ物ならそこにあるじゃないの」

 ルイが指差した先にはカステラがあり、南はその誘惑にいやいや、と頭を振る。

「駄目よ! ルイ! ……これは現太さんに届けるって言う、ちゃんとした任務が……」

 そこまで威厳たっぷりに口にしたところで不意に腹の虫が鳴る。

 そう言えば何も腹に入れずに出撃したのだったか。

「……ねぇ、ルイ。何か食べれるもの、持ってない?」

「さっきテーブルで食べていたので全部よ。そもそも遠出するなんて思ってないし」

「……まぁねぇ……。遠出するにしたって私たちは普段はレーションやらその場しのぎのキャンプやらでどうにかできているんだけれど……頼みの綱のレーションは水没。キャンプ用具は置いてっちゃったのは痛いわねぇ……」

「そもそも、出撃の打診もしたの? そうじゃないと永久に助けなんて来ないわよ」

 言われてみれば、出撃の合図も出さずにここまで来たのならば自己責任だ。

 アンヘルの中継基地にシグナルは行っているとは思うが、それはほとんど神頼みのようなもの。

「……じゃあどうすんのよ……これ。私たち、こんなところ飢え死んじゃうわけ?」

「何をうろたえているのよ、南。こんなこと、今までだって何回かあったじゃないの」

「……そりゃあー、滑落したりだとか、想定外の断崖絶壁まで追い込まれたこともあるけれどさー。基本的に戦闘はしないって方針のヘブンズなんだから、あまりこういうことに長けたわけじゃ……」

 そう言っている間にもルイはひょいとカステラの箱を手に取り、もぐもぐと頬張る。

「なかなかに美味しいわよ、これ」

「あーっ! ルイ、何食べちゃってるのよ!」

「非常事態だし、別にいいでしょ」

「だから! これがおつかいなんだってば! ……あー、もう半分も食べちゃって……」

「南、死んじゃったらそこまででしょ。おつかいを完遂するのも、そもそも生きて帰るのも」

 何故なのだか、この時ばかりはその説得に逃げたくなったのは確かだったが、南は必死に自身を奮い立てる。

「い、いえ……っ! これくらいできなくって、現太さんのお役になんて立てないんだから!」

 ――時刻はとうに夕刻を回り、周囲が暗くなってきた。

 遠くを鳥が飛んでいく。

 その反響する鳴き声を聞きながら、南は計器を睨む。

「……うーん、返答はなし、かぁ……」

 脇に入れたカステラの箱が視野に入る。

 駄目だ駄目だ、と南は誘惑から逃れようと視線を逸らす。

「……けれど、もしこのままで? 助けも来なくって……私たちも飢えちゃって……」

 いつもならば脳裏を掠めもしないマイナス思考が支配したのは、糖分不足と空腹のせいだろうか。

 きゅぅ、と弱々しい腹の虫が鳴き、南は大仰なため息をつく。

「……このまま、何日も経って……それでおばあちゃんになっちゃったりして……」

「南、そんなバカみたいな空想している暇があったら、ナナツーの制御盤の点検、変わってちょうだい。ショートしちゃってるんだから、泥とかも悪影響だし」

「……ルイー、あんたも薄情よねぇ。もうちょっと配慮って言うか……優しい言葉かけるとかさぁ!」

「知らないわよ。南が勝手に自滅したんでしょ」

「……あんた、お腹空いてないの?」

「お菓子はお腹に詰め込んできたから、今のところは」

 しかもルイはカステラを半分食べているのだ。

 これは、飢えるのが時間の問題なのは自分だけなのかもしれない。

 南は仰向けに寝転がり、あー、と声を出す。

「このまま……何もできないまま死んじゃうの? それは嫌だし、何よりも……っ! 我慢して死ぬなんて真っ平御免よ!」

 起き上がるなり、南はカステラの箱を手に取る。

「……ルイ、あんたが半分は食べちゃったんだからね」

「だから何よ」

 カステラを取り出し、ルイへと半分だけ差し出す。

「……共犯。私だけ我慢してなんて、そんなのは一番損だもの。あんたも食べなさい」

「……私はもう食べたわよ」

「それでもよ。こうしてちゃんと、共犯関係を結ぶのって大事でしょ?」

 ウインクした南にルイは澄ましたまま、カステラを掴む。

「言っておくけれど、元々要らない仕事を引き受けたのは南よ」

「あら、言うじゃないの。けれどまぁ、カステラひと箱分の共犯関係よ、それも。さぁーて、いっただきまー――」

 食べようとした瞬間、声が劈く。

『南さん! ナナツーの救難信号が届いたって……!』

 拡張された青葉の声に、投光機の光で映し出された南は素っ頓狂に応じる。

「……あ、青葉……? って、《モリビト2号》……?」

『黄坂! 滝壺に落ちたってんなら、ナナツーの駆動系じゃ上がれねぇはず……だよな? 何食ってんだ、お前は』

 両兵の声が滝壺の中に反響して南は大慌てで箱にカステラを隠す。

「な、何でもないんだってば! そう……助けに来てくれたのよね?」

『そりゃー、そうだろうが。……つーか、今、何か持ってなかったか?』

「気のせい! 気のせいだから! じゃあ、コックピットに乗るから、ちょっと待ってちょうだい!」

 言い置いて、南は《ナナツーウェイカスタム》の陰に隠れてルイの首根っこを引っ掴む。

「……さっき、信号はまだ来ないって言ったわよね?」

「そりゃ、時間差はあるでしょうね」

 ルイはカステラをもぐもぐと頬張っている。

 自分だけ損するのは何か癪で、南もカステラを口に放り込んでいた。

 途端、身が解けるほどの甘みが口の中で広がる。

「……うーん、これこれ……。お茶が欲しくなるわー」

「南、ババくさい」

『おい、まだかよ! モリビトで引き上げてやるって言ってんだからよ!』

「ちょ、ちょっと待ちなさいよー! ……ルイ、これ、絶対言っちゃ駄目だかんね」

 カステラを次々と手に取ってナナツーの機体の陰に隠れて拝借する。

 何だか背徳の味がして、南は身に染み渡っていくのを感じていた。

「……何回目かしらね、南との共犯。よくある話じゃないの、こんなの」

「今回は現太さんへの補給品だったんだから。ひとしおってもんよ」

「太いわね、相変わらず」

「何よぅ。図太さを失ったら黄坂南じゃなくなる、でしょ?」

 その問いかけにはルイもカステラをぱくつきつつ、首肯する。

「そうね、南に殊勝さなんて一生似合わないわよ」

「――おや、さつきさんに南さんも。買い物は終わったんですか?」

 台所に顔を出した五郎に、南は申し訳なさそうに応じていた。

「あっ、五郎さん……。その……この度は大変、失礼なことを……」

「いいんですよ、もう怒ってませんから。たまには南さんにも赤緒さんやさつきさんのやるような買い出しを手伝ってもらったほうがいいと思っただけですし」

「……えっと、これ、でもお詫びの印に……」

「おや。カステラですか」

 差し出したカステラに五郎は柔和な笑みを浮かべる。

「……こんなに気を遣われると、何だか申し訳ないですね。本当に怒ってないんですよ?」

「いや……けれど……この度は一応、家賃の踏み倒しみたいなことをしちゃったわけだし……居候としてはやらないと気持ちがハッキリしないって言うか……」

「……分かりました。お茶菓子としてみんなで食後に食べましょうか」

 五郎はカステラを受け取って下がっていく。

 さつきは笑顔を寄越していた。

「……よかったんじゃないですか? これで、ルイさんと南さんの使い込みもさすがに不問ってことで」

「……いやー、緊張しちゃう……。お歴々相手に気を遣うのとはまた違うんだってば。……さつきちゃん、今日はシチュー?」

「ええ、ビーフシチューにしようと思って。それにしても、何でふた箱も買ったんですか? ひと箱だけでも充分だと思うんですけれど」

「うーん、まぁね。昔話ついでに、ちょっとね」

 ビーフシチューの仕込みはさつきに任せ、南はそれとなく、ルイの部屋の扉をノックする。

「合言葉は? 谷」

「川……じゃなくって。あんたも自分の金銭管理はちゃんとしなさいよね。お陰様で私が五郎さんに怒られちゃったじゃないの」

「家賃の管理なんてしてたら来月のゲームが買えないでしょ」

「……そんなことだろうと思った。ルイ。合言葉。滝壺、カステラ」

 その言葉にルイが扉を開く。

「……呆れた。使い込みを怒られたのに、そんなの買って来たの?」

「けれど、思い出の味でしょう? 私たちにとっては特にね」

 掲げると、ルイが自分を部屋に招く。

 思い返せば、ルイの部屋に入ったのは片手で数えるほどしかないかもしれない。

 勝手に巣立ったと思い込んでいたのか、あるいは親離れ子離れが必要だと思い込んでいたのか。

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